純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号189 『異類恋愛譚』                    壱  それは木々も沈黙する、風の無い静かな春の夜のことでした。向こうの空には満月が姿を現し、川に映る自らの美しさにうっとりとしています。この森で満月に一番近いところ、最も高い崖の上にこの森が今の姿になるのをすべて見てきたかのような、どっしりとした大きな木が満月に照らされて、誇らしげに立っていました。  その木の側の穴の中では、一匹の熊があまりに腹を空かせていたために眠ることが出来ずにいました。いよいよじっと身を横たえていることに耐えられなくなった熊は、自分の穴から這い出て、その大きな木に登りました。熊が登ってもその太く頑丈な幹はびくともしません。そこからは森全体が見渡せます。いつもより一層明るい月の光のなかで、木々の緑が幻想的に浮き上がって見えます。何者も音を立てないので、熊の細く長い溜息が、どこまでも、どこまでものびて、遠くへ運ばれてゆきます。  その時、月が自らのナルキッソス的欲望を満たすための道具として選んだ向こうの川の中で、何かちらり、ちらりと変則的に光るものが見えました。すべてが黙しているはずだというのに、熊は確かにその時何かがさわさわと音を立てるのを聞きました。  熊は木から下りて崖と逆側の斜面を滑り降りて、まるで操られているかのようなしなやかな動きで、川へと近づいて行きました。熊はさわさわという音が少しずつ強くなってゆくのを聞きました。  川の中をきらきらと動いていた何かは、熊が川のほとりに目を凝らしながら近付くと、ぴたりと動きを止めました。  「こんばんは。」  熊は言いました。  「こんばんは。」  しゃべると鮭のうろこはまたきらきらと、七色に光を反射させました。  「どうしたのですか?こんな明るい夜に出歩くと猟師に見つかりますよ。」  と、鮭は言いました。  「お腹が減っていて眠れなくて。」  と、熊は消え入りそうな声で答えました。  「私を食べに来たのですか?」  恐れるでもなく、むしろ微笑みながら鮭は言いました。  「食べるだなんて、そんな。ただ僕は眠れないから、あちらのてっぺんの木からここを見渡していたのです。そうしたら川の中で何かが光るので、気になって来てみたのです。君はなんて美しいのでしょう。君のように七色に光る鱗を持った鮭を、僕は今までに見たことがない。」  鮭は川の中でくるりと輪を描いてから、こう言いました。  「私はそのようなもの、持っていませんわ。でも貴方がそう言うのなら、今日は特別にそんな風に光ることが出来ているのかもしれません。川のおもてには満月が映っているというのに、そんなことを言うと月が拗ねて、雲の陰に隠れてしまうかもしれません。満月は嫉妬深いのです。」  「僕は、そんなこと怖くはありません。」  熊は毅然として言いました。  「いいえ、もうお帰りなさい。月が道を照らしているうちに。もし次の満月の時にまた、月が私を七色に照らすようなことがあるのならば、その時にもう一度いらっしゃい。」  そう言い終えると、鮭はまたきらり、きらりと光りながら奥へと泳いで行ってしまいました。  「必ず来るよ。」  と、その後姿につぶやくと、熊は自分の穴へと帰ってゆきました。  住処に着くと、すっかり腹を空かせていた事は忘れてしまっていましたが、いよいよ何かがざわざわと音を立て、熊を煩わせたので、眠ることは困難でした。  満月が沈み太陽が顔を出す頃、熊はその音が自分の中から響いて来ていることに気が付いたのでした。  「ああ、僕の心臓は壊れてしまった。」  熊は疲れ果てて、興奮していた神経のひだを伸ばすように、眠りに落ちてゆきました。                       弐  夏の近づいた、或る満月のことでした。  「こんばんは。今日も美しい鱗をしているのだね。」  と、熊は鮭に挨拶をしました。  「こんばんは。私を食べに来たの?」  鮭はお決まりの意地悪を言いました。  熊は川のほとりにかがんで、手で川の水をかきながら、  「君は涼しそうだね。」  と、言いました。  ふっと右のひれを動かすと、  「涼しいって何のことです?」  と、鮭は言いました。  「ああ、君は不思議だね。僕は水の中では生きてゆくことが出来ないのに、君はそこで自由に呼吸をし、ゆうゆうと泳いで廻るのだ。」  手で水をかくたびに、満月が拡散し、鮭の姿までぼやけてしまうのが、熊にはたまらなく感ぜられるのでした。  「貴方は束の間にしろ、水の中を私のように泳ぐことが出来るではありませんか。私には、地上に上がることが叶いませんの。足というものを持って、大地を踏みしめることが出来たら、どんな感じがするのでしょうね。」  鮭は熊の手に近づいて、熊の中指を優しく口でつつくのでした。  「ああ、君。いけないよ。幾ら気をつけても、ふとした折にこの鋭い爪が君を捕え、君の腹部の美しい銀色を引き裂いてしまいかねない。」  鮭が今度は薬指の辺りをつついて言いました。  「それでいいのです。きっと、それがいいのです。」  それを聞いた熊は目を伏せてこう言いました。  「そんな事言わないでおくれ。僕は君に出会って、如何に自分が片端であったか、気がついたのだよ。如何に自分が不足した存在であったか、初めて気がついたのだよ。今君を失って、元の孤独の中に落ち込むなんて、とても耐えられそうに無い。」  鮭が動くので、水面がゆらゆらと揺れました。  「ただ私は貴方とで、一つに戻りたいのです。私たちの本当の世界に戻りたいのです。」  熊が川から手を引き抜いて言いました。  「僕の方こそ、水に溺れて沈みながらじわりと死んでゆく夢を、寝ても覚めても見てしまうのだよ。それがね、溺れるのは苦しくもあるのだけれど、どこと無く観念的かつ絵画的で、甘美でさえあるのだよ。君と同じ世界で生きたい。君と同じ目で世界を見たい。君に触れたい。」  「満月が向こうの空に沈んでゆきます。もうお行きなさい。」  月が沈みながらも二匹をじっと見据えていました。  「次の満月に。」  熊は行っては立ち止まり、振り返ることを繰り返しながら、住処へと帰ってゆきました。                     参  秋になり、森が黄色や赤に色づいた或る満月の晩のことでした。  「こんばんは。」  と、熊は言いました。  「ねえ、そろそろ私を食べてちょうだい。」  と、鮭は言いました。  いつもの冗談だと少し笑った熊に、鮭はもう一度言いました。  「私を、食べてちょうだい。」  「君は一体どうしてしまったのだ。」  さすがに熊も驚いて言いました。  「もう秋になるのです。本来ならば私は夫を貰い、この川を上って、子を産まねばならないのです。そうして死ぬ運命にあるのです。もちろん夫を貰う気も、子供を産む気も無いけれど、そうでなくても近いうちに私は死ぬでしょう。それならば、私は貴方に見取られたいのです。私は貴方の手にかかって死にたいのです。ねえ、最後のお願いをきいてちょうだい。いつも話してくださるあの木の上に連れて行って、そして私を食べてちょうだい。」  その時、どこか背徳的な幻想が二匹を支配し始めていました。  「でも君を失ったら、僕はどうやって生きて行ったらいいのかわからない。君がやってくれ、僕を食べるのだ。」  「いいえ、物理的にそれはなりません。さあ、貴方。勇気を出しておやりなさい。あの木の上に登ってここを眺めたら、どんなに素敵でしょう。」  「君の唇も目玉も全部、頭ごと食べてしまおう。僕は君のその淡紅色の肉も全て食べるから、君は僕の中で、僕の心臓を食べればいい。それでなくたって、君といると途方も無く心臓がわさわさする。がさがさして仕方が無いから、取り外して掻きむしりたいくらいだ。そう、もし取り出すことが出来るなら、君にそれを捧げたい。」  熊は両手で水と共に鮭をすくうと、鮭が乾いてしまわない様に、一目散に自分の住んでいる穴の前の大きな木を目掛けて走りました。  走れば走るほど、手から水がこぼれ、風が無残にも鮭の身体から水分を奪ってゆきます。木を登り終えた時には、鮭はえらをぱたぱたと時折動かすのみでした。  森を見下ろすと、ぽたりと涙を落とし、  「ああ、私のように幸運な鮭は、他に何処にもいないでしょう。有難う。」  と言うが早く、がっくりと動かなくなりました。  熊が鮭の腹部にかぶりつくと、心臓がまるで張り裂けんばかりに熱くなり、掻きむしろうとした途端、バランスを崩して木から落下し、そのまま崖の下へと落ちてゆきました。  その時熊の目は、木々も崖の下も満月さえも映すことが無く、ただ鮭の姿だけをとらえていました。熊はもう二度と離れずに済むように、鮭の身体をしっかと握っていました。鮭の身体から鱗が一つ一つ剥がれ落ちて、空に上がり、別々の色に光る七つの星になりました。  その時、不思議なことが起こりました。  それというのも、生まれたときのように上から下へ、地上や水の中へと落ちるのとは逆に、元居た処に帰る時は下から上へと、空の方へと落ちるのです。  二匹の身体は、重力とは反対の方へ、上へと高く高く落下していきました。上へと落ちながら、鱗もひれも眼球も尻尾も骨も爪も、無駄なものは全て剥がれていって、最後には魂だけになりました。  二匹のものであった魂は、離れまいと互いに絡み合い、もつれ合い、仕舞いにはどの部分がどちらの部分なのか区別がつかない程に混じり合いました。そして、とうとうたくさんのそういった魂の完全体で構成された、地球という名の惑星の近くに辿り着きました。その惑星の周りをきしきしと廻りながら、余程近づいて行ったかと思うと、その一部へと取り込まれて、その惑星の奇跡と美しさを、いつまでも形成し続けました。
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