純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号187 『松風』  知多半島を臨む、風光明媚なP町の古いこぢんまりしたホテルに宿泊した宣家鏡子は、十年前に三十六歳の若さで亡くなった、甥で水彩画家の宣家行平が、生前よくこのホテルに滞在し絵を描いていたことを知っていた。それほど美しい景色とサービスの行き届いたホテルであり、夫人はかねがね訪れたいと思っていたのである。鎌倉の家から知人の結婚式に出席するため名古屋へ出かけて、その帰る道すがらにふと思い立った。  夏休みも過ぎ、行楽シーズンにはほんの少し間のあるこの季節、名古屋のホテルから予約してもらうと存外簡単に部屋が取れた。ホテルの名をフロントに告げるとうなずいたのは、やはり名古屋あたりまで聞こえたホテルらしい。国鉄のG……駅から迎えの車に乗換え、松林の点在する海辺のホテルに夫人が降り立ったのは、初秋の柔らかな夕暮どきだった。  このあたりは江戸時代から美しい風光が有名で、明治になるといにしえの殷賑★いんしん★から遠くなってはいたが、かえって名残の雰囲気が上流階級に愛でられ、大正期には旧大財閥L家が別荘を建てた。それが戦後ホテルとして買い取られて、古い屋敷は今も建てられた当時そのままのアール・デコ様式をとどめていた。戦後できたホテルであるのに、老舗の風格があるのはひとえにこの建物のたたずまいのせいである。別館には和室の部屋もあったのだが、夫人は海の音がかすかに聞こえ庭から松林の見える本館奥のスイートルームを選んだ。たまには洋室で過ごすのもよい。  夫人は食堂での夕食を断り、紅茶とちょっとした果物の盛り会わせのルームサービスを頼んでおいた。 「二時間後でよろしいわ」  名古屋でついついぐずぐずして、おそい時間に昼食とっている。七十歳を過ぎた夫人は、もう重い夕食をとらないでおくつもりだった。  部屋は昔風のたっぷりした間取りで、フランス窓の向こうはテラスを抜けて、小さな庭が続いていた。テーブルといい椅子といい、古風にしつらえた喫茶室のようで、夫人は若い頃夏を過ごした別荘を思い出した。あれは山間にあったのだが。  夫人は庭先をぶらぶらして新鮮な大気の香りを楽しんだ。もうすっかり秋の気配だった。  テラスに立つと、庭から緩やかな傾斜になって白浜が海に続いていた。松林が近くにあって庭を守っている。松を通る風の音が天から降って来る。そうだ、今日は仲秋の名月、例年より早いんだわ。  鎌倉の家に電話をし、夫と娘と孫たちの声を順番に聞いた後、華奢な夫人には少し大きすぎるバスタブでゆっくり湯に浸かった。一泊の旅行のつもりだったのに、着なれたガウンを持ってきてよかった。ここに二泊するつもりである。  夫人は寝室の鏡に写る自分の湯上りの顔を放心したようにながめた。 お見合いの席で初めて会ったとき、夫は自分のことを「なんだか巫女さんみたいな雰囲気の娘さんだ」と思い、その印象を行平の父である兄に話したそうだ……。  夫人は化粧水、乳液を顔にたっぷりとつけた。 夫の兄夫妻に初めて会った時、兄嫁はお腹に行平がいた。長い間待ち望んでもうすぐ誕生する赤ちゃんのことで兄嫁は幸せに輝いていた……。  表のドアをノックする音が聞こえた。メイドがお茶のセットと果物の薄切りを盛り会わせた皿を運んで来た。無造作にサインをして寝室に戻り今度は乳液を首につける。寝室の向こうでテーブルにお茶をセットしたメイドが出て行き、パタンとドアを閉める音が聞こえた。  戻って来て、テーブルの前にゆったりと座りポットをかしげて紅茶をそそぐ。香しく柔らかな湯気がふわふわと立ちのぼった。更紗模様の安楽椅子が身体にそって気持ちよい。  夫人がお茶を飲もうとした時、メイドがまだ部屋に残っていることにやっと気づいた。光を落とした部屋の隅で、かしこまるようにひっそりと控えている。  もう伝票にサインしたはずだけど、ほかに何の用事があるのだろう。チップの要求は日本では考えられない。しかもメイドはふたりいた。おかしい。お茶を運んで来たのはこの人たちだったかしら……?  音の立たない柔らかい低い靴。控え目な小さいエプロン。小麦色の顔には似合わない紺色のメイド服。小麦色? 違う、この人たちじゃなかった。さっきのメイドと入れ違いに部屋へ入って来たらしい。  メイドのひとりがまっすぐ夫人を見つめて口を開いた。 「奥様、おくつろぎのところ、まことに申し訳ございません。奥様はひょっとして、行平さんの叔母さまの宣家鏡子さまでいらっしゃいますか」 「行平? 行平ってうちの行平のことですの?」夫人は柔らかな眉をあげた。 「はい。宣家行平さんのことですわ」  若い女が落ち着いた声で言った。  若いといってもその声と表情の落ち着きから見て、三十歳を過ぎているだろう。身体つきは豊かで手足はすらりと伸びている。ほとんど化粧もしない丸顔でしっかりした男眉、中高の端整な顔立ちは小麦色に焼けている。  さらにもうひとりの女が続けた。 「私たち、甥御さまとお親しくさせていただいておりました」  こちらは三、四歳ほど年下だろうか、よく似た顔立ちだがもう少しふっくらしている。 「まあ」  夫人はどう答えてよいものかわからなかった。  甥の行平は風景画家でしょっちゅう旅行をしていた。ここのホテルは何年かに一度くらい長逗留していたようだ。そのおり土地の若い娘とつき合ったことがあるのかも知れない。しかしふたりとは……。  年上の方の女が言った。 「どうぞお茶をお召し上がり下さい。冷めてしまいますわ。私たちにお会いになられるのがご迷惑じゃなければよろしいんですが」  とっさに夫人は覚悟した。まさか隠し子がいるとかそんなことではあるまい。それならば行平が亡くなった時に名乗りをあげるはずである。よろしい。こちらに来たのも何かの縁だ。返って行平への供養になるかも知れない。夫人は一口紅茶を口に含んだ。人前で自分ひとり食事をするのは、幼い頃から人にかしづかれて育った夫人には苦にならなかった。 「何かお話がおありのようですね。伺いますからこちらにお座りになって」  女たちはためらっていたが、やがてそろそろとソファに近づいてゆっくりと慎重に座った。  夫人はもう一口紅茶を飲んだ。おかしいこと。まるで身体が辛いことに耐えているみたいな座り方だ。立っている方が楽みたいだ……。  年上に見える女が代表して話すようであった。 「ありがとうございます。このような格好で失礼いたします。私たちは奥様にお伺いしたいことがございます。もしかして私たちの話し方やしぐさが奥様にはご不快に思われるところがあるかも知れません。私たちは以前はこんな風ではありませんでした。今ではもうこんな話し方しかできなくなったのです」  夫人は一見単調に物静かに話す女が、実は大変な努力をしていることをぼんやりと感じた。何か恐ろしい力と戦いながらやっとのことで話しているようだった。ふたりの女の緊張がピーンと糸を張ったように夫人の方に伝わって来た。 「よろしいのですよ。どんな風にお話されても。ちゃんとお聞きしますわ」  まっすぐふたりの女を見つめて話す夫人の優しい声には力があった。女たちは夫人の態度にほっとして眼に見えて緊張がゆるんだ。  外の松林を吹き抜ける風の音が、部屋のなかへ、ひそやかに響いて来た。  私たちは姉妹で、松村と申します。名まえをこれ以上名乗るのはお許し下さい。  私たちは行平さんとのことで親族からうとまれております。一族には体面もあり、また親族たちとは違う形ですが、私たちにもございます。それに私たちの名まえをひとりひとり奥様に申し上げても無意味なことでしょう。私たちは行平さんを思う心ではひとつのものになってしまったのですから。もうそれ以外に私たちを識別するものは、せいぜいどちらが先に生まれたか、くらいでしょう。私は姉の方で、妹は三つ違いです。  松村はこの土地に古くから住んでおりまして、もともとこの土地には松村、山元、広崎井口、この四氏しかありませんでした。後から来た人も大抵このどれかに繋がっております。この地方には門徒衆が多いのですが、私たちは以前からありました浄土宗を信心しています。  松村の家は代々漁師でした。大正時代にL家の別荘が建てられて以来、漁で採れた魚貝を別荘に納めたりざまざまな雑用をしたりしておりました。三十年前、GHQの財閥解体でL家が別荘を手放してホテルになってからも、そういう関係は続きました。私たちも小さい時から何かとお手伝いすることが楽しみのひとつでした。お手伝いといってもこどものすることですから、返っておとなの邪魔になっていたかも知れません。ホテルのオーナーは当然のこと、支配人を初め主だった方がたはもちろん東京から来ておられますが、それ以下の従業員はこの土地やG……市出身で、いわば身内の者ばかりだったのです。  このあたりの小さな浅瀬の浜は、近年になって護岸工事され、白い砂浜はもうこのホテルの前にある浜と、あとかなり離れたところの数ヵ所しか残っておりません。それまでは、こどもたちが夏、海で遊ぶのは当たり前でした。私のこども時代にはそういった美しい小さな浜がいくつもありました。旗のついた浮きが浮いていて、そこまではこどもたちが泳いでよいところでした。ある日こどもがひとりいなくなり、捜索の結果浮き旗の向こうで見つかった痛ましい事件がありました。海底が窪んで壺のようになっているところで発見されました。  私たちの祖母は伊勢の海女でした。漁師だった祖父とどんな風に知り合ったかは聞いておりません。伊勢といえば、東海道線や紀勢線をたどって行けば、とても遠いように思われるでしょうが、海からだと案外近いのです。この海のはるか向こうの対岸になるのです。昔からこちらと伊勢との行き交いはよくあったと聞いております。  家には、祖母が伊勢から持ってきた、大きな貝のお鍋や石臼や、幼い時に遊んだ箱入りの小さなお人形など、いろんなものがごたまぜにまだ残っていました。貝のお鍋は木の取っ手がついていて、もう今ではあれほど大きな貝など取れないでしょうね。この鍋でよく卵の貝焼きを作ってもらいました。  祖母は家族のものに、伊勢國★いせのくに★は神の住まう美しい国だと言っていました。朝晩海辺に立って伊勢の方角に手を合わせておりました。幼い私たちも、祖母にならって、朝早く浜辺に出た時、海の向こうにある美しい伊勢の国に向かって手を合わせました。  小学校の団体旅行で伊勢に行く機会があり、私はわくわくしていました。  伊勢湾、鳥羽湾、志摩半島。海に浮かぶ緑の迷路のようなリアス式海岸線。真珠と水族館のイルカたち。にぎやかなおかげ通りのそばにあるひっそりした人影のない寺院。伊勢神宮内宮の、錦鯉や紅葉を模様にした女神様の御裳裾★みもすそ★のような五十鈴川。内宮のお庭をゆるゆるお散歩したりまどろんだりしている、神にお仕えする美しい鳥たち。千年をはるかに超える時をかけて、ちりひとつないくらい整えられた伊勢の山々の優しい稜線。祖母が言っていた伊勢はそれらすべてに含まれているようで、また別のところにもあるような気がしました。三年後、妹も伊勢に参りました。  まるで月が部屋のなかに入り込んできたかのように、突然女の顔はさえざえとしてきた。  私たちが行平さんに初めてお会いした時、あの方はちょうど十八になったばかりでした。お父様お母様とおさん方でひと夏をこのホテルに滞在なさったんです。  車が浮き世離れしたこのホテルの車寄せから玄関に停まって、初めに出て来た少年を見て私たちは息をのみました。あんな少年には会ったことがありません。まるでお日様が姿を現わしたようでした。少年のあとから上品な中年の男女が車から降りて来ました。私たちは根がはえたみたいになっていました。行平さんのご両親は、ホテルに来て一番先に出迎えたのがほんの幼い少女たちだったのがおかしかったらしく、私たちにほほ笑みかけました。少年は長い足でもう数段の階段を上がって玄関に入るところでした。  それ以来、私たちはふたりとも夢中になって行平さんを見守りました。私たちは太陽に顔を向け続ける二本の向日葵★ひまわり★でした。行平さんのお母様は、そんな少女たちをただ可愛いと思って下さって、にこにこしてご覧になっていました。お父様も立派な紳士で、顔立ちが行平さんによく似ておられました。私たちの名前をすぐ覚えて可愛がって下さいました。お父様は、行平さん母子をこのホテルに連れておいでになると再び東京へ帰られて、週末にはこちらに戻ってご家族三人で過ごされました。  行平さんは海に泳ぎにいったり、受験勉強やデッサンをしたりしていました。時々東京から絵の先生が見えられました。東京の芸術大学を受験されるようでした。行平さんは背こそ伸びていましたが、ご両親からただひとりの子として可愛がられて育ったせいか、こどもらしい感じが抜けていませんでした。  初めて三人で話したのはこの浜辺です。朝早くと夕暮時に行平さんは泳ぎに来ていました。私たちも朝は連れ立ってよく浜辺に来ておりました。あの方をただながめているだけで充分だったのですが、何がきっかけだったか、行平さんの方から話しかけてこられたのです。私たちはおずおずと返事しました。土地に古くからあることばで語尾に「なも」を付けます。「それでなも」と言う風に。行平さんはその女の子の話し方がたいへん可憐な風に聞こえたのです。それ以来、私たちは行平さんと同じにして、朝晩海で泳ぐようになりました。私たちはどんどん親しくなっていきました。その夏、私たちはこども時代最後の、そして本当の夏休みを過ごしました。  夏の終わり、海に三角波とくらげが現れ始めた頃に、行平さんご家族はこのホテルを去られました。その時はホテルの人びとがほとんど全員玄関に集まってお見送りしました。私たち姉妹は走りながら手を振り、行平さんも行平さんのご両親も姿が見えなくなるまで手を降って下さいました。  行平さんご家族がこの土地に来られたのはその時一度だけで、翌年からは信州の高原の山荘で過ごされました。お母様が身体を悪くされたので、海の潮風はきつすぎるのではということになったそうです。それ以来ご両親とはお会いしたことがありません。    行平さんが再び私たちの前に姿を見せたのは三年後、何人かの大学のお友達と一緒でした。もうこどもらしいところは影をひそめていましたが、一目見ただけであの方だとわかりました。あの方も、ロビーの離れたところにいる私たちをすぐおわかりになったようで、眼をみはられて「やあ!」と手を上げられました。輝くような姿の青年になっておられました。  その時はわずか一週間の滞在でしたが、その後何度もふたりで繰り返し思い出して語り合う、いくつもの気の遠くなるような出来ごとが起こりました。あの方の私たちを見るまなざし、その声、そのしぐさ。つまり初めて恋というものを知ったのです。姉妹はいずれ別れてそれぞれの人生を歩み出します。しかし私たちはともに行平さんを恋することによって、いっそう深いきずなで結ばれたのでした。  それから二年後に三人は再び会い、一緒にひと夏を過ごしました。私たちと行平さんは恋人同士になりました。行平さんは、大学を卒業し新進の画家として一歩を踏み出されたばかりでした。私たちはこのホテルで正式にメイドとして雇われておりました。  行平さんは母方のお祖母さまが残された遺産をすでに相続されていて、独立して暮らすことがおできでした。絵を描くのにふさわしい美しい風景は、北海道から沖縄まで全国至る所どこにでもあります。どこへ行こうとご自由です。行平さんはこの土地をわざわざ選んで下さいました。私たちに会いに来て下さったのです。私たち姉妹のうちどちらかひとりが欠けても、行平さんとの関係は壊れてしまっただろうと思います。  行平さんは昼間ホテルで絵を描き、夜浜辺や私たちの家で会っていました。このあたりは完全にホテルの専用浜で夜は人どおりもありません。私たち三人の海、逢瀬の時間は三人のものでした。月がのぼると波の上に月の光がかかって金粉をまいたようでした。  それ以来何年か置きのひと夏、行平さんは必ずこちらのホテルに滞在し私たちに会って下さいました。  私たちと行平さんとの関係は、昼間は従業員とお客さまです。私たちは分をわきまえていました。お昼間に、出過ぎた馴々しい態度をとったことはありません。ホテル側としては本来信用にかかわるデリケートな事態だったはずです。何年かにひと夏お越しになる、信用ある一族の独身のお得意客です。私たちのことに薄々気づいたとしても対処のしようがなかったと思います。結局私たちは黙認されたのでしょう。私たちはホテルの誰からも面と向かって行平さんとのことを詮索されたことはありません。  所属する画壇のグループのごたごたに嫌気がさした行平さんが、一時東京を離れてこちらで過ごされた時、私たちは幸せな三年の年月を一緒に過ごしました。それは三人の最後の時間になりました。その年月のことはどなたにもお話しいたしますまい。愛する人たちと毎日を穏やかに暮らすことがどんな風だか、奥様はよくご存じでいらっしゃいますね? 私たちはそのようでした。失って初めて貴さに気づく、たわいのない冗談、小さないさかい、ささやかな幸せが積み重なるばかりでした。人様にわざわざ申し上げるようなお話なんてないのです。  東京へ戻った行平さんが、その後ご自分の家庭をお持ちになったことは風の便りに聞いていました。当然のことです、もともと住む世界が違うのですから。私たちは自分の暮らし方を変えようなどとは考えたこともありません。行平さんが何年かに一度このホテルにお出でになり、私たちと会っていただければそれでよかったのです。  夫人は先ほどから気になり出したことがあり、その顔には憂いの色がだんだん濃くなってきた。  この人は何を言っているのかしら。姉は行平が十八歳の頃から憧れの人だったと話した。生きていれば四十五歳を過ぎている行平と、この女たちの歳の差はざっと十五歳くらいだろう。行平が十八歳の時この女たちはせいぜい五歳か、妹などはよちよち歩きの歳ではないか。年寄りを相手に、わけのわからない話をすることにどんな意味があるのだろう……。  風を慕う松の枝がいっせいに高く鳴り、海鳴りの低い轟きと交叉した。  私たちと別れて三年がたち、行平さんは心臓麻痺で急逝しました。私たちはホテルの支配人に教えられました。新聞に小さく死亡記事が載っていて、オーナーからも訃報の知らせがあったのです。亡くなられてからもう数日たっていました。行平さんと手紙を交わしたことは一度もありません。わたしたちが感じたことは悲しみや驚きではなくて、ただ宙に浮いたような感覚でした。  行平さんが亡くなられて十日後、私たちは真夜中にこの浜から海に入りました。  伊勢の方角に泳げるだけ泳ぐつもりでした。  このことは数日前の朝浜辺で、伊勢に向かって手を合わせていた時に妹と話し合って決めました。  伊勢國へ。  海から泳いで入ろう。  もしかして、そこで行平さんともう一度会えるかもしれない。  潮の流れに逆らって泳ぎます。遠くの沖あいに漁り火が点々と広がっていましたが、私たちは躊躇しませんでした。  その日はちょうど満月でした。海は凪いでいて、明るい月のせいで銀の鏡のなかに入るようでした。  かなり泳いだ時には、もうあたりに漁り火は見えませんでした。知らない間に抜けていたようです。手足が動かなくなると私たちは波の上に横たわって銀色の海を漂いました。私たちは泳ぎ続け、空の上では月が夜の車に乗って進んでいました。  でも私たちよりお月さんのほうが早かった。月の傾き加減からみて明け方近い頃に、私は横を泳いでいた妹を見失いました。私は泳ぎ続けましたが、しばらくして私もだめになりました。  私たちは潮の流れに乗って知多半島の小さな岬あたりにそれぞれ打ち上げられました。とうとう伊勢にたどり着くことはできませんでした。  それから私たちはずっと行平さんを探し続けています。でもどうしてもあの方にお会いすることができないのです。私たちは行平さんは亡くなったのではない、本当は生きているのではないかと疑い始めました。何か事情があって身を隠しているのではないかと。それで私たちは鏡子さまにお伺いしに参りました。  行平さんはどちらにいらっしゃるのでしょうか。    夫人はふたりにまっすぐ向き直って、優しい声でていねいに説明し始めた。 「わたくし存じませんの。行平は十年も前に亡くなってしまいました。お別れの時の棺に横たわった顔をよく覚えております。静かな穏やかな顔でした。私は斎場には行っておりません……」  話しているうちにだんだん怒りに近いものがこみあげて来た。この人たちも覚悟の上で海に入ったのだろう。何をぐだぐだやっているのかしら。 「あなたがた、若い人のお葬式がどんなものかご存じ? 行平のお友達はただ茫然としていました。父親は気丈に耐えていましたが、母親は最後に参列者の方がたに向かっておじぎをした時、頭からくずおれて、そばに張りついていた私と行平の若いいとこに支えられました。逆縁を忌んでわが子の野辺送りに行かないのは、まっとうな、理にかなった風習だと思います。あの子の骨を拾うなんて、親の胸が裂けてしまったでしょう。行平の嫁は真っ白な顔で母親に続いて今にも気を失いそうでした。私たちは赤ちゃんを流産してしまうのではないかと気が気ではありませんでした。あの子のお墓は青山にあります。宣家先祖代々の墓に葬られております。そちらにお参りになって下さいまし」  とうとうまつげにたまっていた涙が一粒転がり落ちた。 「お墓以外わたしは行平がどこにいるのか知らないのです。あの子はこの世のどこにもおりません」  もう少しで、「わたくし疲れておりますの。もうお引き取りになって……」と続けるところだった。しかし筋金入りの昔風のしつけを受けて、七十年の生涯でぶしつけなことばを一度たりとも人に向かってぶつけたことのない夫人には、たとえ相手が幽霊だろうと、気がどうにかなってしまった人たちだろうと、心ない態度をとることはできなかった。涙をハンカチでぬぐいながら、行平が心を残さず安らかにこの世を去ったことを初めて感謝していた。  この人たちのようになるなんて恐ろしいことだ。行平が完全に亡くなってくれて、あの子のために本当にありがたい。  姉妹は夫人の話を熱心に聞いていた。夫人の涙にちょっと驚いたようだった。  姉の方が、 「奥様、どうか、どうかお泣きにならないで下さい。涙を見るのは辛うございます。私どもにとって人が泣くのを見ることがどれほど辛いことか、奥様におわかりいただけたら、きっと奥様はすぐに涙をおさめて下さいますでしょう」  姉妹はゆっくり顔を見合わせた。 「姉さん。これでもうわかったでしょう?」 「ええ」姉が答えた。 「あの人は、もうどこの世界にもいません」  ふたりはそのまま彫像のように座っていた。夫人はなんとか姉妹のために涙をおさめることができた。  しばらくして、姉妹はゆっくりと立ち上がった。 「奥様、ながながと私たちのお相手をして下さってお礼を申し上げますわ。奥様はお優しい方でいらっしゃいます。おかげさまで私たち得心がいきました。もう奥様の前に姿を現わすことはありません。お約束いたします」  妹が続けて言った。 「私たちの話を最後までお聞き下さって、ありがとうございます」  姉妹の顔に初めて、かつての名残のようなものが現れた。名残が見えたのは一瞬だけだったが、 「本当に、この人たちは以前と今とではまるで違う人間なのだ」と夫人は思った。  それからの姉妹はたいそうてきぱきしていた。ふたりはドアには向かわなかった。テラスに続くフランス窓を開けた。夜の香気とかすかな海鳴りの音、それにまつわるように涼やかな松籟★しょうらい★の音が、部屋のなかにさっと流れこんで来た。姉妹はテラスに出て庭を抜けて姿を消した。  夫人はガウンをかき合わせるとテラスに出た。どこから外へ出て行くつもりだろう。庭の先は鉄柵に錠が降りていて内からも外からも出入りができないはずだ。夫人はふと遥か先まで続く白浜を見やった。  ふたりは砂浜を海に向かって歩いていた。その姿はすでにずいぶん小さくなっていた。月が中天にかかり、白い砂浜は一面に溶かした銀を流したように輝いていた。遠くに見える真っ暗な海にも月光が降りかかって、波の上に金銀の光を散らした。 ふたりは一面の銀砂のなかで小さな黒い影のようだった。並んだふたつの影は幼いこどものように一心に海に向かって歩き続けていた。  夫人は眼を凝らした時、ふたりの影は確かに見えていた。しかし次の瞬間にはもういなかった。海に入るにはまだ間があったはずなのに、銀を吹いたような砂浜のなかににじんで溶けこんでしまって、どう眼を凝らしても再びふたりを見つけることはできなかった。 この物語は能「松風」から翻案しました。 宣家行平=中納言在原行平 松村の姉=松風 松村の妹=村雨 行平の叔母鏡子=旅の僧 この物語に登場する土地、ホテル、人物には一切現実のモデルはありません。
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