純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号180
『水葬』
ところどころ塗装の剥げたガスタンクが二つ、オレンジ色に染まっている。京一は、川の堤防沿いの下校路を両手いっぱいの荷物をひきづりながらゆらゆらと進んでいた。明日から夏休みとは言っても、夏期講習と小遣い稼ぎの短期アルバイト以外には特に決まった予定もない。受験生らしい退屈な夏になることは疑いようもなかった。
もう少しで対岸へと渡る橋にさしかかろうというところで、うつむきながら歩いていた京一の視界を真っ赤な壁が覆った。
ゴンッ
胸元で、真紅のランドセルが跳ねる。
「あ、ごめんなさい。大丈夫だった?」
申し訳なさそうに声をかけると、おさげを揺らして少女が振り向いた。
「はい。別になんともないです。それに、わたしも急に止まってしまったので」
ランドセルを背負っているので小学生なのだろうが、背丈は京一の肩ほどまであり、そして何よりも少しの動揺も感じられない落ち着いた口調と表情は、高校生の彼よりもはるかに大人びている。
「そうか、よかったあ。それじゃ」
京一が少女の先に進もうとしたその時、右腕に下げた学生鞄がぐいと引っ張られた。
「あの、ちょっと待ってください」
わずかに姿勢を崩しながら後ろを見ると、少女が強く訴えるような真剣な眼差しで京一を見上げていた。
「あれ、やっぱりどこか痛い?」
「いえ、そんなんじゃないんです。ただ、もし嫌じゃなければ見てもらいたいものがあって」
「僕に…見てもらいたい…えーと、それはどんなものなのかな?」
迷子に名前を尋ねるような口調でそう言うと、少女はバツが悪そうな笑みを浮かべた。
「見てもらいたいのは、死体なんです」
躊躇することなく言い放った少女の整った目や鼻を、京一はしばらく呆然と眺めていたが、やがて彼なりに今の状況を頭の中で整理したのか、
「それは、僕に見せるよりもまず警察に連絡しなきゃ。ちょっと待って、携帯持ってるから」
と言うや、携帯電話を胸ポケットから取り出そうとした。
「あ、違うんです。そうじゃなくて、その、死体というのは河原に打ち上げられた猫の…」
「ああ、なんだそういうことか」
早合点してしまったことを恥じながら、京一は右手を向いた。眼下の草原の少し向こうを川が走る、いつもの見慣れた景色だ。この川は支流のまた支流で、大人なら膝上まで水に浸かる覚悟があればなんとか向こう岸まで渡れる程度の幅と深さしかない。
「猫の死体があるというのは、あの辺りかな」
「そう、あそこです。一緒に来てくれますか」
「いいよ。じゃあ行ってみようか」
京一がそう言うと、おもむろに少女は彼の左腕をつかんで堤防を下りだした。両手に荷物を持ちながらだと足もとがおぼつかないが、少女の勢いが思いのほか速いので、とにかく転ばぬように気をつけるので精一杯だった。
背の高い草を一〇メートルほどかき分けながら抜けると、砂利で覆われた川原に出た。少女は一点を見つめながら、砂利を丁寧に踏みしめて行く。
やがて、身体の半分をごく浅い流れに晒しながら横たわる猫の姿が京一の目に入った。まだ大人になりきっていない白と黒のブチだ。ぱっと見た感じではどこにも傷はなく、身体もいたって綺麗なのだが、その不自然な場所から死んでいるのはすぐに分かった。
「この猫だね。溺れちゃったのかなあ。どうして川に入ろうなんて思ったんだろうね」
京一の問いかけに答えることなく、少女は猫の死体から目を逸らさないまま、その傍らにしゃがんだ。
「このコ、よくうちに遊びに来てたんです。春頃からかな。学校から帰って部屋で一人でいると、いつも庭でわたしを呼んで、お菓子なんかをおねだりして…。夏休みになったら、飼いたいって家族にお願いしようとしていたところだったのに」
これまでほとんど無表情だった少女の瞳が潤んでいる。口もとも、ぎゅっと噛み締めているためか歪んでいた。
「そうか、この猫、君になついてたんだ。こんなになっちゃって、かわいそうだったね」
京一は、うっかりした事を口走って少女を傷つけないよう慎重に言葉を選んだ。
「このコ、ここに流してあげようと思って。本当は埋めた方が良いのだろうけれど、うちは庭が狭いし、両親にもきっと怒られちゃうし。それで誰かに手伝ってもらおうと思っていたんです」
猫を見つめる少女の顔の前を、夕陽を透かして金色の光が滲む髪の束が二つ揺れている。
「じゃあ、この子を乗せて川に流せるような木の板でも見つけて来ようか」
少女はコクリと頷いた。だが、ざっと川原を見渡したところ、猫の死体を乗せられるような浮力のある物は転がっていそうにない。少し下流まで歩いて探そうかと考えていたところで、京一はふと自分の鞄の中に大きなポリ袋が入っていることを思い出した。それは、学校から持ち帰る衣類などを入れているものだ。一学期の最後なのでたくさんの荷物が出ることを見越して大きめの袋を持ってきていたのである。京一は、左手に持ったビニールの鞄を開けて、ガサガサとかきまわすと、体操着やタオルなどが詰め込まれた透明なポリ袋を取り出した。
「これに入れればなんとか浮かぶとは思うんだけど。でも、こんなのじゃ、ダメかなやっぱり」
空中に掲げられたポリ袋は、この小さな猫ならすっぽりと入ることは間違いなかった。ただ、少女が可愛がっていた猫の死体をこんなものに入れてしまうというのは、京一もさすがに気が進まなかった。ところが、
「いえ、それでいいです」
意外にも、少女はあっさりと了承した。
その後の行動を待ちわびるような少女の視線に促され、京一は袋の口を両手で持ち、空中で三回八の字を描いて空気をいっぱい送り込んだ。少女は猫を抱え上げて、空を向いた袋の入り口にそっと沈めていく。
「いいね、流すよ」
「うん」
少女は、京一の両手にぶら下がる透明なポリ袋の中でくの字になった死体を見つめながら頷いた。京一は、足首より少し上まで流れに晒したところで、目の前の少しだけ川底が遠く見える場所に袋を下ろした。額から流れ出ていた汗が数滴、川面に落ちて小さな輪を描いた。
先程よりさらに傾いた陽射しに押されるように、ポリ袋が徐々に動き始めた。時おり浅瀬で止まり、また流れ出すということを何度か繰り返すうちに、橋の下をくぐる頃にはしっかりと深みを進んでいた。
「あまり、見えないですねあのコの姿」
そうつぶやく少女の言葉には、ほんのちょっとだけ京一を責める気持ちが込められていた。
「ごめんね。やっぱりポリ袋に入ってると中身はほとんど水面下になっちゃうよね」
京一は申し訳なさそうに頭を掻きながら、やはり時間をかけてでも、木の板か発泡スチロールの箱のようなものを探すべきだったと後悔した。
堤防の向こうから、どこかの学校のチャイムが聞こえてくる。やがてそれが止むと、再び二人の周囲は川のせせらぎの音で満たされた。
「でも、あれならあのコ、あんまり濡れないですよね。だから、きっとこれでよかったんです」
少女は、いまや街の風景に溶けようとしている袋を目で追いながら、わずかに目もとを緩ませた。
「それじゃあ、気をつけて帰るんだよ」
少女とぶつかった堤防沿いの道まで戻ると、京一は手を振った。
「はい。いろいろとありがとうございました」
少女は軽く礼をすると、堤防を横切る道を左に折れた。その道を京一が右折して橋を渡りかけたところで、背中で声がした。
「そのコ、ずっとかわいがってあげてくださいね」
振り向くと、少女は微笑みながら京一の右腕の辺りを指さした。そこにあるのは、革の学生鞄と大きな布の鞄だ。
「“そのコ”って…?」
「その黒い鞄の横にいるじゃないですか」
少女はクスクスと笑う。京一は学生鞄に目を向けた。すると、本人も付けているのをすっかり忘れていた子猫のキーホルダーが目に入った。
「ああ、これね。そういえばさっきの猫と同じ模様だね」
「でしょ。そのコを見て、あのコとお別れするのを手伝ってもらおうって思ったんですよ。本当にいつまでも大事にしてあげてくださいね」
少女はほんの一瞬だけ満面の笑みを浮かべた後、踵を返して歩き始めた。京一は、そのしっかりとした足取りと、道に投げかけられて揺れる濃い影とを、いつまでも見守っていた。