純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号168
『シェルブール』
のどかな四月の昼下がり、研究室の机で下調べするうち……いきなり脳の天辺から脊髄にかけて雷のようなものに直撃された。
居眠りしていたのだ。
目覚めたとたん、ものいいたげな眸に射すくめられて、僕は時の流れの外へと抛りだされた。
*
十五年前、大学院を終えても研究室にポストはなく、本郷に呼び戻されるまで、あちこちの大学をかけもちして、やっと生計を立てていた。そして二年目、僕は都内の女子大や短大のほかに、とある地方大学でも講義をもたされていた。
「先週とりあげました留学三部作『舞姫』のラストをもう一度読んでみましょう。嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。ここには、『長恨歌』の最後のフレーズ、この恨み緜緜として絶ゆるの期なしを思わせるような痛恨の思いが語られています」
耳を傾けてくれるのは前の三列くらいだけ、そのうちの何人かでさえ、だからどうしたの、とでもいいたそうな顔をしている。
「豊太郎は、逆らいがたい運命への消すことのできない恨みにさいなまれている。ところが、今みてきました『雁』にいたりますと、お玉にはもう、運命への諦めしかないのですね」
こんなことに関心のある学生はひと握りなのだろう。それでも、たいていの大学には国文科があって、ほかの学部でも教養課程に国文学のコマが設けられている。おかげでこうして職にありつけるのだから、そのことに感謝すべきなのかもしれなかった。
「では、今日はここまで」
火曜の夜からビジネスホテルに二泊して、週に五つのコマをこなすのだが、水曜の午後は授業がない。知り合いもいないから、ひとりでカフェテリアへ入り、ハンバーグランチを頼んでみた。ちゃんとミニサラダまでついていて、デミグラスソースがなかなかうまかった。
表に出ると、さきほどまでの雨もすっかりあがって、大空は生まれ変わったように青く、街路も芝生も花壇のツツジも、すべてのものがみずみずしい光を照り返している。
ここちよい陽気に誘われぶらぶらするうちに、キャンパスの外れまで行きついていた。のんきな土地柄なのか、丸木の支柱に針金を渡した囲いがあるだけ、裏手には雑木林が広がっていた。雨上がりの緑が日差しに映えてまぶしいくらいだったから、僕は塀というほどでもない低い柵をひょいと乗り越え、ひとけのない林間の小道へ足を踏み入れてみたのだ。
風を吸うと湿っぽい土の匂いがして、高い梢から鳥たちのさえずりがきこえていた。
あてもなく歩いていったら、林を抜けたところに池があった。対岸にならぶ若葉の樹木が淀んだ水に映ってみえる。
そのシンメトリーな景色でも眺めているのか、ひとりの女がブナの木の下に立ち、後ろ手にした腕と背中で、ひとかかえもありそうな幹に寄りかかっていた。
横向きの額からノーズラインがすっきり起伏して、栗色の長い髪は毛先だけそよいでいる。
すがすがしい新緑にみとれているだけなのかもしれないが、心ここにあらずというふうにもみえて、どんな思いに耽っているのだろう、胸のうちを知りたいような気にさせられた。
翌週も池まで歩いていったら、女はやはりブナの木蔭にたたずんでいて、僕に気づくと、ちらっとこちらへ目をくれたけど、すぐにまたもとの姿勢にもどっていった。
次の水曜日、日ごと夏めいてくる雑木林を歩きながら、今日こそ彼女に声でもかけてみようか、僕は道々迷いつづけていた。
ところが、ブナの根元には誰もいなかった。そのとき僕は、自分でも驚くくらい肩を落として、池のほとりに立ちつくしてしまったのだ。
岸辺にはユリが咲いて、水のうえにペールイエローの影を落とていた。
もう会えないんじゃないか、どうしてこうなるまえに話しかけなかったんだろう。やきもきしながら待つ七日間はとてつもなく長かった。だから次の週、木漏れ日のなかを歩いていって、頭上高く葉を茂らせるブナの木の下に、もの思わしげな彼女の姿をみつけたとき、僕の心は晴れやかになっていった。
話しかける決心はついている。どうやって糸口をつかもうかと思案しながら、彼女の視線を追っていくと、黄いろいユリが水を覗きこむようにうつむいていた。
「こんなところに、ユリが咲いているんですね」
「けなげでしょう。シェルブールというユリなんです」
彼女は池に歩みより、ユリのうえにかがみこんだ。
「幼稚園に入ったころ、息子とふたりで球根を植えたの。もう三年も経つのね」
ちょっとがっかりした。彼女は僕よりも五歳くらいは若く二十代半ばにみえたから、てっきり独身だと思いこんでいたのだ。
「そうか。野生の花じゃなかったんだ」
さわやかな風が吹きすぎて、水面がきらきらさざめいた。彼女は波紋の輝きに見入っているようだった。
だけどまあ、彼女に子どもがいようがいまいが、だからどうというほどのかかわりでもなかった。ともあれ、夏に向かいアブラゼミの声のいやます雑木林を歩いていって、池のほとりで彼女に話しかけ、ほんのふたことみことでもことばを交わす、それが水曜の楽しみになったのだ。雨で散歩できない日には、重たく垂れこめる灰色の雲のように、ふさぎこんでしまうくらいに。
夏の休暇のあいだは、ずっと東京で論文に明け暮れていた。研究室や図書館に出向いて文献にあたるか、学生のころから無縁坂に借りているアパートにこもってキーボードを叩くか、変わりばえのしない毎日だった。
ある日、法文一号館を出て、ミンミンゼミの鳴きさかるかんかん照りの銀杏並木を歩いていたら、遠い雑木林の蝉しぐれ、アブラゼミの声が重なり、高い空から降りしきるようにこだましてきた。
高い塀と古めかしい校舎、沈鬱な本郷キャンパスの宙空に幻の池がみえてくる。ユリを映す池の水、さざ波に反射するきらめき――明日は水曜だ。すぐにでも列車に乗りこみ、あの町へ、そしてブナのもとへ駆けつけたい。
だけど、どうせみのりのない思いなんだから、そう心に言いきかせて、僕はようやく踏みとどまっていた。
だから秋学期が始まり、池のほとりで彼女に会えたときは、にやけ顔にならないように、さりげなく振舞えるように、弾む心を抑えなければならなかった。
「こんにちは」
「お久しぶりね」
「夏休みで、こっちへ来なかったから」
「そこの大学の方?」
「週に二日だけ講義をもってるんだ」
「先生なのね。どちらから?」
「東京から」
「そう、わたしも学生のころ、いたことがあるわ」
しかし、その九月は水曜というと天気が悪くなり、雑木林へ行けたのは最初の週だけだった。だからほかの週は、ひと雨ごとに涼しくなっていく初秋の寂しさを感じながら、ビジネスホテルのデスクでノートパソコンを開いて、くさくさしながら論文のつづきでも書いているしかなかった。
そして、十月最初の水曜日、ようやく晴れた。
秋の空は抜けるように高く、雑木林の大気も澄みきっている。僕は、すがすがしい気分で池のほとりまで歩いていった。
彼女はブナの木蔭ではなく、水辺の岩にすわって、池のうえに浮かぶカモの群れを見ていた。大きな二羽はつがい、残り三羽は子どもたちだろうか。
「こんなとこにすわってるなんて、めずらしいですね」
「すっかり秋でしょう。木蔭よりも日向のほうが気持ちいいから」
僕も別の岩に腰をおろしてみた。
「ほんとだ、ぽかぽか気持ちいいや。池にくるのは日課なんですか?」
「この春に主人の母が倒れて、今は家で療養してるから、毎日くるわけにはいかないの。でも水曜の午後はヘルパーさんが来てくれるから」
「たいへんですね」
「主治医の先生から自宅療養するように言われたときは、せっかく子どもの手が離れたのにとか、やっと好きなことができるはずだったのにとか、文句がましいことばかり考えちゃって、かりかりしていたわ。いいハハなのに、腎臓が悪いの、ずっと透析を受けなくてはいけないのよ」
彼女は曇りかけた顔でうっすら笑った。
「ハハはね、お姑さんではとても苦労したらしくって、嫁のいやがることはなんにもしない人なのよ。恩返しとか罪滅ぼしとかさせてもらって、かえって救われてるくらいなの」
そこまで言うと、彼女は気をとりなおしたように、僕のほうへ話の流れを変えてきた。
「先生こそ、毎週遠くまでたいへんでしょう。なにを教えているのかしら」
聞き上手な彼女から問われるに任せて、そのあと僕は、鴎外について、運命と自我の葛藤から運命の受容へなんていう、どう考えてもつまらないことを長々と語ってしまったのだった。
「運命を受け容れるために、自我は消してしまったのかしら」
「いや、鴎外は内に秘めた自我を最期まで貫いたんじゃないかな。墓にはただ森林太郎と刻んでくれと遺言したんだから」
「すごく強い人だったんでしょうね」
それからというもの、僕たちは水辺の岩にならんで、ゆっくり話しこむようになった。
ある日、彼女は、考えを反芻するように語りかけてきた。
「先生、このまえの話だけど、運命ってなんなのかしらね。わたしは因果のようなものを感じるのだけど」
「因果はめぐる糸車ってこと?」
岸辺に群生するススキの穂が揺れて、水面をなぞっていく風紋が左から右のほうへと、またたくまに渡りすぎていった。
「どっちかっていうと、遠きおもんぱかりなきものは必ず近き憂いありってことかもしれない」
「遠きおもんぱかりをもって生きれば、運命は憂いなきものに変えられるってことかな」
「そうなんでしょうけどね。してしまったことは、もう水に流せないってこともあるでしょう」
彼女にはなにか深い悩みがあるのではないか。僕は力になりたかった。だけど詮索がましいことを問いかけるのもはばかられ、会話はそこで途切れてしまった。
十一月の終わりだった。
「見て。きれいだわ、蝋燭のともった紅いぼんぼりみたい」
彼女に言われて、対岸で色づくモミジをみやった。
あのモミジの輝かしさを僕はいつまでも忘れないだろう。数え切れない小さな葉がみごとなまでに紅く染まるなか、芯のほうだけ明るい黄金色に透けてみえていた。
「確かに、内がわからライトアップされてるみたいだな」
「あんなふうに生きられたらよかったのに」
なにを言いだしたのかわからなかったから、僕は黙って彼女を見ていた。
「なんの邪念も抱かずに、ひたすら命を燃やしているみたいにみえない?」
「無心に生きたいってこと?」
彼女は遠い目になっていった。
「心の灯りを消さずにいたかったってことかな。今さら気づいてももう遅いけど、四月に母が入院してたころ、わたしは思いどおりにいかなくていらいらしていた。こんなに頑張ってるのにって不満ばっかり抱えて、優しい気持ちになれなくなってて」
「看病で疲れてたんだろ。わかってくれてるさ」
「いえ、口にこそださないけど、主人はわたしに愛想を尽かしてる。彼はわたしの顔なんか見ないようにしてるわ」
親の看病させておいて、いたわることもできないってことがあるだろうか。
「旦那さんと破綻してるってこと?」
「ううん、そういうことじゃないの。欺瞞みたいに思うかもしれないけど、本心をぶつけて傷つけないっていうのも思いやりのひとつじゃないかしら。それに結婚て、夫との関係だけじゃないのよ。もっといろんなしがらみがあるものなの」
「子どもがいるから?」
「それとは」
ことばは掠れていた。
「違うのよ」
唇から声にならないものがもっと漏れてきそうにもみえた。
ややあって、彼女は深い溜息をついた、まるで生気のようなものを胸からすべて吐きだしてしまうかのように。
「嫁と姑なんていうと犬猿の仲みたいよね、でもわたしは母のこと好きだし、嫁の義務ということでもなくて、最期まで看てあげたいと思ってたりもするの」
「そんなんで幸せなのかな」
彼女は静かに首を振って、幽かな笑みを浮かべてみせたけど、その目は底なし沼のように暗い光を帯びてきて、僕の心まで、どこまでも沈んでいきそうになった。
「幸せなんて考えられない」
彼女はうつろな顔を対岸のほうへ逸らしていった。
「地上のモミジは燃えるように紅いのに、水に映る影はうっすらとして、虚像っていうのかしら、こころもとないくらいぼやけてるでしょう、なんだか今のわたしみたい……。生きてる実感がまるでもてないのよ」
その日を最後に、彼女は姿をみせなくなった。
だけど水曜の午後になると、僕は、日に日に葉を落としていく雑木林を抜けて、池にかよいつめた。そうして、北風に波立つ荒涼とした水面を眺めながら、ひたすら彼女を待ちつづけた。
年が明けても二月になっても彼女はこなかったら、それで僕も、もう会えないとあきらめて、池を訪れるのもやめにしたのだった。
あれから十五年、春のうたた寝から覚めたとたん、彼女の双眸にみつめられたとき、僕の魂は時空を超えて、あの池のほとりへと翔けていった。
*
池の色は鉛のように重く沈んでいる。
昼下がりの陽光はあたたかく、春の大気は草の匂いをふくんでいるのに。
向こう岸の木立ちが水に映り、風の吹くたびにさざめいて、さかさまな影がたえまなく形をうつろわせている。
彼女のかたわらから池をめがけて、幼い男の子が駆けだしていった。
「ママ、来て。真黒になってる!」
ごつごつした小石のうえで、ふたりはかがみこんでいる。
「ほんと、オタマジャクシでいっぱいね」
「オタマジャクシ?」
「カエルの赤ちゃんよ」
「えっ、ほんとに?」
いきなり、あたりは白い光につつまれた。
目がくらんでなんにもみえない。しんしんとカエルの声が湧きあがり、読経のようにこだましてくる。
小さく丸めた背中、男の子が水辺の岩をのぞきこんでいる。
「すっごい! カエルになってる」
あどけない目をみはって、幼い彼は、母親のほうへ振り向いた。
*
シュン、ごめんね。
「ママ、オタマジャクシとりにつれてってよ」
あのとき、ママには手に負えないことがいっぱいありすぎて、シュンのせいじゃないのに、いらいらした心が抑えられなくなっていたの。
「もう一年生でしょ、おばあちゃまが入院してるのがわからないの?」
「知ってるけど、ちょっとだけ行こうよ」
「これからママはお着替えを買いにいかなきゃいけないの」
「ねえ、ママ、早くしないとカエルになっちゃう」
「シュン、オ、ネ、ガイ! ケンちゃんちにでも遊びに行ってらっしゃい」
どうしてあんなに声を荒げてしまったのかしら。ママはきっと鬼みたいな目をしてたんでしょうね。シュンはびくっとして、悲しそうにママを見上げてた。シュンのまえにしゃがんで、明日行こうねってゲンマンしたらよかったのに。
あのとき、やさしく抱きしめてあげていたら……。
あの日、夕方になってもシュンは帰ってこなかった。公園をのぞいてみたら、ケンちゃんは近所の子たちと遊んでいて……。
「シュンは?」
「さっきバケツをもって、あっちのほうへ行っちゃったよ」
シュンがどこへ行ったのか、わたしにはすぐにわかった。わけもなく悪い予感がして、胸がざわざわしはじめていた。
あのときのことは、切れぎれな記憶しか残っていない。
運転しようにも手が震えキーがなかなか差しこめなくて……大学の裏に車を乗り捨て……雑木林を駆けていたらサイレンがきこえてきて……池の周りには人だかりがして……。
横たえられたシュンがみえたとたん、世界は静まりかえり、時間は刹那に凍りついた。
シュン!
抱きかかえたら、かわいそうにシュンはとっても冷たくて、わたしは狂ったように叫んだのか、うめくように嗚咽しつづけたのか……いつしかわたしはひきはなされて、シュンは担架に乗せられた。
そうして遠いとおい知らないところへ運ばれてしまう。
シュン、行かないで。
ひきちぎられた胸のなかで誰を恨めばいいのだろう。いとしいシュンを死なせたのはこのわたしなのに。
ああ、あのとき抱きしめてあげていたら。
「フミコさん、こんなによくしてもらってるのに、すまないわね。夫婦なら、こんなときこそ支えあわなきゃいけないのに」
過去しかみえないわたしにうんざりしたのだろう、夫は別の女と暮らしはじめていた。そうしてくれてわたしのほうも助かっていた、ふたりでいたらシュンへの思いにさいなまれて、たがいにつらくなるだけだから。
「シュンのことは、わたしがいけなかったんですから」
「そんなふうに自分を責めてはいけないわ。フミコさんのせいだなんて、誰も思っていませんよ」
嫁思いだった義母も今は亡くなり、おととい納骨もつつがなく終わった。
里の父母は兄のところで孫たちと一緒にのんびり暮らしている。
この世からわたしがいなくなっても困る人はもういない。
シュン、お水のなかは冷たかったでしょう。
お池に落ちちゃったのは、ここに連れてきてあげなかったママのせいね、シュンはあんなにオタマジャクシ飼いたがってたのに。
ごめんね、どんなにさびしかったでしょう。でももう、ひとりぼっちにしないわ。
シュンとふたりで植えたシェルブール、黄いろいユリの咲くには早すぎて、緑色の硬いつぼみが水に映っている。
シュン! これからママも行くから。
ナイフで手首を切り、池のなかに浸けたとき、埃っぽい書架の匂いがして、机のところに先生がみえた。
*
幼い息子とふたり、水辺にしゃがんで、彼女はうっとりユリを見ている。
つぼみが膨らんで、すこしずつ緑はうすれ、花びらがみるみるうちにほころんで、黄いろいユリが咲いていく。
ふたりの笑顔はまぶしいくらい輝いている。
話しかけたかったのに、彼女は坊やを抱いて立ちあがり、僕のほうへ会釈を投げて、かすみのように消えてしまった。
池に映る影は、血で染めたように紅いユリ。