純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号166
『マイ・ライフ』
僕は電車に乗って座席の端に座っていた。車窓からは子供たちが自転車をこいでどこかに向かっている様子が見えた。遠くの方には灰色の雲が立ち込めていて、今にも雨が降りそうだった。乗客は少ない。僕は大学の帰りに図書館に行って本を借りるつもりだったが、この天気を見てその気は失せてしまった。図書館になら明日にでもまた行くことができる。僕はそれだけを考えるとまた意識を外の景色に向けた。
電車が停まると何人かの乗客が降り、その後に男が一人乗車してきた。黒いスーツに赤と白のストライプ柄のネクタイを締め、傘と通勤鞄を手に持っていた。男は僕の向かい側の席に座るとバッグを膝の上に置き、傘を前に出して両手で握った。僕はその男の顔に見覚えがあった。実家にあるアルバムの中の写真にその男が写っているのだ。その写真は僕が二歳か三歳の時に撮られたもので、バースデー・ケーキの前でろうそくの火を吹き消そうとする僕を横から笑顔で見つめている様子が写されたものだ。この写真以外にもその男が写った写真は何枚かある。僕はその男に関する記憶を一つも持ってはいなかったが、写真のおかげでその男の印象は僕の頭の中に強く残っている。目の前の座席に座る男は写真の中の男よりもしわや白髪は増えていたが、髪型や表情は写真が撮られた当時のものと変わらなかった。縦長の顔をして、肌は浅黒く、髪を後ろにかき上げ、目は二重で大きかった。僕はしばらくの間その男の顔を凝視していた。男は姿勢を変えずに中吊りの広告を見ていた。僕も男が見ている広告を見てみた。三十代の女性をターゲットとするファッション雑誌の広告だった。隣には飲料水の広告が吊るされている。男の顔に視線を戻すと男はもう広告を見てはいなかった。目を閉じてじっとしていた。
僕の住むアパートがある駅に着くまでにはあと数駅あった。僕はバッグの中からミュージックプレイヤーを取り出してイヤフォンを耳の穴にねじ込んだ。音楽を再生して音量を上げた。そして、目の前の男のことを考えた。しかし、何も考えられなかった。僕はその男の名前も年も知らない。その男が僕とどのような関係にあるのかも知らない。僕はその男の顔を知っているだけで、その男について何も知らないのだ。僕の住むアパートがある駅に着いた時にも男は目を閉じたままだった。僕は電車から降りずにそのままその男を観察することにした。いつの間にか雨が降り始めて雨粒が窓を軽く打った。
結局その男は最後まで電車に乗っていた。終着駅に着いて車内アナウンスが流れた時に男は目を開けた。その様子から見ると男は眠っていたようだった。男は席から立ち上がり僕の顔を一度見ると傘と通勤鞄を手に持って電車から降りていった。僕は男の後を追った。男は次の電車に乗り換えるために足早に連絡口に向かって行った。僕も男の歩くスピードに歩調を合わせて適度な間隔を保って歩いた。男が電車に乗ると、僕も同じ乗降口から電車に乗り込んだ。電車に乗ると男は空いている席を見つけてそこに座り、さっきと同じように目を閉じた。僕は近くの手すりにつかまって男の様子を見続けた。ニ十分くらい経ち、車内アナウンスが流れたところで男は目を開けた。そして、電車が僕の知らない駅に停まると男は立ち上がって乗降口に向かった。僕もあわてて男について行った。男は改札口を通ると南口と書かれた掲示板の方向に進んで行った。僕は間隔を開けて男の後ろを歩いた。男は階段を下って南口から出ると傘をさして歩きだした。僕は傘を持っていなかったのでバッグを頭に載せて歩いた。雨が僕の顔と両腕を冷たく濡らした。南口から一直線に伸びた商店街の通りを男は早足で歩いた。僕もそれに遅れを取らないように傘の間を縫うように進んだ。商店街を抜けると一軒家が立ち並ぶ住宅街に入った。どうやら男は早引きしたようだった。この近くに男の家があるのかもしれない。僕は人通りの少ない道で男に気付かれないようにさっきよりも間隔を開けて歩いた。
服はびしょ濡れになり、靴の中に水が染み込み、バッグが雨を吸い込んでどっしりと重くなった時にやっと男の足が止まった。僕は近くの電信柱に身を隠しながら男がカギを取り出して中に入って行く様子を見ていた。男が家の中に入ってしまうと雨の音が僕の耳の中でうるさく鳴り出した。僕は一人、この場所に置き去りにされてしまったような気分になった。少し間をおいてから僕は男の家の前に立った。三階建の一軒家で一階には駐車スペースがあり白いワゴン車が停めてあった。二階と三階はカーテンが閉められていたので中の様子は見えなかった。郵便ポストの上にある表札には佐野という名前が彫られていた。その名前を両親から聞いたことはなかった。表札のすぐそばにはインターフォンがあった。僕はかじかむ手をインターフォンに近づけると、少しためらってから呼び出しボタンを押した。呼び出し音が家の中に響いた。それからすぐに女性の「はい」という声がインターフォンから聞こえてきた。この声を聞いて僕はたじろいだ。しかし、カメラが付いていることに気付いてすぐに平静を装った。しかし、一口目の言葉が出なかった。喉にセメントを流し込まれたみたいだった。僕が黙っていると、「どちら様ですか?」と女性が訊いてきた。
僕は一度大きく咳をしてから声を震わせながら「あの、突然押し掛けてしまって申し訳ありませんが、ご主人様はいらっしゃいますか?」と言った。
「はい、居りますよ。どのようなご用件でしょうか?」
「あの、えぇ、落し物を届けに来ました」と僕はとっさに嘘をついた。
「落し物ですか?まぁ、わざわざありがとうございます。今主人を呼ぶので少々お待ちください」と女性が言った。次にインターフォンの向こうから男と女性のやり取りが聞こえてきた。「お父さん」と女性が呼び、「誰?」と言う男の声が聞こえ、「落し物を届けてくださった方」という女性の声が聞こえた。
それから、つまみを回したみたいに男の大きな声が聞こえてきた「雨の中わざわざありがとうございます」
「いえ、大丈夫です」と僕は言った。
「ところで、私何を落としましたか?全然気づきませんでしたよ。今帰って来たばかりなので」
「あの、すみません、何も落とされてはいません」
「えっ?」という困惑した男の声が聞こえてきた。
「僕、佐野さんとお話しするために来ました」
「私と?」
「はい」
「話すために?」
「はい、そうです」
「あれ、君、電車の中で見かけたような……」
「はい、佐野さんの目の前の座席に座ってました。ここまでずっとつけてきました。申し訳ありません」
「つけてきた?」
「はい、どうしても話しておきたいことがあったんです。僕、長本です。長本雄」
「長本……雄……」と男はゆっくりと口に出した。「どうしたの?とりあえず中に上がってもらえばいいじゃない」という女性の声が聞こえてきた。そして、次の瞬間にインターフォンが切れた。
僕は沈黙したインターフォンを見つめた。風が冷たかった。僕はバッグを頭の上に乗せて帰る準備をした。すると次の瞬間に玄関から物音が聞こえてきた。靴のかかとで地面をける音が聞こえて、傘がドアに当たるような音がした。そして佐野が玄関から現れた。佐野は傘を手に持ち、紺色のパーカーにジーパンという格好だった。
「ごめんね、いきなり切っちゃって」と僕の顔を見て佐野が言った。直接聞く佐野の声はとても低かった。
「いえ、僕の方こそ申し訳ありません、突然こんな形で訪ねてしまって」
「うん、それはいいよ。だって、こうするしかなかったんじゃないの?」
僕は少し間をおいて「はい」と答えた。佐野は僕の行動の意味を察してくれたみたいだった。
「それにしても大きくなったな。よく僕の顔を覚えていてくれたよ」
「はい、実家のアルバムに写真が残ってるんで」
「へぇ、そうなんだ」と佐野は言った。「そういえば、雄、だいぶ濡れてるみたいだけど、傘持ってないの?」と佐野は付け足した。雄という名前を呼ばれて僕は少しドキッとした。
「はい、持ってません」と僕は答えた。すると、佐野は「ちょっと待ってて」と言って家の中に引き返し、バスタオルと傘をもう一本持って戻って来た。
「あまり意味はないと思うけど、これ使いなよ」と言って僕にバスタオルを差し出した。
「ありがとうございます」と言って、僕はそれで腕や体を拭いた。
僕が体を拭き終わるのを確認すると佐野はバスタオルを僕から受け取り、玄関のドアを開けて家の中へ放り投げた。そして、「ここで話すのもあれだから、近くのファミレスに移動しようか?」と佐野は言って僕に傘を渡した。
「はい、あの、僕と話してくれるんですか?」
「だってそのために来たんでしょ?おれだって何十年かぶりに会う雄と話の一つでもしたいさ」
「ありがとうございます」と僕は言った。
「これからはタメ口でいいよ」と佐野は言った。
ファミレスへの移動途中、僕が黙っていると佐野が喋り始めた。
「目の前にいた子が雄だとは思わなかったよ」
「僕もびっくりした」と僕は言った。何となく息苦しかった。
「いつもあの電車に乗ってるの?」
「うん、大学に行く時だけだけど」
「そうか、もう大学生か。大学は楽しい?」
「楽しいよ。好きなことできるから」
「好きなことって例えば?」
「みんなが勉強したり仕事してる時に本を読んだり友達とお酒を飲んだり旅に行ったり、等々だね」
それを聞いて佐野は「大学生らしいな」と言って笑った。
「佐野さんはどんな仕事してるの?」と僕は訊いてみた。
「俺の仕事はね、外国の家具や雑貨を日本に輸入すること」
「なんかすごい魅力的な仕事だね」
「外見だけはね。中身は結構地味で退屈な面もあるんだよ」
「そうなんだ」
「雄も社会人になれば色々分かるようになるよ。だから、今は好きなことを好きなだけしといた方がいい。本当に今の内だけだから」
「うん、そうする」と僕は言った。「佐野さんにもそういう大学生時代はあったの?」
「もちろん」と佐野は答えた。「おれはね、ダイビングサークルに入ってたんだ。いろんな海に潜りに行ったよ」
「へぇ、すごいね」
「一番思い出に残ってるのは沖縄の海に潜りに行ったことなんだ。雄は沖縄に行ったことある?」
「ない」
「それじゃあ、大学生のうちに一度お金をためて行ってみるといいよ」
「どうして?僕ダイビングやったことないよ」
「ダイビングなんてしなくていいよ。向こうの女子大生と仲良くなるといい」
「何で?」
「とても魅力的なんだよ」
「魅力的なんだ。東京の女の子とは違うの?」
「全然違うよ。明るい性格の女の子が多くて、それが小麦色の肌とよく合ってるんだ」
「そうなんだ。ちょっと行ってみたくなった」と僕は言った。
ファミレスに入ると僕と佐野は店員に案内されて奥にある窓際の席に座った。僕と佐野は向かい合わせになって座った。店員が二人分の水を持ってきて、「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」と言った。
「何か食べる?」と佐野が訊いてきた。
僕はお昼を食べていなかったのでお腹が減っていた。「うん」と僕は答えた。
佐野はテーブルのわきにあるメニュー立てからメニューを取って僕に渡した。
「好きなもの食べていいよ」と佐野が言ったので僕はハンバーグステーキとライスの大盛りを頼むことにした。佐野はコーヒーを頼んだ。
コーヒーが運ばれてくると佐野はミルクも砂糖も入れずにそれを一口飲んだ。
「大学ではどんな勉強してるの?」と佐野が訊いてきた。
「哲学」と僕は答えた。それから水を一口飲んだ。
「へぇ、難しそうなのやってるんだな。哲学ってよくわからないけど、人生の問題とかを扱うんでしょ?」
「うん、たぶんそうだと思う。僕も正直なところよくわからない。全然真面目に勉強してないから」
「何で哲学を学ぼうと思ったの?」
僕は少し考えてから「一番役に立ちそうになかったから」と答えた。
「ははは、それはいい答えだな」と佐野は言った。
それから少しの間、僕と佐野は口を開かなかった。佐野はコーヒーを飲んだりタバコを吸ったりしながら窓の外を眺めていた。僕は手持無沙汰になるのが怖くて水をひっきりなしに飲んだり店員の動きを見たり周りの客の会話を聞いたりしていた。そして、僕はこれからこの佐野という男と話しをすることについて考えた。僕はこの男に何を求めているのだろうか。何らかの事実を知った暁に、僕はその事実にどのように向き合うつもりなのか。今の僕には何一つ明確な答えがなかった。
ハンバーグステーキとライスがテーブルに運ばれると僕はそれを無言で食べた。「うまいか?」と佐野が訊いてきたので「うん」と僕は口を膨らませながら答えた。佐野は僕が食べている間、コーヒーのおかわりをもらったりタバコを吸ったりしていた。 僕は食べ終わると水を飲み干した。それから、「ごちそうさまでした」と言ってナプキンで口元を拭いた。
「おお、食べ終わったみたいだな」と言って佐野はタバコをもみ消した。
佐野は僕の顔を見て口を開いた。「雄とこうして話せるなんて死ぬまでないと思ってたよ。こういう機会だし、おれも雄には話しておきたいことがある」
「佐野さんも僕に話しておきたいことがあるの?」
「うん、ちょっとな。でも、雄に訊きたいことがあるなら先に話しなよ」
「ありがとう。訊いておきたいことがあるんだ」と僕は言った。「佐野さんが僕にとってどういう人なのか知りたい」
佐野はそれを聞いてコーヒーを一口飲んだ。「うん、分かった。けど、お父さんかお母さんがそのことについて何か雄に話したことはないの?」
「僕から訊こうとしたことはないし、向こうから話してくれたこともないよ」
「そうか、じゃあおれがまずそのことについて雄に話しておかなくちゃな。じゃないとおれも雄に話したいことを話せない。結論から言うとおれは雄の父親なんだよ」と佐野が言った。
僕は空になったコップから手を離した。「佐野さんは僕の父親なの?」と僕は言った。最初、僕は佐野が何を言っているのかよく分からなかった。
「ああ。雄はおれと雄のお母さんとの間にできた子供なんだ」と佐野は表情を一つも動かさずに言った。
「じゃあ、僕が今一緒に暮らしてる父さんは誰?父さんと僕の間に血のつながりはないの?」
「そう、ない。雄のお母さんは雄を産んだらすぐに別の男性と結婚したんだ。それが今の雄のお父さんだ」
「それ、本当なの?」
「本当のことだ」と佐野は答えた。
事実だけを述べる佐野の話し方に困惑しないように僕は質問を続けることにした。
「どうして母さんは佐野さんと結婚しなかったの?」
「怒らないで聞いてほしいんだけどな、俺に問題があったんだよ。雄のお母さんが妊娠した時に、おれは別の女性も妊娠させてたんだ」
僕は佐野が無神経な人間なのだろうかと思った。僕は周りのテーブルにいる人々のことが気になりだした。しかし、人々はBGMと会話の騒音の中に埋もれていた。
「それじゃあ、佐野さんは別の女性を選んで結婚したの?母さんを選ばずに」と僕は訊いた。
「そういうことになる」と佐野は答えた。「雄にこういう話をするのは心苦しいことだけど、事実だから受け入れてほしいんだ。雄のお母さんを不幸にしてしまったことは本当に申し訳ないと思ってるんだ」
僕は佐野のこの受け答えにいらだちを感じた。僕は彼の口から不幸にするという言葉が出たことが信じられなかった。
「僕がさっき佐野さんの家に押し掛けた時にいた女性がその別の女性なんだね?」
「ああ」
「どうしてその女性を選んだの?」
「妻の名前は美江って言うんだけどな、美江の方に好意をよせてたんだ」と佐野は言った。
「そんな理由で僕の母さんは納得したの?」
「いや、しなかったさ。だから僕が一方的に雄のお母さんを裏切ったんだ」
「佐野さんの子供と美江さんはこのことを知ってるの?」
「知らない。あえて話してないんだ」
「この先家族に話すつもりはあるの?」
「ないよ。そんなことしたら妻と娘を苦しめなくちゃいけない」
「確かにそうだね。でも、僕にはこうして話してくれる」
「雄も知らない方が幸せだったかもしれない。雄の両親が雄に話さなかったのもそれがあってのことだと思う。だけど、本当のことを知りたいと思っている雄の思いを踏みにじることはできない」
「正直に話してくれたことはとても嬉しく思う。でも、とても複雑な気持ちだよ」と僕は言った。「ねぇ、このことは僕の父さんも知ってるんでしょ?」
「ああ、知ってるよ」
「ねぇ、佐野さん、父親って何なの?父さんは僕が本当の息子じゃないことを知りながら育ててくれたんだよ」
佐野は少し考えてから、「雄、その質問には答えてあげられそうにない」と言った。
「うん」と僕は言った。僕は初めて佐野の口からまともな答えが出て嬉しかった。「ねぇ、話は変わるけど、佐野さんが僕に言いたかったことって何?」
それ聞くと佐野はうなずいた。「こんなこと言っても信じてもらえないだろうけど、俺は幼い頃の雄の姿を今まで忘れたことはなかった。こうして成長した雄に会うまで、おれはおれの中にある雄の姿を愛していた。おれはこれだけを雄には言っておきたかった」
「佐野さんはいつ頃まで僕に会ってたの?」
「最後に会ったのは雄が二歳になった時だよ」
「あの写真が取られた時だね。それ以降はもう僕には会わなかったんだね?」
「ああ」
「どうして?」
「悪いと思ったんだよ」
「僕に会うことが?」
「ああ」
「母さんや父さんは佐野さんが僕に会うことに反対しなかったの?」
「雄のお母さんやお父さんは俺が雄に会うことを許してくれたよ」
「佐野さん、僕には母さんや父さんが考えてることがよくわからないよ。どうして母さんは佐野さんのことを許したんだろう?どうして佐野さんが写る写真を今までずっと残しておいたんだろう?」
しかし、佐野はこの質問にいつまでたっても答えなかった。佐野に分かることではなかったのかもしれない。僕の両親に訊けば分かることかもしれないが、僕はこんな話題を家族と共有したいとは思わない。母さんや父さんが佐野のことをどう思っているのか、それを両親に直接聞的に訊きたくはない。佐野という存在を家庭の中に持ち出したくはない。当然、僕がこの日、佐野と話したという事実も永遠に両親には伝わることはない。そして、僕が成長した結果として感じ取った佐野の姿や彼が持つ思いや事実を家族と共有することもない。ただ、アルバムの中にあるバースデー・ケーキを前に僕と佐野が一緒に映っている写真は永遠に残される。母さんや父さんがその写真を処分しないならば、僕がそれを処分することはできない。
佐野がこの日、僕に伝えたかったことを伝えることができたならば、佐野にとって僕と過ごしたこの時間には意味があったのかもしれない。しかし、それによって彼のこれからの生き方にどのような変化をもたらすかを考えた時、僕は彼を憎まないわけにはいかなかった。彼はこの事実を彼の家庭の中に持ち出すことは永遠にないだろう。僕が知らない彼の妻や娘には何も伝えられないのだ。佐野と彼の家族は、これからも自分たちの生を生きるだけなのだ。そして、僕や僕の両親もまた、自分たちの生を生きるだけなのだ。
結果的な幸せは、真実を隠蔽することで得られるのかもしれない。