純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号157 『東京ちんこ倶楽部』  目が覚める思いだった。イタリアン・トマト・カフェ・ジュニアのレジ・カウンターの向こうには、恐ろしい美貌の女がしとやかに微笑んでぼくを迎えていた。こいつは「地下鉄小町」どころの騒ぎではないぞ!彼女の目にはぼくを奮い立たせるあらゆるコケットがひそんでいた。ふっくらとした柔らかな頬が薔薇色にそまり、豊かな睫が静かに影を落としていた。ぼくはぴくぴくする唇のふるえをやっとのことでおしととどめてカフェ・ラテを注文した。それがホットであるのかアイスであるのかを明言しなかったため、彼女は尋ねた。ぼくは予期せぬ質問に激しい動揺を隠すことができなかった。それでもあわてふためきながらも頭の底に沈んでいたぼんやりとした飲料のイメージを引っ張りあげ、成形し、着色し、ホットとつぶやいた。ぼくはあまねく液体に温度というものが存在することすら忘れていた。もっともそんなものは、人間のエゴイズムが、ぼくの精神を苦しめ、さいなめ続けるエゴイズムが、ほんのお慰みに考え出した、吹けばとぶような下らない滓のようなものにすぎないのであるが…。  ぼくはぶっ倒れそうになるのを必死にこらえて注文が提供されるのを待った。彼女の声の豊かなアルトの響きが両方の耳からぼくの心に染み込みぼくはいたたまれない気持ちになっていた。シロフォンをフィーチャしたカルテットが奏でる静かなジャズの調べがやっとのことでぼくの耳に届いたころ、ソーサーにのったカフェラテがカウンターに差し出された。豊かな肉付きの指は短く、彼女の手はまるでもみじのように真っ赤に燃えていた。まるで炎のようだった…。  店には煙草の煙がむんむんと立ちこめていた。フロアを埋め尽くした20人もの客がほとんど一斉に煙草を吸うものだから、まったくひどい臭いだった。かろうじて隅にうらぶれた寂しいテーブルを見つけたので、隣にかけた女達の背中を蟹のようにすり抜けてそこについた。そしてゆっくりと煙草を吸い、カフェラテを飲みながらとんだときに見つけた女神の背中の肉付きの輪郭を瞼の裏で何度となくなぞりつけた…。  ぼくはもう4日も射精していなかった。大きな仕事をするときには、何日も精子をためこんで臨むのがいつのころからかぼくの習慣になっていた。ぼくが発見した女神も精子が見せる幻覚のようなものなのかもしれなかった。第一、ぼくは街を歩く女の尻という尻、ふくらはぎというふくらはぎに獣欲を燃え上がらせていたのだ。今ぼくの隣でべらべらと飽かずおしゃべりしているお世辞にもぱっとしない3人の女も、ぼくにとってのヘラ、アテネ、アフロディーテなのかもしれないのだ!ぼくは激しく求めていた…。もう2年半もセックスしていなかった。女の肉のかけらにすらふれていなかった。ぼくは一言でいえば…飢えていた!飢えた、狼だった…。  「生殺しって、面白い言葉よね。」  ぼくは世紀の悪女面したそのじつ凡庸たる才気の女がこう言うのをきいた。それを聴いた他の2人がはじけるように笑い出した。ぼくは新しい煙草に火をつけた。壁をおおう巨大な窓から、にわかに雨が降り出すが見えた…。  ぼくは彼女らの織りなす下衆た会話の文様にはどうにも我慢がならなかった!彼女らは皆で力を合わせて彼女ら自身をスポイルし、全速力で人生の厳しさ、真実から逃走していた。程度の低いユーモアにも不自然なほど笑い転げ、各々が語りあうそれぞれの理想的な自分像を、必死に補完しあっていた。1人が自らを悪女なのだといえば、残りの2人がいかほどに悪い女なのかをほめそやし、1人が世話好き女房ぶりをひけらかせば、なんて頼りがいのある女なのだと、汚い口元から唾をまき散らし、諸手をあげて賞賛する!それでいて彼女ら自身はどこをどうきってみてもまったき平凡な女でしかないのだ…。それも全然ぱっとしない女たちなのだ!  ぼくはただの一瞬でも彼女らを女神と崇めた自分が恥ずかしかった。ぼくはカウンターの女のことを思った。彼女のほうをみた(ぼくはちょうどカウンターを正面から眺める席に座っていた)。彼女はバイトの男となにやら飲み会の出席について話していた。それも男の出席を彼女が聞いているのだった。なにせ客が多く騒々しかったから、うまく聞き取れはしなかったが、男が参加できるとしても2次会からだと言っているのを、ひどく残念がっている様子だった。もちろんぼくはそれがリップサービスにしかすぎないことをすぐに見てとった。彼女の顔には、ぼくに見せたようなコケティッシュな微笑が浮かんではいたものの、その瞳をのぞけば、発言にまったく心がこもっていないのは丸分かりだった。ぼくは彼女にひどく失望した…せめて彼女にくらいは、くだらないことはくだらないのだと、言ってほしかった。1人の阿呆が飲み会にいようがいるまいが、どうでもいいことじゃないか。いや、そもそも飲み会などというエゴイズムの大集会から、ひとかけらでもなにかを学ぶということがありうるだろうか…?あんなものはそこらの駄犬にでも食わせちまえばいいんだ!  …ぼくは疲れきっていた…大仕事を終えて、疲れきっていた…!ペニスも疲れていた…それにぼくの美意識が、崇高たるなにかを死の瞬間まで求め続けであろうほどの、ぼくの強烈な美意識が、ぼくの劣情をなぎ倒した。ぼくはもう淫靡な女たちのことなど忘れていた…。ぼくは今日の大仕事について反省をはじめた…壁にかけられた時計は午後7時を示していた。ぼくが決死の覚悟で奪い取った時間が、汚らわしい本能によってスポイルされていた。かといって、他にやることもないのだが…ぼくはぼくがおもむろにオフィスを飛びだしたときの社員の顔を思い浮かべた。憎しみをあらわにするもの、背中を向けたままその背中に語るままにさせておくもの、ぽかりと口をあけた世にもまれな間抜け面…。ぼくはそれらを強く心に刻み込んだ。そして今こうしてほくそ笑んでる…。ぼくはついにやった!やってやったのだ!廃人養成機関、愛すべき我らが「会社」とやらを、ぶっちぎってやったのだ!ぼくはとうとう人間に生まれかわったのだ…労働が生み出すのはゾンビーだけさ!まさに腐った人間ってわけなのさ…。  オフィスにいる間の人間達のことを考えてみるといい…。そうすればまさにオフィスこそが人間の墓場であるということが分かるだろう。あふれ出す生命のエネルギーを金というひからびきった糞に変換するために、ぼくは自分自身を殺しているのだ。自ら息をつめて、殺しているのだ…ッ!  ぼくはもう1時間も鬱々とした心をかかえてぶつくさ恨み言を言っていた。すべてが仕事に対する呪詛の言葉だった。でも同時にぼくは両肘をテーブルに立てて頭を抱き、即席の地下室のせま苦しい空間を満たす自分の呪いの言葉に心中得意になり、にやにやとした気味の悪い薄笑いを隣の女達に悟られまいと苦心したほどだ。《ぼくはなかなかの詩人だぞ!》《強い思いがあればぼくだって詩人になれるんだ…!ほら!いまぼくはなんといった?!吐きつけられた唾!地面に吐きつけられた唾といったんだぞ…!!この一言など、ぼくの考えをすみからすみまで覆っていながら、実に簡潔に、生々しいイメージでもってそれを象徴しているではないか!ここにきてぼくは…なんという「成長」だ!》  しかし、とうとうぼくのうめきに耐えられなくなったと見えた3人の女達が席をたち、ぶしつけにぼくをさげすみながら(ぼくはうつむいたままであってもその厳しいまでの視線を後頭部に感じることができた)イタリアン・トマト・カフェ・ジュニアを出て、小雨の降りしきる夜の下北沢の街に消えていってはじめて、ぼくはがばと体を起こし、すでに夜の闇が十分すぎるほどの深みをましていることに気がついた。ぼくは上司から宿題として手渡された3冊のビジネス書のことを思いだし、びっと体を震わした。週明けまでに読み切って、概要をレジュメにまとめ、社員の前で発表し、おまけにそれらの内容をもとにぼくがどのようにして「成長」ゆけばいいのか、プランを考案しなければならなかった。なんという苦痛、そしてなんという恥辱!「成長」…。ぼくは彼らがいうところの「成長」の意味がいまだまったくわからずにいた。いや、なんとなくは分かっていたが、彼らがそこに価値を見出すような理想像に、ぼくはまったく納得がいかなかったのだ…。彼らがみな考えの足らない薄のろに思われた。己の生に対して非常に不誠実であると思われた。なぜみんな人生を…いや、生命を…、見つめようとしないのだろう?  ぼくは(そして誠実な人間である誰もが)、もっと観照的な人間なのだ…。ぼくは街に息づく人々の生の営みを愛し、清らかな冬の光りに照らされた街を、真っ暗な闇に包まれた深夜の住宅街を、愛している。ぼくにとっての「成長」とは…。それらの美と一体になることなのだ!自分というエゴを、人間というがちがちの存在の器をときはなち、純粋な認識の世界へと飛び立つことだ…。ぼくは夜の闇へと消えていった女たちをうらやんだ…。ぼくも沈みこんでゆきたかった…闇に包まれ、自分という存在を離れて遊歩したかった。しかし…ぼくの目の前には3冊のビジネス書が積まれていた…(ぼくはいつの間にかそれらをテーブルの上に積み上げていた)。  すでに9時が過ぎようとしていた。ぼくはいよいよ最初のビジネス書に手を出そうとした。今読まねば、ぼくはこれを週末にまで持ち越さなければならない。ぼくの人生に残された最後のオアシスである休日にまで…。ぼくは休日にまでこんな臭い息のようなものを持ちこしたくは決してなかった。フロアを埋め尽くしたもくもくと煙草を吸い続ける客たちが、いつのまにかごっそり消えていた。店に残されたのはほとんどぼくと店員ばかりだった(カウンターの女神はいつのまにか姿を消えていた。代わりにけだるそうな顔をした若い男がレジの前につっ立っていた)。フロアを覆った煙も消えていた。店の中がはじめてクリアに見渡せた。息も楽になった。もうぼく以外に煙草を吸う客はいなかった。残った客はエントランスに近いテーブルについた女たちだけだった。ぼくは新しい煙草に火をつけ、おもむろに最初のビジネス書を取り上げた…。  果たして2時間がたった…。ぼくは苦痛にみちた顔をあげて駄馬の糞みたいなビジネス書をソファに放り投げた。はじめからそうきれいなソファでもなかったが、これが放り出されたことでもう全く存在の価値をなくしたように思われた。だとしたらぼくは無、ありうべからざる存在の上に腰をかけていることになるわけだ…。ぼくはほくそ笑んだ。ぼくの詩が、ぼくの人生に一筋の未来を照らし出したのだ…。《もういっそ会社など飛び出して、ほんものの詩人にでもなろうかしら?それこそがぼくらしい生き方、ぼくの生命の炎をもっとも十全に輝かしむる生き方ではないかしら…?》《もうどうでもいいではないか?ぼくのこれまでの人生に一片でも魂の光明に包まれた瞬間があったか?なんの意味のない人生だったではないか…。生活の、未来の不安に汲々として、いっときたりとも生命の、自然の、女の、現象の輝く呼びかけに、すべてを捧げきることがなかったじゃないか!》
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