純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号156 『ブレス』  指名が掛からない彼は花見小路でパーラメントに火を点け、疎らに行き交う人々を見ていた。 「……暇やな」  この頃、十代の終わりから二十代の前半に掛けて祇園という街を席巻してきた彼も、ホストという仕事に限界を感じていたのだった。 「シンさん、今日、来客の予定は?」 「アカンわ、全然。まだ組めてへん」  シンと呼ばれた彼は、視線を遠くに漂わせたまま自嘲するように笑った。その際吐き出された煙は、不規則なラインを描いて知らぬ間に消えていく。まるで自分のようだと二度目の笑みを漏らした。  水商売という華やかな世界。しかし、現実は厳しくて醜い。そして何より寂しいものだと彼は知っている。あれだけ騒がれていた彼も、一度頂から転げ落ちると周囲は知らん顔を決め込む。そう、過去の人なのだ。それを認めながらも、今いる店への義理立てと役職への責任感から自身の引退を思い止まらせていた。 「シン……ちゃん?」  そう呼ばれて振り向いたのは彼自身ではなく、隣にいた後輩のホストだった。 「シンさん、呼んだはりますよ」  やっと振り向いた彼は、声の主である女性に焦点を合わせた。ワインレッドのドレスにその身を包み、髪をアップにしている。 「シンさん知り合いですか? めっちゃ綺麗な人やないですか?」  鮮やかに映える栗色の髪、黒目がちな瞳の大きな目、高く整った鼻筋、厚い唇。 「……シホ」  十年以上も前、彼が駆け出しのホストであった頃に出逢い、その後数年間に渡りナンバーワンとしての地位を支え続けた女性、名前をシホといった。その変わらぬ、否、さらに進化した美貌と、かつてはしなやかであったが今は違う自身の容姿とを比べ、彼はこの日三度目の笑みをバツ悪そうに溢した。華麗に夜を彩る彼女は、彼にとっては眩し過ぎるのだ。 「偶然やね、お店この辺?」  そう言って見せた笑顔は、十年以上たった現在も彼の心に安心感を与えた。そしてその息遣いは、曖昧になりかけていた記憶を鮮明に蘇らす魔法でもあった。  ――あの日、もう少し自分が大人であったならば……。 「ごめんな、ホンマにごめん」  泣き崩れる彼女を目の前にして、彼は何も出来なかった。いや、しなかったといった方が妥当するであろう。  ずっと守ってきたナンバーワン。しかし、それは彼一人の力ではなかった。目の前で泣き崩れているシホの助けがあったからこそ、ナンバーワンになり、維持してきた。 シホは自分のカラダから対価を得て、彼のナンバーワンを維持するために店へ通っていた。己が愛した男の願いを叶えるために。そのことを重々わかってはいた。しかし、その地位の持つ味をおぼえてしまった彼は、麻薬に溺れるがごとくそれにのみこだわった。だから、もう自分を応援できないという彼女を冷たく切り離した。 当時、彼は彼女以外の客も多くつかまえており、その存在がなくとも十分にトップとしての地位を守り通すことが出来るという自信があったし、事実、シホの足が遠のきだしてからも売り上げを伸ばし続けていた。 「ねえシンちゃん、私はシンちゃんの何?」  店に来る度にそう訊く彼女が、次第に煩わしく感じられるようになっていたのだ。感謝をしていないわけではなかった。大切に想ってもいた。けれど、若い彼は、野心に燃えるシンというホストは、彼女にのみ縛られるつもりは毛頭なかったし、あくまでも客の一人であるという姿勢を変えなかったのだ。たとえ、二人が共にした多くのベッドの中、その瞬間に愛しさをおぼえたとしても、それはそのワンシーンのみを彩る気持ちなのだと言い聞かせて。この日より後、シホから連絡が来ることはなかった。自分からもコンタクトを取ろうとはしなかった。彼は忙しさの中に、あえて彼女のことを考えまいとしていたのかもしれない。  けれど、シホが目の前から姿を消して暫く経つと、思いの外心に大きな空洞が空いてしまったのを感じていた。その時決まって頭に蘇るのは、自分を勇気づけてくれたシホの言葉、一心に自分を見詰める瞳、彼女と過ごしたさまざまな場面。  彼はその頃になって漸く、彼女を愛していたことに気付いたのだった。幼過ぎて愛情というものの意味さえもわからず、それが愛情であったことにすら気付けないままに。 シホに似た後ろ姿を見掛ける度にその背中を追い、声を掛けた。しかし、それは皆シホではなかった。彼女を失った虚脱感を紛らわすかのように、彼は金で交わされる泡沫のラブシーンの中へさらに身を投じていったのだった。  そうして一層積み上げたシンというブランド。しかし、それも砂の城のように時に流されていってしまった。 「懐かしいなあ。店、暇なん?」 「見ての通り。指名がないからこうやって外で立ってんねん」 「そうなん。じゃあ、今から行こっかなあ?」 「ええよ……、そんなん」 「何、遠慮してんの? シンちゃんらしくないなあ。とりあえず行くで!」  押し切られる形で、彼はシホを店へ案内した。  その月、成績の芳しくない彼がゴージャスな女性を伴い店へ戻ってきたことに、店内は俄かに色めきたった。他の席から注がれる後期の視線に応えるように、シホは高らかに声をあげる。 「私、最近はシャンパンしか飲まへんねん。シャンパンのメニューちょうだい」 運ばれてきたメニューに目を落としながら、以前と変わらぬ鼻に掛かった甘い声でオーダーを告げる。 「……クリスタルあんねや。じゃあ、クリスタルで」 「そんな高いんやなくて、カフェ・ド・パリとかでよくない?」 「あんなんシャンパンちゃうやん。それに私は今、シンちゃんとクリスタルが飲みたいの!」 「せやけど、そんなんしてもうても、今の俺にはお返しなんか出来ひんで」 「……シンちゃん、私が見返り求めたことあった? 私はそうしたいからするだけ。それは今も昔も変わらへんで」  その声に、優しさと懐かしさを慈しむ気持ちが溢れていることを彼は感じていた。 「乾杯」  フルートグラスに注がれた黄金色の液体から、キメの細かい泡が生まれる。その一粒一粒には、彼と彼女にしかわかり得ない記憶が詰まっているのであろう。二人がクリスタルを口に含み、思い出話に花を咲かせる様は、どのテーブルよりも柔らかで穏やかな空気に包まれていた。 「今日、シホに逢えたことで踏ん切りがついた」 「何に?」 「俺、そろそろホスト辞めようと思う。昔みたいに売上出来ひんし、ギラギラする気持ちにもなれへんし」  何かを、どこかに置き忘れていたものを探すために彼は祇園にしがみついていたのだ。店への義理立てや役職への責任感など、それを見付けるまでの言い訳に過ぎなかった。それを偶然、幸運にも彼は見付けることが出来たのだ。シホを突き放した当時の澱み沈殿した気持ちが、彼女の変わらずにいてくれた優しい笑顔によって救われたのかもしれない、そう思わずにはいられなかった。  シャンパンを飲み終えて、帰るといい出した彼女をエレベーターに乗せる。 「よく、エレベーターの中でチューしたなあ!」  勢いよくそういったシホは、すぐに目を閉じて彼の首に手を回した。甘い香りが鼻腔を突き抜けていく。 「ヴェルサーチのブルー・ジーンズ?」 「懐かしいやろ? シンちゃんがプレゼントしてくれてからずっとつけてんねんで」  目を閉じたままそう応える彼女の唇をそっと自身の唇で塞ぐと、彼は何度も指を絡ませた髪に触れてみた。僅かに乱れた髪が艶やかな感触を指先に伝える。そのまま彼等は、一瞬を永遠と置き換えて同化していく。  一階への到着を報せるブザーが無情にも響くと、二人は互いの身体から一歩距離を置いて呼吸を整えた。そして、目を合わせるなり笑いあったのだった。 「私、今度結婚すんねん」 「そうなんや、おめでとう」 「シンちゃんも、いい人見付けるんやで」  そういって背中を向けたシホを見送りながら、彼は耳許に残る彼女の息遣いを深く心へ刻み込んだ。  ――数ヵ月後。  彼はホストとして最後の日を迎えていた。全盛期に比べればどう見ても寂しい花の数。淡々と進む時間に感傷がないといえば、それは嘘になるが、気持ちが重いものでないことは確かだった。  数少ない指名客のテーブルを座る合間に、彼は仲の良かった常連客の席を回った。そうしているうちに、新たなゲストを迎えるスタッフの声が響いた。  真っ白なドレスを纏い、全身から湧き出る絶対的な空気を引き連れながら、その女性は席に着いた。広い店内が刹那の静寂に包まれる。 「……シホ」 「何やな、水臭いなあ! シンちゃん、ラストやったら言わなアカンやんか!」 「ごめん」 「さっ、今日はあんまり時間ないから、クリスタル持ってきて!」  派手なマイクパフォーマンスで運ばれてくるシャンパン。テーブルを囲むように従業員が集まる。 「ごめんやけど、シンちゃんと二人だけで飲ませてくれへん?」  その言葉に、密集したスタッフは各々の着く席へ戻っていった。 「シンちゃん、今までお疲れ様」  撫でるようにシホの声が発せられると、彼の頬を熱いものが滑り落ちていく。 「ありがとう、シホ。俺、ホンマにお前のこと……」 「その先は言わんといて。さっ、飲もう!」  シャンパンが次から次へとボトルの底から湧いてくればいいのに、そう彼は思った。飲み干してしまえば、シホは帰ってしまうのだ。願いが叶えられることなど決してないというのに、愚かにも願ってしまう。遅過ぎる想いであることなどわかりきっている、と何度言い聞かせても、彼の胸に込み上げる未練という名の記憶。  ボトルから最後の一滴がグラスに注がれると、彼等は見詰め合い、二人だけに聞こえる声で囁き合った。 「ホンマに、……バイバイやな」 「せやな。シンちゃん、元気で」  タクシーにシホを乗せ、その後ろ姿を見送っている最中も、彼の鼓膜を彼女の甘い声と息遣いが震わせている。彼女と過ごした濃密な数年間の記憶を早送りで、しかし一つひとつ丁寧になぞりながら。彼は店へ戻るためにビルへ向かって歩き出した。  エレベーターの鏡越しにシホのルージュの着いた唇を拭い、店のある階のボタンを押す。上へ上へと昇っていく古いエレベーターの喧しい機械音で、僅かに耳へ残ったシホの息遣いは掻き消されていった。                            (了)
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