純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号155
『君と僕』
百合
その名前の見ると思い出すのは、決まって君の事だ。
僕は君ほど、泣き顔の似合わない女性を知らない。
君の唯一、苦手だったその顔を、僕は今でも愛せるのだろうか。
僕にそんな権利が果たしてあるのだろうか。
4年前の春、僕は君を振った。留学という名目で学校を辞め、海外の大学に進学をしようとしていたからだ。突然、僕から別れを告げられた君はびっくりしただろう。当然のことだと思う。君に何も言わないで下した決断だったのだから。
君には本当に申し訳ないと思うが、僕には志があった。それは、どうしても日本を離れ海外へ行くことでしか叶えられなかったのだ。だから僕は、全ての手続きを終えた後で君に打ち明ける方法を取った。全く、ずるい男だと思う。それで、結果的に君を傷付けてしまった。君がその時流した涙を未だに覚えている。普段、泣き出すと止まらない君が、その時は静かにほんの一粒の涙を垂らしたのだ。その涙は、僕の犯した罪の重さをまるで物語っているかのようだった。
それからの日々は苦痛の連続だったね。君は当然、辛かったと思うが、僕も本当に辛かったんだ。どこへ行くにも、今ここにいることが全て思い出になってしまうと思うと、自分達が今いる場所が、一瞬にして現実味を帯びないただの空間に変わってしまう。結局、僕が日本を出発するまでの思い出作りにしか過ぎないと思うと、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。同時に、自分の残酷さに嫌気が差した。一緒にいられる限りある時間を、出来るだけ一緒にいたいと思うことで、君を出来る限り安心させようという安易な考えこそ、僕のエゴに過ぎなかったのだと思う。僕は自分が安心したかっただけなのかもしれない。君を一人にさせてしまうことへの罪悪感から救われたかっただけなのかもしれない。本当の孤独は、僕だった。
一度だけ、僕がデートの約束に遅れてしまったことがあったと思う。時間には特に気を遣う僕が、遅刻をすること自体珍しいことなのだが、まさか君も新宿の駅前で2時間も待たされるなんて思ってなかったはずだ。あの日、前日の寝不足でなかなか起きられなかったことを言い訳にしていたが、本当は君を困らせたいというただの好奇心だったのだ。その時の行動は、何度考えてみても理解し難いのだが、家を出た瞬間にふと「僕が今日、約束の時間に来なかったらどんな行動を起こすのだろう」という彼女を試すような感情が、頭の中を過ぎったのだ。きっと、彼女は待っていてくれるという根拠の無い自信さえあったが、君はその場にいなかった。無論、その場にいたところで君への愛が深まったかといえば、そうでもないように思える。結局、僕のあの日の行動は何だったんだろうと未だに思うが、君に愛されていることを確認するような子供染みた無意識の行動ということで、自分の中で結論付けている。
一つ、この場を借りて謝らせてほしい。頼りない男で、ごめん。君が思うほど、僕はいい男じゃない。君を置いて海外に来たくせに、慣れない環境となかなか上達しない語学に対して何度も弱音を吐いた。それでも、君から貰った激励の言葉を時折思い出しては、前を向いて進んできた。今思えば、君がどんな思いで僕の背中を押してくれていたか、きっと想像を絶する葛藤があったに違いない。自分の側にいてほしい気持ちと、それでも応援してあげなければならない気持ちと、自分の気持ちと裏腹の現実の壁に何度も押し潰されそうになっていたと思う。その気持ちを、僕はどこまで理解してあげられただろう。彼女の救いをなることは出来なくとも、恋人としての最低限の役割くらいは果たせていただろうか。胸を張って「はい」と頷けるほどの自信が、僕にはない。
出発の日、君の要望を押し切って僕は一人で日本を立った。理由は話さなくとも、分かるだろう。君の顔を見たら、行けなくなってしまうと思ったからだ。僕は今でも、その事に関しては後悔はしていない。日本に帰ってきたら、まず先に君に会いに行こうと考えていた僕の勝手な思惑ではあるが、もしかしたら一生、君の顔を見ることはないかもしれないという日に、君の泣き顔を見るのは、あまりにも荷が重過ぎた。しかし、人間とは矛盾する生き物だなと思う。成田空港に着いた瞬間に、君が見送りに来ない事実が、無性に許せなかった。見送りに来る以前に、搭乗口ですら教えていなかったのだから仕方が無い。けど、もしかしたらそれでも来てくれるかもしれないという、限りなくゼロに近い可能性を、ほんの少しでも信じている自分がいた。自分でそうなるように仕向けたくせに、何に対して期待をしているのだろうと、自分の図々しさと身勝手さに怒りさえも覚えた。最後のデートの日に、「飛行機の中で読んでほしい」と言って君から貰った手紙を読みながら、静かに涙を流した。
君に言えなかった言葉があるとすれば、「ありがとう」と「ごめん」。この二つだと思う。謝罪の言葉よりも感謝の言葉を言えるようになりたいと、以前君は言っていたけれど、僕が思うに、感謝の言葉を述べられるのは、心に余裕がある人間だけだ。僕には、その資格がない。僕がどんなに「愛してる」と言ったところで、結局君に辛い思いをさせたことに変わりははい。僕はきっと、世間から逃げていた。非難の声を浴びるのが、怖かった。だから、同情してほしかったんだと思う。君が辛い思いをするのは、誰の目から見ても一目瞭然だから、僕に対しても味方が欲しかったのだ。僕のことを庇ってくれる存在が欲しかった。君が辛いのは当然だが、僕も君と同様に辛かった。ある意味、君以上に辛いのは僕だったのかもしれない。僕には君に、ありがとうと言う資格がない。それでも敢えて言いたいと思う。ありがとう。そして、ごめん。これは君をたくさん泣かせてしまったことへの償いだ。
これから僕は、4年ぶりに日本に帰る。日本に着いたら、まず一番に君のもとへ行こうと思う。引越しさえしていなければ、君はきっとあの場所にいる。もし、引越しをしていたら……それは、その時に考えよう。そうだ、君の好きなアップルパイを買っていこう。もし君が、最後の最後まで、僕の我儘に付き合ってくれるというのなら、これから徐々に4年間という空白の時間を埋めたいと思う。こんな僕を許してほしい。自分勝手は願いだが、僕の願いはただそれだけだ。
機内のシートに座ると、目を閉じた。ヘッドフォンに耳を当てる。
静かに流れる時間。
沈黙と無音。
百合、これから僕は君のもとへ行く。