純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号152
『帰路』
それはある夜のこと、会社勤めを果たし私は色の褪せた町並みを眺めながら帰路をひたすら歩んでいました。
暴君色の濃密した戦争も一昨年には終り、この町は都会のような、通り魔やらひったくりなどのあの物騒としたことも起きず、まさに日本国の掲げる「平和」の文字通り平穏で和やかな田舎町なのです。
しかし、その夜はどこか狂しな気分といいますでしょうか、何故か私の周りが妙な異質感に囲まれているのです。
・・・不気味な静寂が続きます。私はそれに耐えられず、駆け出そうとしたそのときです。
「カランコロン・・・」突然のビューとした微風と共に、どこからか軽質を含んだ滑稽な音が聞こえてきました。
私は、何事かと思い振り返ると、それはどうやら一本の空き缶から発せられていたのでした。
殺風とした風景を否定するかの如く、それはいかにユーモラスに転がるのでした。
私は何を思ったのか、その軽質な何処か幼い響きに妙な親近感を覚え、十字路にちょうど位置する古ぼけたタバコ屋の自販機で一本の炭酸水を購入しました。
銀色の小さな蓋を指でパカッと開けると、私はその水色の液体をひたすら喉に流し込みました。
「シュワ・・シュワッ」爽やかです!、爽やかなのです!私はこの重い時代をこの苦渋社会それら総てを忘却できるようで、とても幸福な一時を得ました。
飲み終えて、缶を見つめるとやはり先ほどの空き缶がとても愛しく思え、後ろを振り向きました。
しかしそこにあるのは、ただのあの異質な空気だけでした。
私はそれに対し畏怖や恐怖というよりも何処となく空しさを覚え、せめて今この飲み終えた缶だけでもと思い、その空き缶を道にカラン・・と転がして・・
そして私はまた前を向き、また帰路を真っ直ぐに進みます。
一歩を踏みしめたその時、またあの微風が吹き、後ろから「カランコロン・・」と空き缶のあの軽質な音が響きました。
「ふふふ・・」と私はその滑稽な空き缶の可愛さに笑みを漏らし、軽快にスキップしながら、帰路を駆けました。
帰路に着くとガチャッとその厳重な玄関を開け、すぐに施錠します。あがりかまちに腰を下ろし、私はその日初めて、いや炭酸水以来の安息の一息を得たのでした。
食事や趣味の読書などは、疲労で頭には毛頭も無く、私はただ一心不乱に寝室を目指すのでした。
ドンッと重いドアを開け放ち、その暗い闇に体を委ねます。ゆらゆらと、私は柔らかな安息を求め、流行のベッドに身を預けました。
「ガンッ」しかし、それは予想を反し嫌に硬く、あの和の敷布団の柔らかさなど微塵も感じられません。
社会だ・・社会だ!!私は戦後のこの苦しい社会のようだと咄嗟に思い、目元からあの塩辛い一筋が流れ落ちました。
・・・感傷を終えて虚無に入る頃、私の体にあの妙な異質感を覚えました。それは意識という意識を這いずり回り、頭からつめの先まで・・
ぐにゃ・・ぐにゃ・・意識が揺れて・・あぁ・・私は・・
・・そのとき何処かの遠い町で彼の父が眠りに着いていた。彼の父は泣いていた・・それは彼を忘却することに泣いていたのだった・・
そしてその涙はベッドから零れ、絨毯を進み、壁をつたって、開け放たれた窓から何処かへ飛んでいくのであった。
それは彼の母から、妹から、弟、そして彼を見知った人々の彼との記憶までも液状化し青い雫と変わり、彼のもとへと集中しその形を形成していくのであった・・
次の朝、私は缶になっていたのでした。しかし、私は空き缶などでは御座いません。中になにやら暖かい液体を感じるのです。
それは言わずとも何か私は感じ取ることができました。それはおそらく、いや涙なのでした。
そしてそれは私と関わってきた人々の私との思い出を液状化したものでした。つまり私という人間は一夜にして何もかも忘れ去られたのです。
しかし私は悲しいとか空しいとかそうゆうものは微塵も感じません。なぜなら彼らの想い出は私の中に詰まっていたのですから。
私と喧嘩別れした両親、私に裏切られた友人、私に恋した女・・みな総てが今ならわかります・・
悲しかったろう・・心配しただろう・・私が都会を出てこの田舎に一人旅立ったことに皆それぞれの思いがあったのです・・
・・そして私はあの昨日の十字路に転がっております。カランコロン・・私は歩きます・・一歩一歩進む度に体からは、暖かい液体が零れてゆくのでありました。
悲しみ、憎しみ、愛しさ・・そういった彼らの総ての感情が次々と零れて、私は帰路へと・・涙を流しながら・・ひたすら帰路を向かうのでありました・・