純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号151
『公園』
僕・一
僕は誰もいないちいさな公園にいた。子供の頃からなじみ深いブランコに、少し揺られながら空を見上げていた。ここまで見事な夕陽をみようものなら、どんなに落ち込んでいようが誰だって、少しは嬉しくなるだろう。風に吹かれ、注ぐ燈色の光の中で砂が舞う。いつもこんなに綺麗ならいいのに。
時折砂が目に入って少しいたかった。風が容赦なく吹き付けてくる。低い柵の向こうに、誰かの住宅が間近にみえる。その手前の木に白いビニール袋が垂れ下がっていたが、まもなく左の方へ飛ばされていった。
僕はブランコを降りて背筋を伸ばしてみた。肩の骨がわずかにきしんだ。またも砂が目に入った。
もう行かなくては。いや、帰らなくては――。
そばにおいていた荷物をつかんで、寄り道を終わりにした。
風に逆らいながら、しばらく歩いた。もう飛んでくる砂はない。家に着き、公園で砂にまみれた服を玄関で払いながら、ただいまという代わりにわざと音を立てて戸を閉めた。体にあたっていた風がなくなったからか、肩から力が抜けた。
居間に入ると誰もいなかった。ただし鍵がかかっていなかったので、どうせ姉が部屋でいびきでもたてているのだろう。姉が食卓に出したらしいせんべいを、夕飯前だが一枚つまんだ後、自分の部屋へと向かった。
多分、朝家を出たときと変わらないままの状態だった。どこからか黴のにおいがした。偶に、この匂いは無性に良い香りに思える。ココアや紅茶から立ち上がるような甘い香りより、ささやかだが鮮やかに香ると思う。もちろんココアのほうが素敵だけれど。
窓の外からぴゅうぴゅうと風の音が聴こえる。僕は思い切って窓を開けたいと思ったが、塵が入るとよろしくないし、黴の匂いも掻き消えてしまう気がしたのでやめた。
窓は少し汚れで曇っていたが外は充分に見えた。雲が風にどんどん運ばれていく。もう薄暗かった。
なんとなく布団に寝転がって引き続き窓の外を見る。寝転がるとさらに、窓の外にみえるのは空ばかりになった。――今日こそは、遂に風が空をもっていってしまうかも知れない。
母さんはどこにいるのだろう。空じゃなくたって、どこかには、いてほしい。かつて飼っていた三毛猫と同じところにいるだろうか。そしてあの小鳥も同じところにいるのだろうか。
そろそろ夕陽が完全に沈む頃だった。
私・一
どうでもいいようなことが、どうしても頭から離れないことが私にはしょっちゅうあった。私以外の人にもよくあることであってほしい。
その状態がまた私にきたようだ。時計の長針がいつの間にかさっきと逆方向を向いている。
今なお私の頭の中では、どうでもいいことの嵐が巻き起こっている。例えば、イルカは魚だったかどうかに始まり、今日は風が妙に強いこと、急に甘いものが飛べたくなるのはなぜか。今の状態の私にならば誰もが親近感を寄せてくれる気がする。ただし思い違いかもしれない。
このままいつも通りにいけば、そのうち頭が、私は何をしているのか。このままでいいのか。などと弱い方へ弱い方へと繋がっていく。それで急に疲れたような気がして面倒になってあとは、眠気に身体と頭を任せてしまう。だからこの思考をずっと続けて続けた先に何が待っているのかは、私にとって未知の領域だ。私は何も知らないで生きてきたのかもしれなかった。
「私」と声に出す。私。私は私だ。
風が強いから、窓を開けたら雲があっても月が見えるに違いない、と思って窓を開けると意外なことに今日は満月だった。そういえば、今日は夕陽もきれいだったな。もう少し地平線の向こうにいる人々にもあの夕陽が届いているのだろうか。この満月も届くのか。
さっきよりはましなことを考えているじゃないか私。でも、そうだ。もっと考えるべきことがあるのだ。昨日の紀仁のことだ。
紀仁に会ったのは何年ぶりだろう。偶然再会し、また偶然互いに暇があった私と紀仁は、二人、昼下がりの公園のベンチに座ることにしたのだった。
「随分つまらない人生を送ってきたよ」と彼は言ったのだった。私からすれば彼の思い違いでしかないと思えた。彼の生き方のどこに穴があったというのだろう。どこをとっても普通、特に目を見張るような不幸なことはなさそうだった。強いて言えば彼の母親が、彼が小さい時他界したことぐらいだ。それはきっと大変なことであったろう。悲しかったろう。
だからといってその他は、まあいじめたこともいじめられたこともあるとか、小中高と皆勤だったとか、それぐらいが特徴の生徒だった。むしろそれが退屈だというのだろうか。それにしても彼はまだ若い。私と同い年なのだから。
今の彼に人生なんて言葉は、重すぎるといっていい。違和感がある。それが、彼は平気でそんなことを言ったので、私はちょっとたじろいだ。それに、送ってきたよ、なんて言い方にはどこか、それももう終わりだ、というような感じがある。
とりあえず何か言わなくてはと思い、文脈はまるきり無視して、「奥さんでも欲しいの?」と聞いてみた。
「なんでそうなるんだよ」と言いつつ彼は、すこし笑った。
「人生なんてまだこれからみたいなものでしょう。あせらなくていいんだよ」
「いや、考えてみればもう俺の生涯なんていまや決まったようなものだ。このまま働けるまで働いて、仕事をやめられる頃にはおじいさんだ。ちょっと人生の残り香を楽しんで、そして気付けば足腰が立たなくなっている。カレンダーにでも書いておこうかな」
紀仁は、学生の頃からの癖と同じように、自嘲気味に笑った。なぜそういう笑い方になるのかはよくわからない。とりあえず、今度ばかりは本当に自嘲かも知れなかった。
馬鹿な紀仁の悩ましげな表情。こうして公園にいると思い出す。この公園は紀仁が小さな頃からあったという。彼が何かあればきたがる場所だった。それは今でも変わらないのかもしれない。
赤い車がゆったりと公園の横を通り過ぎた。私はあまりに悲観的な紀仁の、次の言葉を待っていられなくなった。
「相談ならいつでものるよ」
あたり障りのない言葉。なにか自分は自分の意思と違うことをしている気がしたが、そう大外れの言葉でもないと思った。
心の奥で、やはり紀仁に深刻な表情と悲観的な考えは似合うと思った。彼を観察して楽しむのは私の権利だ。
「いや、のらなくていい。でも聞いてくれ」
「うん」
「どうしてもかなえたい夢があるんだ。叶わないのはわかっているし、夢なんて言い方もどうかとは思うけど」
何も言わずにただただ話を聞こうと思った。
「誰にも話したことはない。最近そういう願望が出てきたんだ」
確か彼は、中学生の頃は警察官になりたいと言っていた。高校生の頃は作家になりたいと言っていた。決してばかげてはいない。しかし彼が今になって打ち明けてくれた本当の夢というのは、確かにありえないことだった。いやどちらかといえば、いまやそんなことを言う日本人はいないと思っていた。
彼は続けた。「どう思う。今やっていることとまるで逆だ」
「私は、考えたことも無かった。それは精神的な意味で? それとも文字通り?」
「わからない。だけど心がどうのといっていたら、そのうち宗教になる。そうなったら嘘だ」
「宗教ね。紀仁と同じようなことを考えている人は、案外多いのかも知れないよ。ただ、そういう人たちは皆、宗教に救いを求める。そしてどちらかといえば、死後の世界に安寧を求めている。つまり精神的な意味でそれを望んでるのが多数派だと思う」
私にはなんとなく、彼の夢をあらわす四文字を口に出すのが憚られた。指示語でごまかして話した。
「……」
「続きは?」
「もう終わり。俺はこの夢をかなえたい。それだけ」
「――そんなこと、いつから考えてたって?」
「中学生の頃ぐらいだと思う。何がきっかけだったかは覚えてない。いずれにせよ、今ほどではないけど」
彼もなかなかその言葉を直接口にしないようだった。
言おうと思えば一般的な意見を言うこともできた。絶対疲れてるよ、とか、おかしいよ、とか。有給とって遊びにでも行ったら? なんてのもよかった。面倒なことに巻き込まれそうだと肌で感じたし、実際普通の人ならそういうんだろう。しかし思い出してしまった、あの紀仁なのだ、いつかそんなことでも言い出しそうな気配を感じていたこと。
これだから紀仁を好きだったのだということも。
僕・二
日が沈んでしばらくすると姉さんが起きだしてきて、夕飯を作り始めた。午後八時。僕にとっては普段と変わらなかった。
「紀仁。またあの公園に寄ったの」
姉さんもある意味いつもの調子のようだった。
「寄った」
「ふうん。すきなのね」
「ふうん」という口調は若干、不自然な感じだった。うまく言えないが、白々しい。そして、「すきなのね」という口調にはとげがある。
「僕があの公園に行くのは――」
「母さん」
「違う」
「違わないんでしょう。別に構いやしないわよ。でも毎日通いつめたって、意味なんか」
僕も意味など考えたことはなかった。姉さんは僕が、公園で母の幽霊を探しているとでも思っているようだった。僕はそんな馬鹿なことをしているのではない。
少し素直になれば、僕が公園に寄り道をするのは確かに、姉さんの言うことも間違いではないかもしれない。だから言い返しはしないけれど、僕は、姉の機嫌次第で始まるこのお説教は嫌いだった。
「紀仁、あのね。きっと、母さんは死んでなんかないの。永遠の命を頂いたの」
「意味不明だよ」
永遠の命。
「ねえ、だから母さんは公園になんか居ないんだよ。たしかに母さんは公園で冷たくなったけど、もういいかげん、毎日公園に行くなんてよして」
「それは姉さんの問題?」
「ほら、野菜炒め」
姉はさっきから調理していた野菜炒めと、ご飯を一膳僕の前にたんとおいて、自分の部屋へ逃げるように向かっていった。姉さんは僕から逃げたのではない。それぐらいのことはわかっていた。他のなにかから逃げたのだ。そのなにかとはなんだろう。母さんかも知れない。
まだ火の通りきっていない野菜炒めは大層まずかった。
私・二
そういえば、私と紀仁は幼馴染だったのだ。なんとなく、彼とそういう関係があったのを忘れていた。というのも、どんな規則性があるというのか彼は、別人になり続ける人だったからだろう。ただし必ず根本には、彼らしさというものが隠れているのは知っていた。
暗い性格からお調子者になり、かと思えばなんだか生真面目になっていて、情緒が安定しているとは言いがたかった。一人称が僕から俺に切り替わった瞬間もかなり唐突で、私さえ驚いた。勉強はそこまで出来なかったし、運動もそこそこだった。でもプライドは妙に高かった。
面白い人だ。ぞくぞくするほど変な奴ではないか。最近紀仁のことなんて忘れていたが、思い出すとやっぱり好き。みていて本当に楽しい。
両親は腐れ縁だと思っていたようだが、私は出来るだけ紀仁と同じ学校へ進むようにしていたのだった。紀仁はいざとなったらがんばるようで、予想より大分いい学校を志望してしかも合格、なんて奇跡をやってのけたりもしたが、わたしもちゃっかりついていけた。
だが大学まではついていけなかった。将来のことなど考えていられなかったが、流石に他人が行くから私もいくというのはまずかった。でも、その考えはむしろ失敗だったと思う。
それのせいで急に紀仁とは結構、疎遠になってしまった。
開け放っていた窓からどんどん風が吹き込んでくる。デスクの紙類がばさばさと飛ばされ、散乱したのでやむなく窓を閉めた。
窓に私の顔が映っていた。その顔を通して闇がある。いつだったか、彼と私との間で、小鳥事件なるものがあったのを不意に思い出した。あの日もこういう夜だった。
あの時は紀仁と私で紀仁の家にいた。かつてから紀仁の父親が飼っていたという、三毛猫がまだ健在だった。その猫が突然、小鳥を銜えてやってきた。子供ながらに、もがく小鳥とその血を怖いと思った私たちはなんとなく、猫から無理やりにでも小鳥を取り上げなければいけないと思ったのだった。
夜中だった。猫を追い詰めるのに大分かかったが、それでも猫から小鳥を救出した。
小鳥は助けた後、何度も飛ぼうとした。実際少しは飛んでいたのだが、翼が傷つけられて全然飛べていなかった。私は救急箱から消毒液を取り出して、傷口につけてやった。羽以外には大した傷はなかったので、もう大丈夫だと思った。
ところが、最後に小鳥は、紀仁の手の中で冷たくなっていったのだ――それは今でも何故だかわからない。だけど、どうにもならなかったあの小鳥の、命。その空ろさに二人して泣きじゃくりながら庭に出て、お墓を作ってやったのだった。
もしかしたらあの日も満月だったかもしれない。そんなこと、関係ないか。
未だに窓に強く風が吹いていた。もう寝よう。
「永遠の命」
口に出すとより一層気味が悪い言葉だ。それがどんな意味でも、人間の考えることじゃない。
だけど、紀仁にはそれが「夢」。やっぱり、紀仁はなんてみていて楽しい人なんだろう。彼と幼馴染だなんて本当にラッキーだった。忘れていたなんて! 私は興奮のうちに眠りに落ちていった。
僕・三
僕は久しく父さんと話していなかった。母さんがいなくなってからは、父さんはかつての母さんのように優しくなった。が、その優しさが今もその通り続いているのかはわからなかった。
食費を毎朝姉さんに手渡すとすぐ出勤する。夜は遅くまで帰らない。僕は割りと、夜は早く寝てしまう。そういうのもある。でもそれだけが原因ではないとはわかっていた。
父さんはまだ苦痛を感じているのだろうか。母さんはまさに原因不明の急死だった。本当に突然のことだった。そのとき父は、いなかった。
段々母さんのからだから熱がなくなっていったのを覚えている。全く同じ、小鳥と同じようだった。だから、うろたえる姉をよそに、僕は散々泣き喚くよりなかった。もう母さんの運命は決まっている、と思い込んでいた。僕の予想は外れなかった。
父さんが母さんの運ばれた病院へ走り込んで来た時、母さんにぬくもりはなかった。父さんは母さんに触ろうと試みては、何かを感じ取ったみたいに手を引っ込めて、それを何回か繰り返してやっと母さんの頬に触れた。ぞっとするほど冷たかったはずだ。僕の知っている、小鳥の冷たさだったはずだ。
その翌週あたりから、父さんは母さんの優しさを受け継ごうとするみたいに、突然優しくなった。父さんの優しさは偽者に見えた。父が優しくなればなるほど、僕は怖くなった。僕が父さんを裏切りはしないかと。
こんなにも、あの厳しかった父さんが優しい。もし、もしもだが突然僕が父さんを思い切り殴り飛ばしたらどうなるだろう。父さんの優しさなど一変するに違いない。激怒して、殴り返してくるだろうか。黙って、僕を憎悪するだろうか。
そんなことをせずとも、僕が父さんの優しさに父さんの期待通りの反応をしなければ、同じことがありえるかもしれない。今父さんは優しさの仮面をつけている。それが壊れた時、父さんの素顔があらわになる時、それが良い類のものであるはずがないと直感でわかった。 もちろん、そんな極端なことを恐れているのは馬鹿らしいかもしれない。
だが、優しさが実は虚構だったと判明することは、どんな形でもやはり恐ろしいことに違いない。
そうして僕は父さんと会話が出来なくなった。未だにそれが後を引いているのである。
なぜ姉は平気だったのだろう。姉は父さんが優しくなって嬉しいといっていた。姉は怖くないのだろうか。人の笑顔が仮面のようにみえることが。姉がそうでもそうでなくても、僕はそうなってみたいと思った。だが、そうなることは出来ない。いつ割れるかわからない仮面は、いやその裏にある素顔は怖い。
気がつくと僕は、中学の放課後部活動を終えて、いつもの如く公園にきていた。まさか、無意識にくるとは思わなかった。もはや習慣になったのかもしれない。少し驚いた。
そしてもう一つ驚くことがあった。なぜか今日はこの寂れた公園のブランコに先客――京子がいた。彼女は幼馴染だ。あの小鳥の夜、一緒にいた。
「京子」
「紀仁」
「名前を呼び合うなんて久しぶり」
彼女はいたずらっぽい顔で笑った。僕へこんな風に、破顔一笑をしてみせるのは男女問わず京子だけだ。
「この公園、まだすきなのかあ。紀仁は成長しないねえ」
「遊ぶためにきたんじゃないさ」
「じゃあ勉強しにきたの」
「そんなまさか」
「じゃあ、成長してないじゃない?」
成長。確かに僕はまだこの公園から抜け出せないでいる。成長、なんて考えたこともなかった。
「そういう京子は何しに来た? 僕が来るってわかってて、待ってたんだったりして」
「うん、まだここによく来るって、しってた」僕はちょっとからかうつもりで言ったはずだったが、京子がおもったより素直だった。
京子が目を細める。微笑むというより、あくまでいたずらっぽく静かに笑う。馬鹿にされているようにもとれる。
「それじゃね!」となぜか大きな声でいうと、京子は駆け出すようなそぶりをした。
「あ。おい」
「え?」京子は返事は自然にしたが、呼び止められるのを待ってましたという顔だった。そうはっきりわかった理由はない。しかもそんなことに気付いたはいいが、そこから他の何の確信にも至らなかった。
「嘘みたいに優しくされたら、どうすればいい」
僕が聞こうとしたのは、何故京子が僕を待っていたのか、ということのはずだった。
「なにそれ。変なの。ありがとうって言えば?」京子はちょっと怪訝な表情をしている。
「ありがとう?」
「そうだ、ねえ、いつもは紀仁、ここに来て何してるの」
「何もしてない。暇つぶし」
「こんなところにいる方がよっぽど暇だと思うよ」
「そうかもしれないけど」
「相変わらず紀仁は面白いね。面白い。面白いままでいて。今のままでいてって意味じゃないよ」
「別に面白くないと思うよ」
「それじゃ帰るね」
京子は、今度は駆け出そうともしないで歩いていった。京子の背中がなんだか笑っているようにみえたけれど、その手前で名残惜しそうに、公園の砂が渦を巻いていた。
京子が何のために僕を待っていたのかは結局、謎だった。
私・三
昨日、紀仁にメールで今日会う約束を取り付けた。「明日また、三時ぐらいに公園で」ということになっていた。
仕事して、家に帰って、また仕事に。このままでは私というものがなくなってしまう。
綺麗な夕陽と満月を一日の内ににみようが、幼馴染とただ単に再会しようが、なんだろうが、それだけでは足りない。
いかにして紀仁と結ばれようか。
なんだかんだで。彼が私のそばにいることが、私が人生に退屈していない時の共通条件なのだ。紀仁は礼儀正しいし、一応成り行き主義ではない。幼馴染だからお母さんもお父さんも、紀仁を良く知っている。反対しないだろう。娘の勘だ。しかし考えても先が読めないのは肝心要の彼だ。どんな顔をするだろうか。笑うか、呆然とするか、怒るか、はたまた泣くか。彼ならどれだってありえる。あの予測不能な楽しい彼をどう言いくるめるか。どうしてもいい考えは浮かばなかった。もう二時半を過ぎてしまったから、残りは公園で考えた方がいいかもしれない。
公園へ向かって歩く。昔からあの公園だけは変わらない。なんども遊具の色が変わっているようだが、なぜだか物憂げな雰囲気はずっと色あせない。
私も相当な変わり者なのだな、と今更のように思う。どこも悪いことではない。むしろ紀仁が変人奇人でも私は構わなかったが、今回は彼が、あくまでそうではなくて助かった。
驚いたのは、彼が既にベンチに腰掛け、私を待っていたことだった。ブランコの横のベンチに腰掛けていた。何と言おうかなにも考え付いていないままだった。
「あ、京子がきた」
「なによそれ」私はちょっと笑ってしまった。
「結局、永遠のあれは、どうなったの?」
「実を言うと、もうどうでもよくなったんだ。京子にしか話してなくてよかった」
この言葉を聞いたとき、実を言うと私はちょっと残念だった。確かに普通の人ならあんなことを言わないものだろうが、私としては彼が奇人でも私が楽しければ構わなかった。こうころっと言っていることをあっけなく訂正するのも、もはや彼らしい。そういう人だ。昔から。
数日前まであんな意味不明のこといってたのに。こういうときはつまらない。でも、一応口からは違う言葉がでる。
「いいよ、べつに気にしてない。もうあんな怖いこといわないでよ」
「京子と久しぶりに会って、色々思い出したよ。母さんのこと、小鳥のこと。そのおかげかわからないけど、そしたら、どうでもよくなったんだ。あの小鳥、まだ覚えてる?」
「あんな怖い体験は、忘れないよ」
「それとも、俺、うつ病か何かだったのかな。俺らしいような気もするけど」
「うん。自覚してるなら、悪いけど、紀仁がうつ病って似合いすぎ」
「ひどい」彼も少し笑った。自嘲気味ではなかった。
「永遠の命は無理だけど」大きな声が出た。
「自分の分身なら残せるってしってる?」
「分身?」彼が怪訝な表情になった。
「自分の遺伝子を半分も受け継いでくれるの」
「ああ。子供」
「ほしくない?」
「ほしい、かもね」彼は真顔。
沈黙が流れる。
「京子」紀仁が沈黙を破った。
「なに?」
「ありがとう」
何が言いたいのだろう。承諾ということなのだろうか。
「どういたしまして」
急に陽射しが出てきて、先ほどまで曇天だったのだとわかった。どうでもいいことなのに、考えてしまう。
「これ、すっごく昔だけど、お前に救われた時があった」
「心当たりがないけど」
「ありがとうって言えって」
「うん?」
「俺は子供の頃に母さんが死んだだろ、それから父さんが気味悪いくらい優しくなって。当時はもう怖くて」
「うん」
「そんな父さんの前で、例えばいきなり、俺の口が死ねっとか勝手に動いたら、父さんの優しさがうって変わって、どうしようもなくなるかもしれないだろ。そんなこと、誰にだってそうだけど。そんな想像しちゃうくらい、怖かった。ずっと父さんが苦手なままだった」
そんなことは初めて聞いた。
「うん」
「でも、お前にちょっと聞いたら、ありがとうって言えばいいじゃないか、って言ってくれたんだよ」
「うん」
「だから、ありがとう。すごくたすかった」
「紀仁、あなたやっぱり面白い」
「いいよもう、俺は面白くないし」彼は頭をかいた。
「面白くていいよ。紀仁のよさだと思うよ」
また私たちは静かになってしまった。いいか、もうそろそろ。
「あのさ、また相談ならいくらでものるから」
「ほんとごめん」
「いくらでものるから。いくらでも」
「わかった、わかった」
「それじゃあね」
帰ろう。
「またか。なんで俺を呼び出したんだよ」と紀仁が言う。またか、とはどういう意味なのだろう。
「それはもういいの」
今日は帰ろう。なぜか、心の秘密が一つ増えたような気分なのだ。私が彼を好きなのは、彼が面白いから。違う。断じて違う――。わたしはまた、どうでもいいことを考えているのかもしれない。
言いたいことほど言えなくなる。公園の出口まであと七歩。
「あ、おい」私が振り向く。
「またな」
知ってか知らずか。無論知らずだろうけれど、それは大分前、彼を公園で待っていたとき、最後に彼から聞きたかった台詞だったような気がする。