純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号147 『1983年のサーカスとフラペチーノ』 「結局、私にもそれが何なのかよくわからなかったの」  彼女はそう笑いながら言った。それは苦笑いのように見えた。そして、彼女は冷めてしまったコーヒーを飲み、深く息を吸う。 「もしかしたら、あなたには何の意味もない話だったかもしれないわね」  僕は小さく、しかしはっきりと首を振る。 「そう? なんか、私にとってはかなり大きな一撃だった気がするの。もちろん、それは良い意味でね。覚醒したっていうか、なんて言うか」  僕がこの女性と出会ったのは、仕事上の打ち合わせの時だった。時代の流れの中で、所謂中小企業である僕の会社も社員に英語力を求めるようになった。そして、その一環として、僕と上司の五反田さんが英語セミナーなるものの企画を任されたのだった。彼女は五反田さんの知り合いから講師として推薦された。彼女は、小さいが業界では名の知れた英会話学校の講師をしていて、ベテランで教え方が上手く、さらに人柄が良いためとても人気があるそうだ。普段は中高生の相手をしているそうなのだが、今回は特別にセミナーの講師を引き受けてくくれることになった。  最初の打ち合わせ場所として指定された喫茶店に僕と五反田さんが着いたときには、すでに彼女はその目の前にある抹茶フラペチーノを半分飲んでいた。 「遅れてしまい申し訳ありません」と僕らはサラリーマンらしく謝る。 「そんな、そんな。私、たまたま時間があったから早めに来ちゃったんですよ。そんな謝られても困りますよ」  英語講師の女性は、話で聞いていたよりも若く見えた。それは紺色のジャケットに白のパンツというさわやかな出立ちのせいかもしれない。話し方もはっきりとしていて、とても好感がもてるタイプだった。  セミナーの話はスムーズに進み、結局彼女の厚意もあって相場より低い値段で研修会を引き受けてくれることになった。 「いや、本当に助かります。私なんかも、本当に英語が苦手でね・・・」と五反田さんは体育会系出身らしく笑った。 「そういえば君は英語出来るんだよね? 」と彼は僕に振る。 「いえいえ、学生の時に得意だった程度ですよ。あとは一週間くらい留学に行ったくらいですかね」 「へぇ、それならたいしたもんよ。私のところにも君と同じくらいの歳の人がくるんだけどね、まったく英語が出来ないのよ。中学校の教科書を見せてもまったく理解できないんだって」と女性は言う。 「私もそのレベルかもしれないな、ハッハッハ」と五反田さんはまた笑う。 「それなら、一緒に頑張りましょうね」と女性も笑う。  後日、セミナーの内容を確認するために僕と女性は再び会うことになった。前回と同じ喫茶店に今度は僕が先に着き、あとから来た女性は濃紺のスーツを着ていた。 「この後は授業か何かですか」と僕。 「そうね。留学に行きたいって言う大学生が相手なんだけどね。これがまた大変で・・・」 「そういえば、あなたは留学に行ったことがあるんだったわよね? 」と彼女。 「はい。でも、たったの一週間でしたからね。なんとも言えないですよ」  実際、僕は一週間学校がサボれると思ったから応募したのだった。 「いや、それでも行ったことには変わりないんだからね。私も大学院生の時に行ったのよね」 「どこにですか」 「ハワイよ。二年間だったんだけど。本当に行ってよかったと思ってる」  彼女は目の前にあるコーヒーカップをいじりながら言った。彼女の手は四十代の女性の手とは思えないほどハリがあり、とても美しかった。 「いや、行ったこと自体よりも、その間に起った出来事の影響が一番大きいかな」  彼女はコーヒーを一口飲む。僕はすこし身を乗り出す。 「あら、話聞きたいの? 長いわよ」と彼女。 「大丈夫です。僕、そういう話好きですよ」と僕。  こうして彼女は語りだした。  心理カウンセリングを学ぶためにハワイの大学に留学していた彼女は、二年目の夏からアパートを借りて一人暮らしをしていた。もともと、東北の出身ということもあって、ハワイの気候になれていなかった彼女は頻繁に体調を崩していた。その日も研修として十四人のハワイ人と面接した後、彼女は熱っぽさを感じていた。研修を行っていたのは大学のキャンパスからは少し離れた市街地の公民館だったので、彼女は車で大学近くのアパートへ帰ろうとしていた。  公民館の前に止めた緑のフォード車は夏の日差しを浴びて、ボンネットで目玉焼きが作れそうなほど熱くなっていた。彼女は両脇に抱えていた書類の束をそのボンネットの上に載せ、右ポケットに入れた二つのカギの内、車の方を取り出した。そしてドアを開け、ボンネットに載せた書類の束が目玉焼きにならない内に車内に積み込み、彼女は車に乗り込んだ。彼女の熱っぽさは治まらなかった。たぶん暑いからだろうと思い、彼女は車の窓を全開にして車を発進させた。ハワイはとても風が心地良い。だからこうして車を走らせながら風を感じるのが彼女はとても好きだった。  街のはずれまで来たとき、彼女は先ほどから後ろを走っている車が気になりだした。公民館を出た時からずっと後ろを走っている気がする。それは、これと云った特徴のないシルバーのセダンで、運転席には見たことのない若い白人男性がいる。ハワイに来てから一度も危険な目に遭ったことはなかったが、彼女は警戒した。  再びバックミラーで男を見たとき、ふと彼と目が合った。すると、彼はクラクションを一回軽く鳴らし、手で路肩に寄せろというような合図を示した。彼女は怖さと好奇心との葛藤の果てに、結局車を路肩に寄せた。  男も車を止め、こちらに走りよってきた。そして、英語でこう言った。 「君、さっきから屋根にキーを載せたまま走ってる気がするんだけど。ほら」と彼は彼女の車の屋根を指差す。 「気づかなかったのかい? 」  男はとても優しそうな顔をしていた。そして、割とハンサムだ。彼女はズボンの四つあるポケットと鞄の中を急いで探してみたが、家のカギが無かった。そして、彼は屋根に手を伸ばすと、彼女にカギを渡した。間違いなく彼女の家のカギだった。きちんと彼女のハード・ロック・カフェのキーホールダーも付いている。彼女が一言お礼を言うと。彼は何も言わず去って言った。 「いい人でしたね。ハワイっていい人がいるイメージありますもんね。それにしても良く落ちずに載ってましたね、カギが」と僕は彼女が今まで話したことに対する感想を述べた。 「そうね。でも違うの、話はこれからなの」と彼女は再びコーヒーを一口飲むと話を続けた。  男が去った後、彼女は路肩に止めた車の中で、公民館を出てから今までのことを振り返ってみた。やはり、車に乗り込む時にカギを屋根に載せたまま発進してしまった以外考えられなかった。しかし、そう考えると五キロほどを屋根にカギを載せたままずっと走っていたことになる。彼女は理解できない事態をポケットに入れて、再び車を走らせた。まだ頭痛がする。  二ブロックほど走ってから、彼女は赤信号のため十字路で車を止めた。三車線の道路が交わるその十字路はかなり広く、彼女の正面には緩やかな坂があった。彼女のアパートはその坂を越えてさらに二ブロックほど行ったところにある。  彼女は車内に流していたビーチボーイズの曲に合わせて、ハンドルに載せた指でリズムをとる。夕日がせせらぎのように車内へと流れ込んできた。  カーステレオがカチッという音とともに次の曲を流し始めた時、彼女は異様な空気を感じ取った。地面が揺れている。それほど大きくはないが、身体ではっきりと感じるほどの揺れだ。地震ではない、本能的にそう感じた。では、一体何だ?  彼女は揺れが十字路の左側から来るのを感じると、フロントガラスに顔を近づけて、その正体を見ようとした。徐々に揺れは大きくなる。何かが走っているようだ。まだその正体は見えない。すると、左側の道路から一台の車が彼女のいる道路へと曲がって来た。その運転手の顔を見ようと思ったが、車があまりに早く走っていたのでまったく見えなかった。  揺れが大きな音を伴って十字路のそばまで来たとき、やっと彼女の目がその正体を捉えた。それは象の群れだった。まぎれもなく、鼻が長くて灰色で身体が大きな象だった。しかも、五、六頭の群れだった。そんな光景を、以外にも彼女は冷静に受け止められた。まるで家の前で猫が追いかけっこしているのを見ているように。  ふと、その集団から一頭遅れて走る象と目が合った。集団の中では一番小さく、おそらく子供の象なのだろう。彼女は瞬間的に彼と目が合ったと感じた。それは、実際に二人の焦点が合ったということではないのかもしれない。目と目を通じて、子象と彼女との間で何かがつながった気がしたのだ。まるでプラスとマイナスの磁石がくっつくみたいに。そして、彼女は彼の目が妙に生々しいとも思った。彼女の体中に奇妙な悪寒が走る。まるで背骨を撫でられたかのような。そして、一気に血が頭から下りていくのを感じた。耳の辺りがひやりとする。思わず彼女はハンドルを握っていた手に力を入れる。  すぐに象の群れは走り去った。左から、右へ。車が目の前を横切るのと同じように、ごく自然に。彼女は前方に青信号を見つけると、アクセルを踏み坂に向けて車を走らせた。    数分後、アパートに帰った彼女は、テレビをつけて先ほど起きたことが一大ニュースになっていることを知った。移動サーカスのテントで火災が起り、飼っていた象の一家が脱走したのだという。熊やライオンといった猛獣は幸いにも檻の中にいたらしいが、興奮した象が街の中で暴走しているのだそうだ。テレビではヘリコプターから撮った現在の映像が流されている。今はちょうど街の東の端辺りにいる。彼女のアパートから二、三キロ行ったところだ。  突然めまいがした。彼女はハワイに来て以来これに悩まされてきた。日々の生活の中で何度も起きるのだ。あくびをするのと同じように。彼女はこの症状が出はじめてからすぐに病院へ行ったのだが、医者は何の問題もないと言った。  めまいに対する彼女流の治療法はとにかく座ることだった。だから、彼女はテレビの前に置いた一人掛けのソファに深く座り込んだ。テレビではまだ象のことをやっている。他に何もニュースがないのだろう。瞼が徐々に下りてくる。顔全体の皮膚が中心に集まってきているかのように、瞼は何か別の力を伴って下りてくる。彼女は、このあとのアルバイトのことを思った。一時間後にスーパーでのアルバイトがあるのだ。しかし、彼女は自然の流れに抗うことが出来なかった。それが自然なことだからだ。    暗闇が彼女を迎え入れた。    次に目を開けたとき、彼女は緑のフォード車の中にいた。そして車は夕方間近の街中にあった。研修所の公民館からは五キロほどのところだ。そう、彼女が見知らぬ男にカギが屋根にあると教えてもらったところだ。車は路肩に寄せてあり、彼女はハンドルを握っていた。前髪は汗で額に張り付いている。彼女はポケットに手を入れてカギがそこにあることを感じ取った。バックミラーにつけたマリファナ型の芳香剤が催眠術の振り子のように揺れている。 「そういうことなのよ、夢だったの。信じられる? 」  彼女は笑った。夏の空のような笑い方だ。 「その後で友達に電話したら、街の中で象なんか暴走してないって笑われたわよ」 「結局、私にもそれが何なのかよくわからなかったの」  彼女はそう笑いながら言った。それは苦笑いのように見えた。そして、彼女は冷めてしまったコーヒーを飲み、深く息を吸う。 「もしかしたら、あなたには何の意味もない話だったかもしれないわね」  僕は小さく、しかしはっきりと首を振る。 「そう? なんか、私にとってかなり大きな一撃だった気がするの。もちろん、それは良い意味でね。覚醒したっていうか、なんて言うか」  彼女は喫茶店の大きな窓の方を見た。まるで象がそこを横切るのを期待しているかのように。 「実際カギの話の方が私には夢のように思えたの。それくらい象と出会ったときの記憶っていうか、夢がね、私の中に深く残ってたの。私、実は小さい頃に一家で夜逃げしたことがあるの。父親の借金が原因でね。笑っちゃうわよね。何かのドラマみたいでしょ。だからか知らないけど、あの時の子象に何か感じるところがあってね」  彼女は一つ一つの爪を注意深く見ている。僕はコーヒーを一口飲む。 「その子象が、なんだか自分みたいに思えたのかな。私も子象も、とにかく何かから逃げてるの。それは借金取りでありサーカスの団長であるの。彼らがいなくなってしまえばいいなとも思うんだけど、一方で誰かから追われていない自分っていうのが想像できない気もするのよね。逃げている自分が、自分なの。それ以外は『夢の中』なのよ」  彼女は、肩まで伸びた髪の隙間からぴょんと出た耳を触る。 「夢って、その人の本当の気持ちみたいのが見えるって言うじゃない。ほら、私も一応その辺のことは勉強してたから。でもね、走っている車の丸い屋根にカギを載せたまま何キロも走って、割とカッコイイお兄さんに優しくそのことを教えてもらうのより、サーカスの団長から逃げる子象と自分を重ね合わせることの方が自分の夢で、本当の気持ちだなんて不思議じゃない? 」  僕は頷く。 「その頃の私は、自分の生い立ちみたいなのに負い目を感じてたの。父親は女をつくって借金をつくるし、母親はいつもヒステリックだったし、学生の時なんて友達なんか一人もいなかったわよ。大学生になってようやく東京に出てきたけど、いつか自分のことを知る人に出くわすんじゃないかって不安で仕方がなかったの。で、遂にはハワイに逃げたってわけよ。けどね、こうやって自分の本当の気持ち、まあ無意識な気持ちってやつね、それをわかったことが私にとってかなり大きかったわ」  そう言うと、彼女はウェイターに二人分のコーヒーのおかわりを頼んだ。 「なんかこういうことってあまり人に話さないんだけど、君は聞き上手ね。なんだか話したくなっちゃうのよ」と彼女は言った。 「それだけが僕の取り柄ですから」と僕。  そんな会話の後、僕らは喫茶店を出て別れた。  セミナーの初日に現れた彼女は、黒にストライプが入ったスーツを着ていた。案の定セミナーは難航し、ここぞとばかりに英語の出来る若い社員は先輩や上司に勝ち誇った目を向けた。セミナーの後、僕と彼女が話す機会があった。 「先生、あの一ついいですか」と僕。 「おお、君か。何? 」と彼女。 「ハワイではカウンセリングを勉強していたんですよね? どうして英会話教室の先生になろうと思ったんですか」  彼女は笑った。子象のような笑い方だ。 「それは夢を見なきゃわからないわね。ハワイから帰ってきて、一応カウンセラーの仕事は見つかってたんだけど、近所の英会話学校の看板を見たら、突然英語を教えようって思ったの。これをやらなきゃダメだって。笑っちゃうでしょ? でもね、いざ始めてみたらこれが自分の天職だなって思ったの。カウンセラーよりもね。もちろん、今でもそう思うわよ」と彼女は言った。 「僕もそう思います」  彼女は唇の片方だけをあげて軽く笑うと、颯爽と去っていった。  その後の六回に渡るセミナーの間も、ずっと後も彼女は英語講師をやっていたし、おそらく今でも彼女はどこかで英語を教えているだろう。そして、目には見えないサーカスの団長から逃げているのだろう。
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