純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号145 『忘れられない本』  それはわたしがまだ、血色の悪い登校拒否気味の陰気な少女だった頃の話である。  父親の転勤のため、転校ばかり繰り返していたわたしは、学校が嫌で嫌でたまらなかった。  男の子たちは、わたしの髪の毛をひっぱったり、椅子の上に蜥蜴の死骸を置いたりして悪戯した。生け贄になった小さな少年のような蜥蜴は、青緑の金属のように美しく、悲しさと惨めさで鋭く輝いていた。  彼らはわたしの弁当を覗き込み、薄ら笑いをしていた。母親の作ってくれた弁当の中身が、滑稽に思われたらしい。  母は不幸な結婚から逃避するため、わたしの弁当を作る美しい指先に、いささか愛情を込めすぎていた。その弁当の蓋を開くと、薄桃色やイエローの夢のようなフルーツ類で、つややかに縁取られていたのだ。  こんな田舎町、そう長くはいないんだから。もう少し、ましな都会に引っ越してやるわ。わたしは目を伏せながら呟いていた。  本当のところ、わたしにふさわしい学校など、この世のどこかにあるとは、とうてい思えなかったのだけれども。  ――あの本を見つけたのはほんの偶然だった。  ある年の夏、公園脇の坂道にある市立図書館の薄暗い片隅で、昆虫図鑑を調べているとき、何か虫が啼くような、あるいは歯軋りをするような微かな声が、書棚の奥から聞こえてきた。  きっと蝉か何かが、通気孔を通って、図書館館内に紛れ込んできたのだろうと思って、最初は気にもとめなかった。  わたしは夏休みの図書館が好きだった。  三階の閲覧室の奥では、受験生が辞書と首っ引きで、もぞもぞと鉛筆を動かしていたが、二階では人影はほとんど見当たらない。  冷房でひんやりと重たくなった空気が、何万冊という書物の間をゆっくりと這い進んでいった。外の陽射しは強いのに、図書館の内部は、カーテンを透かした薄暗い黄緑色の光線で満たされていた。あたりにいるのは、清掃係らしいモップを持った小さな老人と、ひとりの神経質げな大学生だけだった。  マイマイカブリという、陰気な昆虫について調べるのが、グループ研究の中でのわたしの役割だった。その蒼黒い甲虫は、木の葉の下などに隠れている蝸牛を見つけてはひっくり返し、固く鋭い顎で、内部につまった柔らかな肉を食いちぎるのだった。  その昆虫の生態の映像記録を、見たことがある。外科医のような残酷な熱心さで、孤独で陰湿な食事をするのである。  わたしは図鑑を見ているうちに嫌気がさして、せめてテントウ虫か、カナブンぐらいの昆虫だったらどんなにましだろうと、悔やんだ。  転校してきてすぐだったので、わたしの発言権はなく、こんな嫌な肉食の昆虫をあてがわれてしまったのだ。  厭世的な老人たちが開くような、金の背表紙の古い書物がぎっしり並び、その書物は館内の重力まで変化させているようで、わたしは書架から書架へと歩くほど、体がだるくなり、気分が悪くなってきた。  ローティーンのとき、わたしはすでに倦怠の中に沈んでいるような少女だった。  テレビを見るだけで、体力が奪われた。友達の言う、楽しいという語彙の意味が、わからなかった。生きてゆくのは辛かった。わたしを教え導いてくれる大人や教師など、どこにもいそうもなかった。太陽光線すら堪えられず、舗道の蔭を歩いていた。 「ひとけのない図書館は好きなはずなのに」  わたしは嘔吐感までもよおしてきたので、半ば苛立ちながら机の上に昆虫図鑑を投げ出した。  その時だった。小さな虫の声のようなものが響いてきたのは。  こんな灰色の本棚に、鮮やかな緑のバッタやマツムシが、隠れていたらちょっと素敵だろうと思い、わたしはしゃがんであたりを見回した。  しかし声は、書架の下の段から聞こえてくるらしい。わたしが腰を屈めると、歯軋りのような声は、いっそう小刻みに響いてきた。  どうやら声は、右から三冊目の本から聞こえてくるようだ。  その書物は『蜷村精多郎全集 全一巻』と著者の名前が書いてあるだけで、どこといった特徴のない地味な本であった。  周囲には地理関係の書籍が並んでいる。 「文学書がこんなところに来ているわ。もとに戻さなきゃ」  しかし黒光りするその分厚い本を手にとった途端、わたしはその異様な重さに、ショックを受けた。  軽く一〇キロはあるだろう。育ち盛りの子供を抱いたような予想外の違和を味わった。 これは書物ではなくて、金槌や釘のぎっしり詰まった道具箱ではないだろうか。  わたしは好奇心に駆られ、やっとのことで抱えながら表紙を開いてみた。  するとどうだろう。  中には文字は一行もなく、鮮やかな赤と桃色の模様が描かれているだけであった。  ちょうど、科学図鑑にあるような惑星の想像図のようで、幾筋かのシマが渦を巻いたり並行に流れたりしていた。あるいは肉屋の店頭に並んだハムの薔薇色の残酷な切断面のようにも見えた。 「綺麗じゃないの。わりかし」  わたしはその時、色彩の鮮やかさに有頂天になりすぎていたかも知れない。  それというのも、次に襲って来る底冷えのするような恐怖感を、まったく予想できなかったからである。  書物の内部は鮮紅色だけではなかった。中心部のページには、青紫色や瑪瑙色の異様な塊が蠢いていた。次々とページをめくっていくうち、それがどこかで見たような色合いであることに気がついた。 「人間の、内臓の色」  そうだ。これは確かに人体解剖図の色彩なのだ。  白っぽい脂肪の色を帯びた肉の帯。透明感のある黄緑色をした膵臓。どんよりとした赤紫色の肝臓。  不意に書物の黴臭い匂いが消えて、あたりには屠殺場のような生臭い匂いが充満してきた。すべての音が遠ざかった。  世界がこの重たい書物とわたしだけになったような気がした。  わたしは最初のページを開いた。  するとその図柄は、ゆっくりと変化していく。  書物という冥い箱の中で、何か意志を持った不思議な生き物が、おもむろに向きを変えているようであった。  色とりどりの洗濯物が、濁った乳色の水の中で、ぐるぐると渦を巻きつつ、上になり下になりを繰り返している光景をも連想した。  あるページでは黒光りする髪の塊が見え、別のページでは白い背骨の秩序ある美しい配列が覗いていた。溶解する肉の海に、驚くほど大きな眼球が、こちらをもの哀しげに見つめながら、ゆっくりと沈んでいった。  わたしは突然、その本が、人間ひとりを溶かし込んだ書物であるという唐突な思いに襲われた。  歯軋りのような音が烈しくなった。  時にはそれは、わたし自身の内部から聞こえてくるようでもあり、図書館全体の壁という壁から聞こえてくる呻き声のようでもあった。 「お嬢さん、その本に興味をお持ちかね」  不意に、嗄れた声が聞こえた。  目の前に、モップを持った小柄な老人が立っていた。  色褪せた青い作業服を着た、時代から置き去りにされたような干からびた老人だった。深い失意と疲労感が全身から漂っていた。 「え、べつに」  わたしはかすかにふるえながら、答えた。 「その本は、蜷村精多郎という小説家の本なんだがね。といったところで、いまではもう、誰も知らんだろう」  懐かしむように、老人は語り始めた。 「小林多喜二よりも少し後、やはり官憲によって虐殺されたプロレタリア作家だよ。生前出版された著作は、その一冊だけ。多喜二のように歴史的な象徴にはなれなかった。まあ、要するに、才能がなかったんだな。幸いなことに、運動に理解のあった地方の篤志家が本を出してくれたんだ。プロレタリア作家が金持ちに助けられるなんて、まったく皮肉なことだ。……だがねえ、その本には、精多郎文学のすべてが詰まっているといわれているよ」  老人は静かにモップを立て掛け、蝋のように白い指で、ふるえるようにページをめくった。  奇妙なことに、さっきの内臓や眼球は見えず、二段組みの細かい文字がびっしりと黒蟻の群れのように並んでいた。  採光のよい館内の窓から、放射状の蒼い木影が床に落ちている。  長いこと、本当に長いこと誰も開かなかった本のページに、まばゆい光が柔らかく反射している。わたしは呼吸が静かになってゆくのを感じた。 「ほとんど無名のまま終わってしまった作家だが、私は若い頃、この本を読んで人生観を変えられたものさ」  けれども老人は、その作家の作品を読み、自分がどう変わったのかは教えてくれなかった。彼は、黒い湿った本をゆっくりと閉じると、 「若い人がこういう本と出会うのは、いいことだ」といって瞑目した。  蝉の声が遠くで聞こえた。  それ以外では空調音だけが物憂く響く。  しばらくの間、わたしも黙り込んだ。やがて老人は、 「昔のことだ。もうずいぶん、昔のことだ」といって、悲しげに首を振った。  そして再びのろのろとモップを引きずりながら、書架の向こうへと消えていった。  わたしは怖ろしくなった。  この老人自身も、本当に生きている人間かどうか疑わしいと思った。まるで書架の闇に潜んでいる人ならぬ者、書物の隙間に蜘蛛のようにひそむ陰鬱な精霊のようにも思われた。  老人のいうように「若い人」があんな本を読むことがいいことかどうか、わたしにはわからない。そこにはむしろ、不幸の匂いがつきまとっているような気がした。  わたしは目眩のするような戦慄の中で、図書館脇の木陰のゆるやかなスロープを、足早に歩いていった。  坂道には、夏の金色の光と、かまびすしい蝉の声が、雨のように降り注いでいた。  数台の自転車が私の脇を過ぎた。  明るいからかい気味の口調が聞こえたので、同級生の男の子達だったかも知れない。彼らはあらかじめこの世に祝福された者たちらしい。  わたしは目をつむり耳に両手を当てると、彼らを無視して小走りに坂道を通り過ぎた。  思考が肉であり、肉が思考であること――。  読者という此岸の半亡者たちは、その肉を啄ばむのだ。  その時は言葉にならなかったが、その時わたしを襲ったのは、そんな怖ろしい観念だったかも知れない。  今でも人気のない図書館が、屍体安置室のように思われる時がある。すべての書物という書物は、死者たちの思考を詰め込んだお棺なのだ。  呼吸を整えるために湿った木陰のベンチに座ると、手のひらにぬるりとした感触があった。蝸牛が、ペンキの剥げた板の表面を、ゆるゆると這っていたのだ。  薄い栗色の渦巻きの中に棲む、柔らかな肉。その小さな軟体動物は、伸び縮みしながら、二つの角を恐る恐る上に向けた。  一瞬、その肉を噛むマイマイカブリの紡錘形の青い影を、かいま見たような気がした。  昆虫図鑑の挿絵のような幻は、夏の日のおびただしい蝉時雨の中に、かき消えていった。
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