純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号144 『行儀よく采配』  残骸ばかりがころがるスラムの裏路地で今、ただ思う。  この街が救いようのない理由は、それらの残骸に少しずつ人が混じっているからだと。  ゴミに、道徳に、夢。打ち捨てられたそれらに群がる者たちを、天から地を采配する存在はどう見るのだろう。おそらく蛆か、蟻のように見えているに違いない。  俺はそんな人間になりたくはなかった。  搾取する側にもされる側にも回りたくなかったし、ただ愛する人間のために一輪の花を摘む尊さを得たかった。  しかし、そうはなれなかった。だから俺は今ここで死にかけている。 「ちょっとは期待してたんだけどね」  肩をすくめてダニエラは銃を下ろした。38口径のリヴォルバー。ツァスタバ社のものだ。俺が知る限り、彼女が他の銃を使っているところを見たことがない。もちろん、ショットガンや散弾銃などは別にして。 「ぎりぎりでおまえがその男を庇いやしないかって」  銃を持っていない方の手でほつれた黒髪を耳にかける仕草は、こんなときでも洗練されていた。元は裕福な出だっただけはある。気だるさを装っても滲みでるような気品は、幼少の教育の賜物だろうか。この物腰でたいていの人間は騙される。  以前、彼女をこう評した男がいた。 『ミス・ダニエラは確かに冷酷で頭の切れる方だが、人の扱い方に関していうなら些か行儀がよすぎるな』  コカインの密売ルートに手出ししてきたチャイニーズ・マフィアを殺さず、金で片をつけた際のことだ。その数日後、その男は恋人の娼婦と仲良く魚の餌となった。チャイニーズたちをそそのかしたのが他ならぬそいつだったからだ。下っ端だった彼は知ら由もないことであったが、示談は金と裏切り者の粛清というふたつで成立していた。  その夜更け、彼女は猫のように目を細めて俺にこう笑いかけた。 『行儀よく人を采配するなんて、恐れ多いね。まるで神のようじゃないか』   キングサイズの真っ白なシーツの上で、ダニエラはくつくつと笑いながら俺の二の腕に歯を立てた。犬歯が皮膚を突き破り、生暖かい血が滴るのを感じながら悟った。彼女は知っているのだ。俺が、その男とチャイニーズらを引き合わせたことを。 「さて、これで何度目だったか。しかも今度は男ときたもんだ」  美しく形作られた長い爪が、象牙でできたテーブルの上に盛られた葡萄をつまむ。それをもてあそぶように潰し、ダニエラは俺と彼女との間に転がっている死体へと放った。濃紫の葡萄は放物線をえがき、男の白い額に張り付いた。なぜだろうか。胸を染める鮮やかな赤より、葡萄の紫のほうが目に焼きついた。 「ねえ、シェン。いつまでもあたしがお前だけに甘い顔をしていると思わない方がいいよ」 「でも、あなたは楽しんでる。こうやって俺と関係をもった人間を嬲り、俺が庇うかどうかを賭けて。そうだろ」 「あたしの楽しみのためだけに、おまえはこんな莫迦な真似をしてるわけ?」 「まさか。あなたの玩具でいることが我慢ならないからさ」 「ガキの頃からあたしの足を舐めてきたくせに!」  おかしくてたまらないという風に、ダニエラは大声で笑った。おそらく、それが本心ではないと分かっているからだろう。いつだって彼女は俺の全てを見通し、それを含めて俺はこの女の全てが憎かった。  陶磁器のような肌も、ロシア訛りの英語も、透き通った青すぎる瞳も。 「ガキも大人になったってことだよ」 「確かに、図体とテクニックだけは育ったみたいだけどね。おかげでその男もキスひとつで落ちたんじゃない? 今ここで跪いて感謝するんなら、今回のお仕置きは軽くしてあげる」 「嘘つきも程々にしたらどうですか」 「確かにあたしは嘘つきだが、たまに真実もいう。で、どうする?」 「……いやだ」  答えた瞬間、銃声が三発たてつづけに鳴った。その鋭い音は、すでに残骸と化した男の身体をはねさせ、同時に俺の心臓を震わせた。北欧出身の人間に多い薄い金髪の合間から、ストロベリージャムのような、とろりとしたものがこぼれ出ていた。  それが何かを認識したと同時に、俺は顔をそむけて床に胃のものをぶちまけた。何度も遭遇した状況なのに、いまだ慣れない。恐ろしさからではなく、生理的な嫌悪感が我慢ならないのだ。不運なことに出てきたのは昼ごろに食べたラザーニャで、その色合いと質感がソレに似ていて更に吐いた。据えたような匂いが漂う。 「たかだか情夫が莫迦なことを考えるからそうなる」  静かな声に口元をぬぐって見上げると、ダニエラは俺をまっすぐとその青い目で見据えていた。俺はこみ上げる吐き気を押さえながら、ひどい疲労感に目を伏せた。  今回も無理だった。女で駄目ならばと思ったが、まったく無理だった。まったく。今までとなんら変わらず。今回もやはり徒労に終わったのだ。一体、いつまで。いつになったら。 「人を愛せないことを哀れむつもりはないよ、シェン。あたしも同じだからね」  溜め息まじりにそういいながら、ダニエラは葡萄をひとつ口に含んだ。この状況で食べ物を口にできるかできないか。これが俺と彼女の決定的な差なんだろうと、ぼんやり思った。 「稀にそういう不具合を生まれ持った人間がいる。あたしらみたいなね。だから、ずっと側に置いてきた。けどね、おまえとあたしにもひとつ違いがある。わかる? おまえは愛を求めて足掻くが、あたしは足掻かない」  俺は俯いた。どうしようもなく、悲しかった。  一生わからないまま、この命が途切れるその瞬間を考えて。  彼女のいうことを俺は寸分たがわず理解できると自覚して。  けれど、諦めることなどできようか。足掻くことこそがもはや、俺の存在意義と化している。  たったひとりでいいのだ。慈しみ、愛し、俺のもちうる僅かな善の全てを捧げられる人間。  外では一日が幕を下ろそうとしている。凶暴なほどに赤い夕陽が緞帳となり沈んでゆく。  ダニエラは静謐な表情で呟いた。 「“孤独に歩め、悪を為さず、求めるところは少なく――”」 「“林の中の象のように”?」 「そう、“林の中の象のように”」 「まさか、そんな風に生きたいとか言わないよな」 「さあ?」  ふっと綻ぶような微笑を浮かべ、その余韻にたゆたうようにダニエラは小首をかしげた。 「まあ、そうもいかないね。残念ながら人生はあまりに長く、忙しすぎる」 「あなたが思うほど人生は普遍じゃない。そしてあなたが望んでいるほど、俺たちも似てないんだ」 「おまえのそういう所が時々、無性に苛つくことがあるよ。その白痴さに」  シルクのロングドレスの裾をはためかせ、ダニエラは俺の前に立った。窓から差込む光がその顔を半分だけ赤く染めている。まぶしいのか細めたその目じりに、微かなしわがあった。  その瞬間、唐突に気付いた。まるで天からの啓示のように。  彼女も老いていきつつあるのだと。老いて、死に向かいつつあるのだと。  なぜ、気付かなかった? こんな当たり前のことに。これこそ普遍の真実だというのに。  人はいずれ老いて死ぬのだ。彼女すら。俺と同じように。 「おまえの願いを叶えてやろうかと、時々そうも思う」  銃を俺の腹に押しつけ、同時に頬を撫でながら、ダニエラは呟いた。  鼻先に触れそうな双眸は、赤と青が複雑に混ざりあっていた。美しかった。  思えば俺は、いまだかつて一度も彼女を醜いと感じたことがなかったのだ。憎いとは思えど。  なぜに? 「ねえ、シェン。自由と愛と、どちらもなんて強欲なのさ」  震えるような声と、銃声。どちらが先だったのか。  熱い衝撃が服を切り裂いて腸を切り裂いた。遅れてやってきた痛みは烈火のように熱く、呼吸するごとに肉が千切れてゆく気がする。破壊される絶対的な感覚。  重力が倍になった錯覚を覚えた。床に膝をついて呻く俺の頭上から、いつもと同じ淡白さでダニエラが名を呼ぶ。シェン、と。さっきの振動した声は、果たして幻だったのか。 「もって三十分ってところ。人生は長く、忙しすぎるからいけない。けれどおまえの命は残り三十分。限りなく短くなった人生で愛を探せ。晴れて自由の身だよ、シェン」 「……ハッ」  なんて女だ。思わず笑い、その拍子に血が口から溢れてあごへ伝った。白く細い指がその血をすくい上げ、俺の唇に擦り付ける。一種の儀式のように。 「結局あなたは誰も、必要としないんだろ……愛を知らず老いて、死ぬ」 「その通り。だからおまえは愛を探して死にな。自由はやろう」  後はおまえ次第。  そういい捨てるないなや、ダニエラはドアを開け放ち俺を強く押し出した。 「誰にも邪魔はさせない。どこへなりとも行って、静かに死ぬといい」 「ありがとう、と言うべき、かな」 「……それは皮肉?」 「いや、遺言だよ」 「覚えておこう」 「なあ、わかるかな。あなたにも分からなかったものが、俺に」 「あたしとおまえは違うと、そう信じてるんなら分かるだろう」  そうだろうか。俺は最低の人間だし、結局なにひとつ得ることができなかった人間だ。  けれど、ああ、知っているのだ。彼女は嘘つきだが、たまに真実をいうと。 「神の加護があらんことを。シェン・グッドマン」  この街の神はそう囁き、俺の額にキスを落とした。  聖母にも似た微笑を浮かべて。  こんな風にして俺の人生は今、幕を下ろそうとしている。  ニ十一年と五ヶ月の人生だ。その約半分を彼女の元で過ごした。長い時間だ。    ところで、最後に彼女のいったことは半分真実だった。  つまり俺はいまや自分が彼女と似ていることを認めつつあるが、それでも愛というものが何なのか、残り数分の人生で理解しつつある。口で説明するには時間がないが、一言でいうならば最後に彼女が与えた自由こそがそれに近いものだったのではないかと思っている。  俺の全てを見ぬく彼女はきっと、俺の肺に巣くっているモノのことも承知していたに違いない。診断を受けたヤブ医者には金で口止めをしていたが、なにしろここは彼女の街なのだから。  死に怯えながらもなお、愛を探しまわる様はさぞかし滑稽だったと思う。彼女は俺を哀れんだのだろうか。それとも、壊れかけた玩具を廃棄したかっただけだろうか。  どちらでもいいと思う。微かでも、きっとそこには彼女なりの誠意があったと思うから。  ひとつ後悔するのなら、彼女の孤独にもう少し早く気付けていればということだ。結果は変わらなかったかもしれないが、過程は違っていただろう。例えばもう少し、優しいものだったかもしれない。人は愚かな生き物だ。  彼女はこれからも、行儀よく人を采配してゆくのだろうか。  愛を求めず孤独にさまよう姿はきっと、林の中を歩む象と似ているのだろう。
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