純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号143 『不幸な水槽』  不安定なものが嫌で仕方がないから、人は次々とそれらに名前を付けていった。  怒りや悲しみや寂しさも、そう名付けられたことによって石みたいな形を帯びて、心の中で留まっていて欲しいと思った。  真夜中の小学校に辿り着いた。プールの柵を越えると歪な月が水面に投影されていた。淵まで歩くと枯葉や泥の臭い匂いが、感傷のかさぶたをゆっくり剥がした。十一月の夜は風に寂しさがなくて、寒さはこのジャケットだけでしのげると思ったのに、なんだか急に震えてきてしまった。ポケットの中に忍ばせた缶珈琲が暖かいけれど、体全体を包むほどではない。  このプールは一年のうちせいぜい二か月しか魚を泳がせることができない。このプールの他にも、僕は不幸な水槽をいくつも知っていた。だけど不幸な水槽で泳ぐ魚は必ずしも不幸ではないということも僕は知っている。毎夜待ち合わせをしている園田はそんな魚の一匹であり、僕もそうでありたいといつも願った。  柵にもたれかかって夜空を眺めていると、背中を指で押された。園田の女の子の匂いが汚いプールの匂いと混ざっていつもの夜を想わせる。僕は振り返って園田のとろんとした顔を一瞥したあと、細い指を自分の大きな手で包んで愛おしく撫でた。園田は飼い猫を遊ばせるときのような薄い笑顔を作って、僕の赦される様子を見ていた。 「園田の指、冷たい」 「そろそろ手袋をして歩かなきゃね」 「そうだね」 「今日は何の用?」 「ちょっとした提案があって」 「へえ」 簡単な会話に僕は救われた。園田という小さな躰に詰められた母性のような温みを、一本の細い指と小さな言葉から感じ取っていた。僕の本当の母は、今より数年前の僕が真っ白だけどよれたシャツみたいに多感な時期に他の男と出て行った。僕は母にまだ甘えていたかったわけではないけれど、椅子の背もたれがぶっ壊れたような気がして、落ち着いて座れなくなった。 「こっち側に来てよ」 「うン」  柵を登って園田がプールの中へ入る。彼女は恐らく塾帰りのため、制服姿だった。園田の短いスカートが無防備に僕へ下着を晒して、彼女の少女性を享受した。園田という女性は母のような温みも少女のように放っておけない可愛さも両方持っている。きっと僕に限った話ではなく男はこういう女に惹かれるのだと思う。 「勉強は順調?」 「ぼちぼち。適当に努力して受かったところに行くっていうスタンスが前提だから、張りがないというのが問題かも」 「悠長だな。どこにも受からなかったらどうするんだよ」 「あたし、そんな不器用じゃないから」 いたずらに微笑んで園田が答えた。その一言には柔軟な自信が看取されて嫌になった。園田は生き方が上手だ。 「悟は本当に大学行かないの? 大検とらないの?」 微笑みながらそういう質問をされると、返答を考えようとしてもそれが喉に詰まって苦しくなる。それを一旦飲み込んで、また新たに考えた簡単な言葉で重たい会話は済ます。いつの間にか身についてしまった気に入らない癖だ。 「大学はもう諦めた。いいんだ」 「だけどお父さんの熱帯魚屋を継ぐわけでもないんでしょう」 「うン」 「部屋に籠りっきりじゃ何も始まらないよ」 「そうだね」 「そうだよ」 「そうだね…… そうだよ」 僕は高校を辞めて家に籠るようになってしまった。たまにこうして夜に泳ぐことしかできない弱い魚になった。世間は僕を傷つけるナイフを沢山持っていた。それが怖くて昼間はずっと布団の中を鈍く泳ぐしかない。僕は園田が好きで園田も僕が好きだったから、園田だけが今みたいにナイフで僕を傷つけることができた。しかしそれを癒してくれたり日々の相手をしてくれたりするのも園田だけだ。園田の頬や細い脚は白くて透けるようで、本当に浅いところを泳ぐ魚のようだ。彼女にこの水槽は似合わないから僕は早くどこかへ連れ去ってあげたい。しかし僕もまた魚であるから、彼女を運ぶ手も足もないように思えた。  夜の空気の冷たさは、ぼんやりとしたラフスケッチのような気分に実線を与える。外郭が整うと僕はそれが不安でも悲しさでも一応の安堵を得た。喉に押し込む缶珈琲で胸に暖かい火を灯す。それはスケッチの紙ごとじんわりと焼いてくれるから僕はすぐに楽になれる。だから夜が好きだ。しかしこの水槽には朝が来るだろう。陽だまりは茫漠な不安を煽るばかりだ。学校や仕事といったルーチンを組んだ者を対象として太陽は在るのだと、引き籠りを始めてから信じて疑わない。僕は明るいうちにやるべきことなどなにもない。外の光は関係ないただの魚。深い深い海の底で鈍く泳ぐ魚。だけど昼寝て夜起きることによってそう錯覚しているだけだ。この街は海の底でもなんでもない狭い汚い水槽であることを本当は分かっている。珈琲臭い息で僕は園田に話しかける。 「園田はこの街を出ていくんだろうね。東京の大学に行くんだろ」 「そうだね。出ていきたいな」 「綺麗で広い水槽に移り住むのか、果てなき大海に出ていくのか、どちらだと思う」 「意味わかんない」 「ならいい」 「いくら大海に出たと思ってもそれはすっごくでかい水槽なんだろうね」 どきりとした。簡単な言葉で核心を突かれた気がして途端に萎縮した。意味わかんないと隔絶したと思えば、そんな的確に回答を用意するから、園田の底知れない頭の良さに絶望を感じた。  僕は彼女に自分も東京へ出て一人暮らしをするという考えを発表するつもりだったけれど、すぐに心の中のポケットにしまった。ぐっちゃぐちゃに丸めて。そうすることで弱い魚から変われるかもしれないという思考の幼稚さを責めた。何もかもが虚ろになった。座っていたプールのタイルが、さっきよりもずっと固くなった気がして尻から頭のてっぺんまでむずむずした。  校舎の時計が十を指していた。園田はもう帰らなければならない。僕は虚しさを一旦置いていつもの言葉を口にする。 「あれ、見せてくれないか」 「いいよ」 園田は座ったままスカートをゆっくりとずらして水色の下着を露わにした。そのときの彼女の体躯のくねり方が、本当に魚みたいでいつも美しいと思う。そしてさらに下着の左側を、腰骨の下までずらすと、か弱き魚が狭い海の中で泳いでいた。十八の少女の静かな反抗であり自虐。この何もない街…… 狭い水槽への。 「いつ見ても美しいね」 「君の台詞も今日の風も寒いや。もうしまっていい?」 「もうちょっと」  僕は園田の刺青を見ると心の中にある色んな不安や悲しみに形が与えられた気がして心の底から安心する。二度とそこを抜け出すことができない、小さな弱い園田の魚に自分を投射した。園田という海に泳いでいたいと恍惚を味わった。園田の皮膚にそっと触れる。彼女は僕の指先に体を震わせる。冷たくて、柔らかくて、水のようだ。園田の身体は水槽としては不幸だと思う。しかしここを泳ぐ魚は少しも不幸ではないと思えば、もう僕はどこまでも赦される気がして悦に浸った。 「それじゃあね」  彼女が去る。僕の中にある感情がまた一斉に名前と形を失っていく。目の前のプールみたいに、汚い泥水のようになっていく。僕はこの狭くて苦しい水槽の中を鈍く泳ぐしかない。朝が来ればまた絶望みたいな日々が始まる。 <了>
この文章の著作権は、執筆者である 笹葉沙良 さんに帰属します。無断転載等を禁じます。