純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号137 『向かう女』  思えば短い生涯でございました。  覚えておいでですか。私が愛しい貴方に呼ばれていた名前を。……いえ、今となっては名前などどうでもよろしいのかもしれません。ひとりの女と、そう思い出していただけるだけで結構でございます。  そのようなことよりも、如何にして私が今日に至ったのか、そちらの方が遥かに重要です。この限られた時間で語るべきは、その経緯にあるのでしょう。  今を遡ること二十五年前、昭和二十二年の早春に私は生まれました。  生後間もないまま教会の門前に捨てられていた私がここまで成長できたのは、真に聖母マリア様と神父様の御慈悲の賜物と云わねばなりません。  私は生まれた時からイエズス様の御加護に恵まれていたのでしょうね。その後も健やかに育つことができました。成長してゆく私を温かく見守ってくれていた神父様の笑顔が今は懐かしいです。  あの頃は本当に幸せでした。  学校からの帰り道にあった小さな公園。教会の近くを流れていた小川。そしていつも顔を合わせていた友人たち。そこには遊ぶ子供たちの姿がありました。岸には花が咲き乱れておりました。それを見つめる私の瞳には、たくさんの夢が湛えられていたように記憶しております。  桜の季節には裏山に薄紅色の花弁が群がり、風に散ればたちまち桃色のカーテンとなって私の視界を華やかに染めてゆく……。今、この風景を上手くお伝えできない自分にひどくもどかしさを感じます。 「卒業おめでとう」 「神父様、今までありがとうございました」  ふわり。セーラー服の肩に舞い散った桜が美しかったです。  そより。さざめいていた春風が襟足に佇み、そして去っていったのが優しかったです。  そもそも孤児でありました私にこれほどの愛情を注いでくださったのは神父様と貴方だけでしょう。心から感謝致します。  やがて短大を卒業した私が初めて仕事に就いたのは、町の郊外にあった保育園でした。  共働きや、あるいは片親が多かったのでしょうか。夜になって迎えが来るまでの時間を……それは限られたものではありましたが、私は預けられた子供たちの親代わりとなって共に過ごしました。  夕闇が迫り、幼い視線の届く彼方にポツリ、ポツリと街の灯りがともるたび、その小さな瞳に涙を浮かべる子供たちの姿には胸が痛んだものです。私があの子たちを抱きしめてあげたことは一度や二度ではありません。  遂に我が子を持つことは叶わなかった私ではありますが、それでも頬を埋めて泣くあの子らに温もりを与えてあげられたかと思えば、今もこの乳房が仄かに熱くなります。どうかこの子らに神の御加護を。と、願っていたのはそればかりでございました。  こうして当時の私は、幼子の傍らを我が身の置き場としていたのです。  そんなある日のことでした。珍しく職場の仲間と繁華街に出た私は、いつしか慣れない街に皆と離れ、賑わう雑踏の中をひとり孤独に彷徨っていました。人混みの中にひとりとは真に不安なものです。その時、私の面(おもて)には焦慮が宿っていたことでしょう。いえ、狼狽に憑依されていたかもしれません。  ですが、それを貴方に見初められた……と云っては自惚れに過ぎるでしょうか。不意に雑踏の中から現れた貴方は、私に優しく声をかけてくださいましたね。 「道にでも迷ったのかな?」  私は、はっとして貴方を見上げました。十(とお)は年嵩(としかさ)に見えた貴方が、その頬に穏やかな頬笑みを湛えて私を見つめておられたことをよく覚えております。まだ殿方に不慣れでありましたあの時の対応は本当にお恥ずかしいもので……。改めてお詫びを申し上げます。 「あの、いえ、結構です。すみません」  我ながら何が結構だったのか。さぞ貴方は御不審に思われたことでしょう。 「とりあえず駅まで連れて行ってあげよう。なに、すぐそこだ。それからお仲間に連絡するといい」  と、そうは申されましても、親も無く、また生活に余裕があった訳でもない私には、しかし電話というものがありませんでした。はい。なので駅まで行ったところで、同僚の家の番号はおろか職場の番号さえも暗記してはいなかったのです。  でも、そんな事情を知っても、貴方は私を蔑みませんでしたね。御親切にも番号をお調べになってくださいました。そればかりか、御自身の小銭で連絡まで入れてくださったのです。  ありがとうございます。あの日、無事に仲間と合流できたのは全て貴方のおかげでした。  その後、何事もなかったかのように立ち去る貴方のお姿を見た時、私の胸には感謝と、そして貴方への憧憬が置き土産として残されていたのです。  それは全ての者を遍く(あまねく)愛せよ。と、教えられて育った私が、生まれて初めて特定の誰かを愛し始めた瞬間でした。  あの日のことを、貴方は覚えていらっしゃいますか?    ――恋に溺れた者は不幸になる――  と、神父様よりそんなお言葉を給わっていた私ではありましたが、それだけに一度(ひとたび)男性を意識してしまってからは、皮肉にもその感情を体内に留めることが叶わなくなってしまいました。  そのような些細なことで絆(ほだ)されるとは。と、人には嘲られるかもしれません。無論、浅はかであったことは承知しております。ですが溢れ出る……と、表現しては大袈裟でしょうか。行き場を失いたくないと願う烈しい感情の中に、けれど純粋な恋慕の想いが疼いていたのは確かでございました。  ただ、貴方にお会いしたい。お会いして言葉を交わしたい。そんな切なる願いに私の心は焼かれていったのです。  やがて日々を懊悩(おうのう)として過ごしていた私が、いつしかあの駅に立っていたことは貴方も御存知のとおりですね。 「あの、先日はありがとうございました」 「君は……ああ、あの時の」 「はい。改めてお礼を申し上げたくて、ご迷惑とは思いましたが声をかけさせていただきました」 「今どきにしては律義な娘(こ)だなあ」  突然で驚かれたことでしょう。でも、私は貴方を探して半月も駅に通っていたのですよ。必然……そう、それが必然なのだと信じて疑っておりませんでした。  あの時の胸のときめきを、何と表現したらよろしいのでしょう。……わかりません。初めて知り得た恋の狂気は、私には測りかねるものがありました。歓喜に沸き立ち、それでいて面映ゆい。とでも申し上げたらよいのでしょうか。どこか病の熱にも似た高揚感に、私は浮かされていたのです。この高揚感の中でなら死んでもいい。とさえ思っていたかもしれません。 「こんな可愛らしい娘さんにそう云われて、どこに嫌な気のする男がいるものか。今日はお茶ぐらいしかご馳走できないけれど、それでもいいかい?」  貴方は大人の男性らしく、その対応も紳士的でしたね。  私は返事をする言葉さえ喉に詰まったものです。 「ご迷惑にならないのであれば」  やっとのことでそう答えた時には、既に瞳の奥が熱くなっておりました。  長く神様に愛されてきた私ではありましたが、あの時の私は、私を愛してくれる人間の誰かを欲していました。そして、それは現在もです。  私は酷くはしたない、慎みのない女ですね。言葉ではどう取り繕ってみても、結局は清らかな心など持ち合わせていなかったのでしょう。その後、貴方に誘われるまま逢瀬を重ねていったのも、全てはこの淫らな欲望に由来しておりました。 「君は嫌になるほど生真面目な女性だなあ」  と、よくそう仰っていた貴方。  そんな貴方はご存知でしたか。情事を終えた閨房で何気なく揶揄されたその言葉にさえ、私の胸が不安に苛まれていたことを。苦悩に蝕まれていたことを。私は貴方を愛していたのです。貴方に捨てられるのが何より怖かったのです。 「ごめんなさい。つまらない女で……」 「いや、そういう意味ではないよ」  いいえ。貴方が揶揄していたとおりです。私は凡庸で、手堅く、常に嫋嫋(じょうじょう)とした覇気に乏しい女です。それまでも人生の危険水域に近づいたことは一度もありませんでした。私にとって大切だったのは、私が最も望んでいたのは、貴方と私の心の平穏でした。だからこそ貴方が望むどんな行為も受け入れたのです。 「ちょっと趣向を変えてみようか」  あれは初めてお会いしてから二月ほどが経った頃です。貴方は鑿(のみ)で掻いたような切れ長の目で、私を異世界へと誘(いざな)いました。魅入られたように頷いた私を高手小手(たかてこて)に縛りあげて、満足げに眺めておられましたね。憐れむように見下ろしておられましたね。  あの時、私は神様に対する罪悪感と、暗い胎内から湧き上がる情欲に身を焼かれていたのです。恍惚の狭間に溺れていたのです。そして愚かしくも懇願してしまいました。 「奈落に堕ちた私に烙印をください」  今にして思えば、それが神とも平穏とも乖離した行為であったことは云うまでもありません。  あの部屋には、古い連れ込み宿に相応しい淫靡な空気が漂っておりました。板張りの床には、榛(はしばみ)色(いろ)のお蒲団が敷かれておりました。暗く無愛想な照明が、絡み合う二人の肌に陰影を映しておりました。私のすすり泣く声にさえ身を震わせる障子紙、荒く傷んだ土壁、黒柿の柱。あの色褪せた障子紙に包まれた狭い部屋を、私は今も忘れることができません。それまでと違った新たな私が、あの日、あの部屋で生まれました。貴方が私を生み出したのです。  それからの私は、以前にも増して貴方なしでは生きられなくなりました。この体が滅びるまで……いえ、それが許されるのであれば、いっそ貴方に滅ぼされたいと願うようになりました。あの部屋の、あの黄ばんだ障子紙に包まれたまま奈落の闇に浸されたい。そう、私の魂が悪魔との契約を交わした瞬間です。  屈折した愛の力に前後不覚となっていたのでしょう。しかし、芥子粒ほどの後悔もありませんでした。おそらくは嫣然と微笑んでいたに違いありません。忌まわしきは淫蕩に滾(たぎ)る我が魂でございます。  しかし、それが仇となったのでしょうか。あるいは神に背いた罰だったのでしょうか。 「もう、会うのはやめよう」 「どうしてですか? そのようなことを仰らないでください。私の思慮に至らないところがあるのでしたら……」 「悪いが話し合うつもりはない」  あれは半年前のことでしたね。唐突に別れを切り出した貴方は、侮蔑するような目で私を見据えておられました。そして縋(すが)る私を振り払って部屋を出て行かれたのです。  ひとり残された私の気持ちが貴方にはお分かりになりますか。張り裂けそうな胸を抑え、声にならない声で泣いていた私の気持ちがお分かりになりますか。 「待って」  確か黄昏時と記憶しております。遠くから小学生の吹く縦笛の音が聞こえておりました。三軒隣にある惣菜屋さんの店先からは、揚げ物の匂いが忍び込んでおりました。夕立ちを前にして、どろりと湿った空気が流れていたかもしれません。 「貴方、戻って」  走る足音を追って、私は障子戸を開けました。でも、そこに貴方のお姿はありません。霞みゆく夕闇の中に、ただ黒々とした町並みが続いているだけでした。    貴方、貴方。どうして私をお見捨てになったのです。貴方のお心が変わられたのは私のせいですか?  確かに結婚の約束はしておりませんでした。ですが、私は貴方に愛してもらいたかっただけなのです。例えそれが身体だけの関係であっても……いい。忍び会うそのひとときだけ熱い情愛に包まれたなら、それで私は満足でした。  けれど、貴方はそれをなさらなかった。不意に私の許を去って行かれました。ただ私を被虐的な嗜好の女に仕立てあげ、そして猫でも追い払うかのようにお見捨てになったのです。  何故、何故。ああ、貴方なしで、どうして私が生きられましょう。過去を御破算になさるのがお望みであったなら、どうか私の心の算盤も合わせてくださいませ。  でも、それから三日待っても七日待っても、貴方は戻ってはくださいませんでした。  私は自分の家に戻り、仕事にも行かず、呆けたように日々を過ごしました。聖書を放り投げ、それに朝日が射し込み、夕日が紅く染めるまで、ぽつねんと座っていたのです。  食事も喉を通らなくなりました。睡眠もままならなくなりました。このままでは身体を壊すよ。と、ご近所の方が差し入れてくださった惣菜のみで、やっと命を繋いでいたにすぎません。ええ、緩やかな死への途上にあったことは間違いないでしょう。  ただ、私はそれに抗いませんでした。貴方を失った私が死へと向かうのは、ごく自然な現象に思えたのです。  そうしているうちに時は流れ、神無月の暦が過ぎてゆきました。霜降月の空が霙(みぞれ)を落としそうになりました。窓から望む路地には闊(かつ)葉樹(ようじゅ)の落葉が五枚、六枚。あの日のお布団と同じ榛(はしばみ)色(いろ)をして佇んでおりました。  しかし、どうしたことでしょう。その頃になって私は、ある変化に気づいたのです。もちろん何故そうなったのかはわかりません。  感傷……いいえ。では、生への執着?  やがて膠(にかわ)でも融かしたように鈍重な意識に、何故か貴方との甘美な記憶が明瞭に蘇り始めたのです。  私は妄想に耽りました。愛の仕草に囚われた女の身体。男の唇と舌。爪先、足首、膝、腿。翻して耳、首、肩、乳房。あるいは身体の衰弱に気づいた脳が、子孫を残す行為を急ぐよう私に命令を下していたのかもしれません。  子宮の奥から帯び始めた熱は、揺れ惑う精神を追いやって身体の隅々へと拡がり、私の骨までも焼き尽くそうと執拗に這っておりました。手を伸ばして探ると、そこに貴方が居るような気さえしたものです。  それから幾日、そんな夜を過ごしたことでしょう。ですが、所詮妄想は妄想です。愛の行方を委ねるには哀しすぎました。その、暗闇で鴉を探すような不確かさに、どうしても我慢がならなかったのです。  ええ、私の思考は単純にして明解でした。  貴方は居ない。貴方が居ない。貴方と共に居られない。ならば貴方に会いに行こう。貴方の許へ向かおう。もう一度赦しを請えば、貴方は私に手を差し伸べてくださるかもしれない。  衰弱した息の下で私は、裏腹に強い決意を抱きました。そしてまた、あの駅に立ったのです。  師走の街に灯りがともる夕暮れ時を待って、私は降り頻る雪の中に立つことにしました。  ひどく寒かったです。ひどく心細かったです。それでも私は、夕刻の空が宵を深めるまで貴方を探し続けました。道行く人の視線も冷たかったのですよ。  三日、四日。水雪が餅雪に変わりました。九日、十日。綿雪が粉雪になっても貴方のお姿は見えません。とても不安になりました。もう、この駅を利用してないのでは……と、しかし諦めかけたその夜、貴方が改札を潜って来られたのです。  ありがとうございます、貴方。また私の前に、貴方。  私は喜びに身を震わせました。心の表面に張った厚い氷が融け、愛の水脈(みお)が溢れ、草木に蕾が群がり、街の景色すら春の彩りを帯びたように感じられました。  一番新しい記憶、一番古い記憶。出会い、別れ。その後に知った自我の混濁。ああ、今なにもかもをお伝えするには、私の知る言葉は少な過ぎます。 「貴方」  私は夢中になって走りました。ひたすらに雪を蹴りました。貴方に駆け寄れば、追想が再び現実のものになると信じていたのです。  ですが、やっとのことで歩く袖を掴んだ時、振り返った貴方は何と仰いました? 「なんだ、この汚い女は」  我が耳を疑いました。直後、背を向けて立ち去る貴方に手を伸ばすことも忘れ、呆然と立ち尽くしました。いっそ人違いであったなら。と、そう願っていたかもしれません。  貴方は本当に私をお忘れになっていたのですか。私はどれほど固く縛られ、どれほど意地悪に弄ばれても貴方をお慕いし続けた女です。憎むことも知らず、侮ることも知らず、ひたすら縋(すが)ることに自らの存在を見出してきた女です。そんな私を、貴方は如何なる理由で忘れてしまったと云うのですか。  確かにあの数カ月で、私の姿はすっかり変わってしまいました。痩せ細り、頬はこけ、目は窪み、衣服は破れ、ひどく汚かったでしょう。だからですか。だから私だとお気づきにならなかったのですか。  ひとり自失の中に取り残された私は、小さくなってゆく貴方の後ろ姿をただ凝視しておりました。とめどなく涙が零れておりました。その瞳には呪い、怒り、憎しみ、焦り、憤り、それら負の感情が混在しておりました。けれど、捨てきれない一縷(いちる)の愛情も潜ませていたのです。  どうやら私の人生は、あそこでプツリと終わってしまったのかもしれません。  もし、人の幸福に定められた量があるのなら、貴方から頂いたものだけで、私は一生分の幸福を使いきってしまったのでしょう。お前は充分に幸福を得たではないか。と、神様もそう仰っていたように思います。だから貴方も足を止めてくださらなかったのですね。  私は一瞬にして理解しました。もちろん不満もございませんでした。つまり私には最初から何も残されていなかったのです。ただ輪郭のぼやけた貴方と、衰弱に覚束ない足許、そして夜の底に積もった雪だけを残して、それ以外の全てを失っていたのです。  あの日から私は、自身の最期に向かって進むことにしました。幕引きをせよ。と、やはり何処からか神様の声が聞こえていたように思います。  向かうべきは貴方。でも、それは死を以て行われるべき。そんな結論に行き着いたのでした。  ――散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ――  と、そう詠んだのは細川ガラシャでしたでしょうか。やっと私にもその時が見えました。  しかし、カトリック信者の私に自殺はできません。それでは煉獄にて浄化を受けられないのです。私の思念は貴方に滅ぼされることを、思想は極めて自然死に近いものを望んでおりました。  では如何にして?  ふふふ……お気づきになられませんでしたか。甚だ勝手ではございますが、貴方のことは全てお調べさせていただきました。暦を忘れ、寝食さえも忘れて貴方を追っていたのです。そして私は知りました。貴方は大学で教鞭をとる、偉いお医者様だったのですね。  神様、感謝致します。貴方、ありがとうございます。おかげで私は、もう一度貴方にお会いする機会が得られました。  今、思い出が詰まったあの部屋の障子紙に、私は貴方への手紙を認(したた)めております。六日前からは何も食しておりませんので、そろそろ体力も限界でしょう。手が震えてまいりました。目も霞んでまいりました。死がそこまで迫っているようでございます。私は間もなく死んで、貴方の許へと向かいます。そう思えば、きっと手の震えは歓喜から、目の霞みは感涙からなのでしょう。  ねえ、貴方。断食の結果命を失っても、それは自殺にならないのですよ。ふふふ。それに聖マタイ様も、人はパンのみにて生くるにあらず。と、そう仰っていたではないですか。ならば心を満たす為に生き、そして心を満たす為に死ぬことに何の罪がありましょうか。何より、またお目にかかれると思うだけで……ああ。  表向きの遺書には、こう記しておきました。  ――私の体は○○大学の解剖実習に検体致します――  ふふふ、あはは……。貴方がその場所にいらっしゃることは分っておりますのよ。念の為、学生さん達にも伺っておきましたもの。間違いはございません。これでまた貴方にお会いできます。  その日が訪れるまで、私は薬剤に浸されて時を待つことでしょう。薬がひたひたに滲みた状態で。あはは、煮物みたいに。  ねえ貴方、いつか私が作って差し上げた関東風の煮物を覚えていらっしゃいますか。美味しい美味しいと、残さず召し上がっておられましたよね。あの時は本当に嬉しかったです。  あははは、だから今度は私自身もご賞味してください。その時、貴方はどんなお顔をなさるのでしょうか。喜んで頂けるといいのですが……。  けれど、これだけはお願いしておきます。なんとしても私の姿を御目に焼き付けておいてくださいませ。だって、それが私の晴れ姿なのですから。一糸纏わぬ最後の晴れ姿なのですから。白い顔で無表情に微笑む私を、けしてお忘れにならないでくださいね。宜しくお願い致します。  さて、最後になりましたが……と、申しますより、最期の時が間近となってまいりました。  このテガミは書き終えた後、不浸透性の袋に入れて飲み込んでおくことに致します。もちろん、あらかじめ宛名も書いておきました。貴方への想いが全て詰まったこの文章は、確実に貴方がお受け取りになられるべきです。それに女の本心は、やはり乳房の下に隠しておくのが相応しいでしょう。うふふ、貴方もそうは思いませんか。思いますでしょう。思わないワケが、ないはず、です。いえ、絶対にそうよ。  ねえ、貴方、また会えたら……今度こそは骨の髄まで、血管の一本までワタシを愛してくださいね。うぅん、縛るだけじゃダメ。もっと激しく。私は、アナタになら、なにを、されても……いいの。  だって、あはは。ワタシは死してなお……アナタをお慕いし続ける、女なの、ですよ。あの世の果てまでも、お傍からハナれない、真の理カイ者、なのです。そんな……女が、ワタシの他に、ダレかいます、か?  暫し、だから、アナタ……お待ちクダサイね。ワタシが、再びアナタの、この身を……ヨコたえる、まで。  向かい、ます。イマから、アナタ、愛してる……。
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