純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号132 『薔薇の縛め』  透度高き冬の外気は生命の営みを厳しく制限している。空気は清浄であるが、明瞭な視界とは裏腹にそれへ身を曝す者達の春は遠い。  女は暖炉前の寝椅子から躯を起こして立ち上がると、暖められた空気の中、壁一面を占める窓へと歩み寄る。窓は白い。この白さは冬という季節の身近な証明であり、人間のみが勝ち得た安寧の証でもある。  女は白磁の滑らかさを有した腕を差し伸ばし、しなやかな指の腹で結露の窓を擦る。水滴が払われ、顕わとなった小さなスクリインからは、冬薔薇★ふゆそうび★の色艶★いろつや★やかな饗宴を看取ることが出来る。黄色い花が多くを占めているが、緑光と呼ばれる白い花房も僅かにその姿態を覗かせていた。手入れの行き届いた庭園は、淡い色彩の形成する様式美を湛えている。  女は、寒空の中、華やかさに輝度を増す庭園の様を暫し眺めた後、婢★はしため★を呼んで珈琲を淹れるよう命じた。  婢の給仕を待つ間、女はテーブルの上にある煙草に手を伸ばして火を点け、くぐもったように煙を吸い込んだ。いつもと変わらぬ朝の始まりであった。  今日という日も、居間の温もりが穏やかな朝を感じさせてくれる。これは、女が風邪など召さぬようにと婢が二時間置きに薪をくべに来ることにより成り立つ優しさの常春であった。  女は、ある日を境に主寝室で眠ることを避していた。その理由を、彼女以外に唯一の居住者である婢は知らない。婢は女が主寝室で睡眠を摂らなくなった以後、この館に仕え始めたからである。  けれど、まったく主寝室を訪れることはない、そういう訳ではなかった。寧ろ、毎朝決まって訪れるといった方が正しい。少なくとも、朝を館で迎える日においては……。  女は居間を出、螺旋階段を優美な足取りで登ると、長い廊下のいっとう奥に位置する主寝室の扉を開いた。室内は埃ひとつ見当たらぬほどに清掃されており、しかしその整然とした雰囲気の中には確かに温もりが感じられた。七年という短い期間であったが、女が真実に愛し欲した相手との温もりと慈しみに満ちた記憶が、今なお息づいていいるのである。  相手は女より年嵩の男であった。とある堂上貴族の末裔にして戦後社交界の麗しき独身貴族として数多の縁談の渦中に身を置いたが、今より遡ること十年前、女と恋に落ち、その後結ばれたのである。  ……しかし、今はいない。三年前急な病に倒れ、そのまま黄泉の国へ旅立ってしまった。女の記憶に付随するように、面影を漂わせたまま。 「貴方、おはようございます。今日も庭の薔薇が美しくてよ。そうそう、緑光はもうすぐ終わりかしらね?」  女の問い掛けに応えるべき男はいない。……いないが、この一辺倒の問い掛けは女の日課であり、精神的純潔の証明たる儀式にほかならなかった。  女は恋多き女であった。そしてそれは今も変わらない。  女は、かつて祇園は宮川町の花と謳われし芸妓として鳴らした。その麗しき容姿と絶妙な媚態により女が溺れた男共は数知れぬほどであり、その中の数人とは実際に身も心も焦がした。若柳流の華麗な手捌きがごとく、或いは花から花へと蜜を得るため、俊敏に・移り気に・気ままに・宙を浮かぶ蝶のように。  しかし、男と恋に落ちてよりの七年間は一途に寄り添った。その現れとして、男の身を置く世界の慣例を破り、女は正妻の地位を射止めた。婚姻の当初は、芸妓という身上を中傷する輩もいたが、年月を重ねる毎に増していく睦まじさの度合いがそれを自然消滅せしめた。名実共に彼女が社交界に認知されたことは、それの証明であった。  舞妓時代を含めた花街の生活にはない穏やかさと男の柔らかな微笑みが傍らにあるだけで、女は仕合せであった。それにさらなる幸福を加える、子を成すという事実は終ぞ叶えられなかったが……。  けれども、子を成すことがなかったという現実が、男を喪った今の寂寥を緩和する役目を担っているのだと思う気持ちを導いた。  一般的多数の理を以てすれば、忘れ形見たる子の存在は最愛の人を偲ぶ動機となり得べきである。然りとて、その思想は女に当てはまらなかった。子を成したとて、子の中に亡くした男の面影を見、その都度哀しみに暮れることを畏れたのである。然るに、子がないことは女にとり不幸中の幸いというべき現実の顕れであったのだ。  女は、今はだれも眠りを得ることのなくなった寝台に腰を下ろし、目を閉じた。そして、男の記憶を、記憶の中に生きるその面影を肌で感じた。耳を澄ませば、今なお響★とよ★めく心地好き男の声。低音だがよく通る声音の織り成す愛の囁きは、三年たった今も色褪せることはない。  ゆるりと目を開けた女は、壁に掛かる一枚の買い気へ視線を傾ける。それは裸婦画であった。豊かな黒髪と白磁がごとき細やかな肌、この世にある光を総じて束ね収めたような希望でのみ生まれた微笑、大きいとはいえないが形のよい乳房、女性特有の官能的曲線美、キャンバスに染み出んばかりの描き手の情愛満ちたる秘密の絵画である。  女は絵の中で微笑み己の表情を見ながら、子の絵が描かれた折の情景を思い浮かべる。 『叶絵、動いてはいけないよ。そう、じっとして』  絵を描かせては、それを生業とする者にも引けをとらぬ男の心地好い声が投げ掛けられる。すると、女は悪戯★いたずら★に微笑みを漏らすのであった。 『待って、今の表情のまま。いいよ、綺麗だ』  男はそのまま黙り込み、その一刹那を切り取りてキャンバスへ永遠の時を刻んだ。約三月を費やし完成した絵は、二人にとり幸福を表す物証となった。何かの拍子に痴話喧嘩が起こったとしても、一呼吸置き、二人してそれを眺めるだけで、何ごともなかったかのように拗れた仲は元通りになる。  しかし、今はその愛しき記憶を喚起しめる形見となってしまった。あまつさえ、描かれた当初にはなかったものが描かれている。それは、薔薇の蔓で女を絡め取る縛★いまし★めであった。  まるで、日輪のごとくある女の微笑が飛び立たぬように、また、その瞬間を繋ぎ止める鎖のようでもあった。  病の床に就いた男が、 『叶絵の気持ちが、私の生きているうちは他所に行ってしまわぬように』  と、哀しく笑いながら描いた貞操の縛めであったのだ。  男はこうも付け加えた。 『私が死んだなら、君は自由に恋をするがいいさ。これは厭味やそういった類いのものではないから安堵してくれたまえな。  けれどね、館で夜を過ごした後の朝だけは、私を思い出してこの絵を眺めておくれ。この館で迎える朝だけは、永遠に私の妻であると、ね?』  男は、絵に薔薇の縛めを描き加えた後、ほどなくして逝った。女は暫くの間泣き暮らしたのだが、元来の社交的な性格がそれを続けることを許さなかった。社交界で交誼を得た友人達の女を慮っての誘いもあり、喪が明けたのを契機として、再び華やかな世界へ舞い戻ったのであった。  元より、恋に恋し飽き足ることのない星の下、生を受けた女である。加えて、最愛の男がいなくなったことにより、彼より受け継いだ莫大な遺産も時間も、それらすべてを持て余し気味の女である。  求めるべきは、寂寥が大きな穴を開けた心の修復にほかならない。  女は受動的に、時に能動的に相手を求めた。それが仮初めの関係であるか、永の時を共に過ごす間柄であるかを問わずに。今日という日までに流した浮名は五指に余る。然りながら、やはり館で朝を迎えた日の件の慣習は失わしめることは叶わなかった。 『館で夜を過ごした後の朝だけは、私を思い出してこの絵を眺めておくれ。この館で迎える朝だけは、永遠に私の妻であると、ね?』  今朝もこうして主寝室の絵を眺めてからでないと、一日が始動しないのだ。  女は、一時間ほど記憶の園で最愛の男と戯れ、朝食を摂るため部屋を出た。婢が食事を運ぶワゴンの車輪の音がする。 「直に朝食の用意が整います。奥様、本日の御予定はいかがにございましょうか?」  開け広げな婢の声が響めくと、女は親しみを込めて声を発した。 「新しい彼とデエトなのよ。夕食は用意しなくていいから」  婢が呆れたように頷くと、女は食堂へ向けて足を速める。女は、この慇懃無礼ともとれる婢が嫌いではなかった。時に厭味のひとつも謂い放つ悪戯な笑顔が、逝ってしまった男の遣わした小煩いが愛嬌のある御目付け役に見えてならなかったのだ。 (案じなくともいいことよ、貴方。私、朝は必ず逢いに参りますから、ね)  寂寥に堪え性のない女の、先に旅立ってしまった男へのささやかな抵抗であった。  甚だ弱い薔薇の縛めは、昼前には女の躯を解き放ち、キャンバスの中にのみその効力を留めてしまう。  そうであるにも関わらず、女は朝になればその心地よい縛めに服するのである。記憶と現を器用に、移り気に飛翔しながらも、心の深淵は貴方に握られているのよと微笑みながらにして。  女という生き物は、元より移り気で気高き頑なな蝶である。その性★さが★を説明するには、この世の言葉は手狭過ぎた。                                      (了)
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