純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号127 『行き止まり』  舐めたら甘かった。そんな人生だった。中略。だから会社を辞めた。特に引きとめられたりはしなかった。  会社を辞めた翌日の朝、僕はいつも通りに起き、家を出る仕度をしていた。靴を履き、ドアを開け、外に出た。そして鍵を閉めようとした時、会社に行く必要がないことに気がついた。自分でも間抜けだと思いながら家の中に戻った。  僕はスーツのままリビングに突っ立っていた。することがなかった。  会社を辞めてやった。そういうつもりだったのに、喪失感は自分のところにあった。  一人暮らしにしては広いマンションの一室が、インテリアにはこだわっていたはずなのにどこか無機質な部屋が、途方もなく寂しいものとして突きつけられた。一回読んで折りたたんでしまった新聞、少ない洗濯物、数枚だけ入れた食器洗い機、それらは自分に何か具体的なことを思わせるのではなく、ただ、寂しいと思わせた。胸の真ん中の辺りに真空を見つけた。しばらくの間、動けずにいた。  とりあえずスーツを脱ぎ、部屋着に着替えた。動いているときはそれほど寂しさを感じなかった。そしてまたリビングに行ってみると、意識せず足が止まった。僕は再び足を出そうとした。しかし、出なかった。それは意外な出来事だった。僕はどちらに向けて足を出すか決められなかった。どちらに出すにしても、そうと決める理由を見出せなかった。自分がこれからすることを、全く思い浮かべることが出来なかった。したいこともなく、すべきこともなかった。自分はただそこにいる、本当にそれだけだった。寂しさの中心は自分だった。  ぼんやりと過ごし、何日か経った。お前は何をしていたのか、もし誰かにそう聞かれても上手く答えることは出来なかっただろう。それほどに空っぽな時間だった。  その日は朝起きると気分も悪くなく、天気も良かった。空は気持ちのいいほどに青く、さわってみれば質感のありそうな雲がまばらに浮かんでいた。初夏だった。窓を開けてみると強い日射しの中に爽やかな風が混じり、外に出ようと思った。昼に近かったので朝食を食べず、軽い仕度をして家を出た。特に目的はなかったが、とにかく歩き出した。足は自然と駅へと向かっていた。それは会社へと向かう道と同じだった。大抵車で通勤していたが、たまに電車で行く時はその道を歩いた。方向を変えようかと一瞬考えたが、行くあてもないので歩きながら何か探すことにした。  数分後、僕は駅のホームのベンチに座り、人の往来を眺めていた。十一時頃で通勤ラッシュを過ぎていたので、人はあまり多くなかった。電車の本数も少なくなっていた。  目の前に紺色のスーツを着た中年の男が立っていた。いかにもサラリーマンという感じだった。時間帯としては大学生や主婦や年寄りが多かったので、その男は少しだけ目立っていた。背は中くらいで、痩せていた。頬のこけた脂っ気のない顔で、頭は禿げていないが薄かった。薄汚れた野暮ったい靴を履き、角が擦れている鞄を抱えていた。血色の悪い顔には髪の割に濃いハの字型の眉があり、どこか情けない雰囲気が漂い、ぼうっとしているように見えた。  僕はその男を思いっきり突き飛ばしてみたら面白そうだなと思った。それは単なる好奇心にすぎず、実際にそうするつもりはなかった。頭の中でそうすることを楽しんでいた。  まず男は軽そうだから楽に突き飛ばせるだろう。線路に落ちると肘なんかを押さえながら痛がり、困った顔でこちらを見るに違いない。僕は知らん顔をする。すると男はさらに困った顔をしてきょろきょろする。僕はそれを横目で見たらつい笑ってしまうかも知れない。実際なら残酷すぎるが、喜劇としてはここらへんで電車が突っ込んでくるのがいいだろう。そして電車に気づいた男が間抜けな声を出したら完璧だ。他の人間でも僕は様々なパターンの空想を巡らせたが、この男が一番楽しめた。  それらの目に映る人々は皆、当然何かしらの目的があってこの駅に来ているようだった。サラリーマン風の男もそうだった。自分はどうかと考えてみた。あるようには思えなかった。  なら今まではどうだったのかを考えてみることにした。今までは会社に行くという目的があったし、その先には夢に近いものもあった気がする。さらにその前も常に何らかの目的はあった。しょっちゅう変わっていたが夢も抱いていた。  今はなく以前はあったそれらが、一体どこから生じたのか。そんな疑問が頭に浮かんだ。消えていった夢やいわゆる「やりたいこと」は生理的欲求とは違い、必ず何らかの影響があってから自分の心に存在するようになったのは間違いない。記憶の糸を辿り、その始まりを探した。  するとどれも、自分より先にその願望を口にした誰かがいることに気づいた。自分が強く願ったもの、それら全ての始まりが他者にあった。例外を見つけることは出来なかった。自分の夢など結局、他人の借り物に過ぎなかったのだ。  自分自身から出たのでなければ、そんなものに価値はない。自分の生活の中で生まれた好奇心、欲望こそが重要なのだ。そう思った。すると、先ほどの男に対する好奇心と欲望が急に輝かしいものに思えてきた。あんなものでも、今の自分にはそれ以上にやりたいことはない。もはや夢と等価値、いや、価値を失った夢なんかより遥か上にある。  僕は立ち上がっていた。そして一歩二歩と前へ進み、男の後ろに立った。近くには他に誰もいなかった。もうすぐで電車が来るとアナウンスがあった。そうか、ならちょうどいい。僕はタイミングを合わせようと思った。   次第に電車が見えてきた。そろそろだ、よし、今だ。  思い切り両手を前に出した。自分ではそうしたつもりだった。だが実際にはほんの少し前に出ただけだった。自分のその躊躇に気がついてさらに戸惑ったが、一呼吸おき、先頭車両が前を通り過ぎる直前のタイミングで突き飛ばすことにした。線路に落ちた時の反応を見ることは出来ないが仕方ない。もう少しの迷いもなくなった。  そして今度こそ、と足にぐっと踏ん張りを利かせた。しかしまた出来なかった。まだ電車が来てもいないのに、男がすっと横にずれたのだ。おそらく電車のドアが開いた時、横から即座に中へ滑り込むためにだ。そしてそれ以上に、すぐ後ろに並ぶ僕よりも先に空席を取るためにだ。この場には二人しかいないというのに。  ホームに滑り込んできた電車が止まり、ドアが開くと、やはり男は乗客が降りるのを待たずにするりと中へ入り、向かい側の席の端を取った。そのあとに、開ききった電車のドアから数人の乗客が降りていった。男と僕の間を遮るものがなってしまうと、男と目が合った。僕は目をそらし、電車には乗らなかった。そしてドアが閉まり電車が走り出し、男の姿は見えなくなった。  男と目が合った時、男の目には確かな優越感が込められていたように見えた。僕は突き飛ばせなかったことより、あんなせこい人間にそのような目で見られたのが我慢出来なかった。嫌な感覚がよみがえり始めた。  もしあの男が明日また同じ時刻にここへ来たら、絶対に突き落としてやろうと考えた。この復讐こそ、自分の唯一のすべきことだ。そう思いながらベンチに腰を下ろした。  しかし、すぐに違和感を感じ始めた。違う、そうじゃない。復讐したいのはあいつじゃない。自分が本当に復讐したいのは会社や会社の奴らだ。そのことに気が付いてすぐに立ち上がり、自宅へと急いだ。  それは今の自分に与えられた一つの答えだった。  告発してみると、芋づる式に他の不正も発覚した。これは予想外で、会社の存続すら危うかった。  事件はそのうち僕の手から完全に離れてしまい、すっかり興味を失ってしまった。親族とのつながりはあっという間に消え、次第に会社の情報も入ってこなくなった。自分にはこの一連の出来事は絵空事のように現実味がなく、印象にも残っていない。誰かにそう正直に話せば、僕は「無感動な若者」とでも言われるのだろうか。  積極的に動いてみても、再びあてのない日々が始まってしまった。残ったのは体と金と物だけで、生活の原動力となるものはなかった。やはりまた佇むことしか出来なかった。  自分を囲むのは物欲に駆られて手に入れた物ばかりで、今となってしまえばそこに感情は詰まっていなかった。全て売ってしまおう。そうすれば少しは落ち着くんじゃないかと思った。  それから一月近くはせわしなく動き回ることが出来た。最低限の生活に必要なものとミニバンだけを残し、アンティークの家具も、最新の家電も、迷った挙句に両方買ったポルシェのボクスターとBMWのZ4も、クオードのスピーカーとスタックスのイヤースピーカーも、そして有名な独立時計師が作ったトゥールビヨンの腕時計も、気に入っていても売れるものは片っ端から売ってきた。売れなかったものは捨てた。そうして家の中はほとんど空っぽになった。自分を責めるものはもう何もないと感じた。  そうするとやはりまたすることのない日々が始まったが、暮らしは以前より楽になった。気楽に外へ出るし、古い友人と遊ぶこともあった。質素に暮らしていても、ゆとりがあった。  浮遊するように暮らしていたある日、僕は一人の女性と出会った。彼女は独特で力強い魅力を持っていた。だが知り合いになった訳でもないし、言葉を交わした訳でもない。ただ同じ空間に居合わせたというだけだった。普通に生活をしていても、魅力のある女性を見かけることはよくある。しかし、彼女ほど印象に残った女性はいなかった。  それは電車に乗っていた時のことだった。夕方、自宅へ帰るため電車に乗ると、少し混んでいたが空席を見つけ、そこに座った。そのままぼんやりとして、読みかけの本を開くこともせず、目を閉じ眠ることもせず、何もしないでいた。次の駅に着くとまた乗客が増え、自分の座っている目の前にも人が来た。  最初に目に入ったのは細い足だった。下を見ていた自分の視界にすっと入ってきた。膝上まである黒いソックスにデニムのミニスカート、そしてピンクのチェック柄のシャツにインナーは白いカットソー。正面に来た客は女性だった。細身で、背はそれほど大きくない。黒くてまっすぐな髪で、顔は可愛らしく、美人でもあった。だがそういう問題とは別に、どこか彼女に惹きつけられる気がした。  車内がやや混んでいるせいで、座っている僕と立っている彼女との距離はほとんどなく、顔の前には彼女の腹部が来ていた。彼女は肩にかけた鞄を前に回した。鞄がスカートの下部を押さえつけるので、彼女の体の線がはっきりとした。僕の顔のすぐ前にある、股間からへその辺りまでは緩やかに丸みを帯び、男性のそれとは違う、女性らしい体つきだった。タイトなインナーと斜めにかけられた肩かけ鞄の紐によって、腰回りの線や胸の形も露わになっていた。華奢な体だった。だがとてもバランスが良く、小ぶりな腰は綺麗にくびれ、小さな肩からは細く健やかな腕が伸びていた。胸は小さい方だったが、どこか色気のある胸だった。  彼女の隣には、母親と思しき女性がいた。彼女よりも背は低いうえに肥えていて、ずんぐりとしていた。顔も整っているとは言えず、似ているといえば小柄なところだけだった。  二人の間には会話があった。電車の音がうるさく、内容をはっきり聞き取ることは出来なかったが、ごく普通の会話だと思った。母親の方に気になることは全くなかった。娘らしき彼女はなんとも舌足らずな発声で、声だけ聞けば、可愛らしさと頭が悪そうな感じのどっちとも取れる話し方だった。普段の僕はそういった話し方を良く思わない。苛立つこともある。しかし、彼女に限っては好意的だった。人に媚びる様子が全くなく、外見や話し方には統一された、彼女らしい可愛さが貫かれているように感じたからだ。だから舌足らずな話し方は、かえって自然であるように思えた。  僕は彼女の年齢を全く予想出来なかった。服装、話し方から考えれば、中高生と取れなくもない。だが整った顔立ちや化粧、そして艶やかさを見れば二十台後半でもおかしくない。  よく聞き取れない二人の会話を聞いてるうちに、僕は大変なことを聞き流していたことに気がついた。彼女は自分のことを「おれ」と言っていたのである。だが彼女はそれを女の子らしい言い方で、ごく自然に使っていた。「おれ」と言う時はさらに舌足らずになり、見事なまでに違和感がない。逆に彼女がそういう言い方以外で自分を表現した場合には違和感を感じてしまうかも知れない。現に何度も彼女が舌足らずな言い方で「おれ」と口にするのを聞いていると、それが彼女にとって一番しっくりくる一人称なのだと思えてきた。  「おれ」と言っているからといって、彼女が男性だとは思えなかった。骨格や肉付きはまさに女性的で、声も顔も身に着けているものも、何から何まで女性だった。彼女自身も、自分を女だと言っていた。どういう文脈で言われた言葉かはわからないが、「おれが男だったらいいけど女だからね」と言っているのが耳に入った。かといって精神的には男性であるとか、男性への変身願望があるなどというパターンでもなさそうだった。いくら観察しても、彼女はまさしく女性だった。しかも、表面的には自然な言い方だが、「おれ」という非常に男性的な言葉が使われることによって、こちらにはより強く、彼女の性が女であると意識させた。「おれ」というたった一点が、彼女の女としてのあらゆる点を輝かせていたのだ。  気づけば彼女と母親の会話はなくなっていた。電車に揺られ、淡々と過ぎゆく時間になっていた。電車が大きく揺れると、彼女の膝の内側が僕の膝の内側に軽くぶつかった。それまでにも何度かぶつかっていたが、今度は彼女の足が触れたままになっていた。非常に細い足だったが、やはり女性の足で、やわらかい肌を感じた。そして、そこからじわっと体温の違いが伝わった。暖かいというより熱かった。彼女の太ももの内側から、熱を持った血が自分に注ぎ込まれているような気がした。それは自分の中心へと伝っていきそうだった。  しかし、また電車が大きく揺れると、彼女の体は離れた。するとさっきまで触れていた部分が急に冷えるように感じた。車内は冷房が効いていて、自分を包む空気は思っているよりも冷たかった。そしてすぐに、さっき流れ込んできたはずの熱も見つからなくなった。自分に流れているものの冷たさを知った。  そのまま何駅か過ぎて人の入れ替わりが多い駅に着くと、車内にいた大勢の客が降りた。彼女とその母親はそれに混じり、どこかへ消えてしまった。僕の降りる駅はまだ先なので、それまでと同じように座り、ただ前を見ていた。だがどうしようもない物足りなさを感じ始めた。それが嫌で目を閉じ、何も考えないようにした。そうしてるうちに寝入ってしまった。  降りる駅に着くころ、半分起きかけてはいたが、まだまどろみの中にいた。不意に、何か膝へ当たる感触があった。勢い良く顔を上げた。 「あ、すいません」  扉の方へ歩いて寄っていく若い男が言った。扉の外には良く知ったホームが見えた。僕は男に続いてさっさと電車を降りた。  そのときまで気が付かなかったが、外はもう随分と前から暗くなっていたようだった。   駅から自宅までの道のりは今までと表情を変えていた。いや、自分のような何もしない人間には居場所がないと気が付いただけだ。本当は何も変わっていない。僕はもう、どこにも関与していない。  家に着くとやはり違和感を感じた。ゆっくりと、電気を付けずに靴を脱いだ。壁を触りながら、少しずつ進んでリビングへ向かった。  リビングの入り口で、音を立てないようにして止まった。カーテンを閉め切っているので真っ暗に近かった。電気をつけても、きっと昨日と変わらない部屋だ。誰かいる訳でもない。自分以外、何一つ変わっていない。  壁を下からなぞりながら、スイッチを探った。触れると、そっと電気をつけた。ぶうん、と小さく聞こえてから視界は真っ白になった。そしてすぐいつもの部屋が見えてきた。でも何もかも違っていた。壁も床も天井も、自分の方を見ていた。会社で働いていた頃の生活の跡はいたるところに潜んでいた。当時の自分が、何もしない自分を責めている。ここにいる限り逃げられない。鼓動が体に響いて呼吸が速くなった。いくら吸っても酸素が入ってこない気がした。真空はまだ胸に残ったままだった。僕はよろけながらもリビングに背を向け、玄関へと急いだ。  外へ出て、すばやく鍵を閉めた。すると力が抜け、ドアにもたれかかってずるずると座り込んだ。ゆっくりと息を吐いて呼吸を整えた。  もうここにはいられない、明日にでも引き払おう。必要なものを車に積んで、どこかちょうどいい場所を探そう。そこですべて終わりにしよう。そんなことを考えてすっと立ち上がり、車へと向かった。  僕は苦いのが嫌でここまで逃げてきた。そのためには甘みを捨てることだって惜しまなかった。だが待っていたのはもっと苦い生活だったのだ。甘みなんか少しもない。  それならばこの道はもう行き止まりじゃないか。  死に場所を探し始めてから数日が経っていた。あてもなく近所を走り回っているだけで、これ以上続けても見つかりそうになかった。家を引き払ってからはずっと車の中で寝ていたが、疲れが溜まってきたのでもうホテルに泊まることにした。  しかし、ホテル暮らしになったからといって何かが変わるわけでもなかった。結局、近所をぶらぶらしているだけだった。このままではどうしようもないので思い切って自殺スポットに行ってみることにした。  いざ近所にいい場所がないかを考えてみると、そもそも自殺スポット自体あまり知らないことに気づいた。ただ一つだけ頭に思い浮かんだのは富士の麓、青木ヶ原の樹海だけだった。  どうしようか二、三日悩んだ末、樹海に行くことを決めた。  車を運転する僕を嫌な気持ちにするのは、何もない林道だった。自分の人生を暗示しているようだ。  僕は止まるのが億劫になってしまっていた。このまま正面に大きな壁でもあれば一番楽なのかもしれない。そう思った。  青木ヶ原の木々は近頃日射しが強くなってきたせいか濃い緑に力強さを秘めていた。さすが樹海と呼ばれるだけあって森が圧力を持ってそこにあるようだった。  ちゃんと準備はしているし、いずれどこかで止まらなければいけない。それはわかっているが次に移れずにいた。そこで車の速度を緩め、何でもいいから何かを見つけたら止まることにした。  すると案外すぐに、ペットボトルが道路わきの草むらに落ちているのを見つけた。しばらく進んでから仕方なく車を止めた。  リュックを背負い車を降りると、湿気のある空気と共に草のにおいがした。風もあり気温はそれほど高くないが、湿度が高いせいで不快だった。汗が滲み始めた。  硬いアスファルトの地面から草むらへと踏み出し、僕は土の感触を感じながら森へ入った。  少し薄暗い森の中は思っていたより涼しくなかった。地面には邪魔になるほどの草は生えていなかったが、いたるところで木の根が飛び出し、歩きにくかった。  だが何より嫌だったのは、どこを歩いても蜘蛛の糸が絡んでくることだった。巣はあまりないが、木々の間には無数の糸があった。それらを手で払いのけながらしばらく歩いていくうちに、振り返っても林道は見えなくなっていた。とりあえず奥のほうまで歩けるだけ歩いて、そこで一休みしてからすべて終わりにしようと思った。  一時間ほどだろうか、歩き始めてそのぐらい経ったとき、前方の遠いところに何か見えた。首吊り死体だったら気持ち悪いなと思いながら目を細めてみると、人の形ではなさそうだった。太い木の幹に白い棒が立て掛けてあるように見えた。  かといって不審に思う気持ちは消えなかった。気乗りしないが追い風に背を押され、その方へ向かった。  僕は一本の大きな木の太い幹と対峙して、歩みを止めた。五メートルほど離れていただろう。それ以上はなかなか近づけなかった。風上から吹く風があるというのに強烈な腐乱臭がしていた。口の中では嫌な唾液が止まらない。虫の羽音が絶えない。こちらからだと一部分しか見えないが、幹の反対側にあるものが何なのか、それは明白だった。眩暈がしそうな悪臭の中で、体の底からじっとりとわいてきた汗が気持ち悪かった。  足が地面につき、木に寄りかかるようにしてぶら下がっているのだろう。こちら側から見える白い棒は、白いズボンを履いた細く棒のようになった片足だった。  僕は距離を保ったまま、幹の反対側へと回り込もうとした。横へ横へとゆっくり、少しずつ進んだ。そして死体の真横を過ぎた。脈がやたらと速くなっていた。  そこまで来て死体の足首から先がないことに気が付いた。そして反対側の足は膝から下がなく、白いズボンもそこで破けていた。野犬や小動物に食われたのかもしれない。  紺色のTシャツを着ている胴体部分もすっかり細くなっていて、そこから若干ぬめりのありそうな赤黒い皮膚の腕がだらしなく垂れ下がっていた。そしておびただしい数の黒光りして大きく丸っこい蝿が、重たい羽音を立てながらそこでうごめいていた。食べているのか卵でも産み付けているのか分からないが、普段は見ることのない蝿だった。  死体の肩の部分はひどいなで肩になっていて、細く伸びた首は異様に長かった。通常の倍近い。腐敗によって肉が落ち、肩が下へ下がってきた為にそうなっているようだった。  顎のあたりの肉はほとんど腐り落ち、その下に通っているはずの紐は埋もれて見えなくなっていた。蝿がちょろちょろ出入りする口や上顎あたりから上は骨が露出し、眼窩に目はなかった。鳥獣か何かによるものなのだろう。耳もなくなっており、耳のあったあたりから青くて丈夫そうな紐が出ている。紐は側頭部を通り頭上で反対側の紐と結ばれていた。頭頂部には肉や頭髪が全く残っておらず、黒っぽくなった骨が大部分だった。側頭部や後頭部にはある程度髪が残っていて、そこから短髪であったことが分かる。髪型、そして服装を見るとこの死体が男であることは間違いなかった。  言いようのない不安定な感覚から手のひらの汗は止まらず、自分の足で地面に立っているという感触はなかった。だが進まずにはいられなかった。  もう少し前へ回り近づこうとした時、ふと風が止んだ。すると鼻に刺激を感じたかと思うと、いきなり食道をつかまれ胃を引っこ抜かれるような感覚に襲われた。それが吐き気だと分かった時にはもう嘔吐を止められなかった。風がなくなりさっきより格段に強くなった腐敗臭の中で、僕は涙を滲ませながら土に手をついた。鼓動は胸の内側を強く叩き、不安が絶頂に達しそうだった。何かが僕をしきりに揺さぶり、命の基盤がぐらついてゆく。  僕は浅く荒い呼吸を不規則に繰り返していたが、地面に拡がる自分の吐瀉物の臭さが鼻につくと、不思議と心が安らぐのを感じた。僕は這いつくばって土に顎をこすりつける体勢になり、吐瀉物のひどいにおいを嗅ぎながら必死に深呼吸をした。そうやってだんだんと落ち着きを取り戻していった。  ようやく冷静になった僕はそれを指先ですくい、鼻と鼻の下に塗りつけた。自分の悪臭により、腐敗臭は吐くほどではなくなった。そして弾みをつけて立ち上がった。今度は自分の足でしっかりと地面を捉えているのを感じた。  そこから僕は何歩か歩き、死体と向き合った。なんてことはない。そう思った。僕は死体を客観的に見ることが出来た。これは自分の体じゃない、自分の体はここにある。それをちゃんとわかっていた。  太い幹から伸びる太い枝の付け根に、青い紐がくくり付けてある。そこから垂れる紐の先には頭があり、だらりと体がぶら下がっている。足の先は地面につき、背中は幹に寄りかかっている。こうやってまじまじと見て感じたのは、ただ嫌悪のみだった。命の儚さや尊さなんかを感じることなんて出来なかった。腐ってしまった肉や魚や野菜や果物を目にしたときと同じようなものだった。ただ単純に腐るものが数十倍大きくなって嫌悪感もそれに比例しただけだ。  こんな風にはなりたくないと思った。人知れず死ぬなら腐敗から逃れることは出来ないのかもしれないが、ここで死にたくはなかった。せめて海がいいと思った。蛆や蝿に食われるより、蟹やシャコに食われる方がまだいい。帰ろうと思った。  だが道なき道を歩いてきたので、そう簡単に来た道を戻るということは出来ない。自分の置かれている状況は遭難と同じだった。かといって遭難で死ぬのも嫌なので、進むべき方向を予想しながら歩くしかなかった。  太陽を方角の目安にし、一定の方角へ歩き続けたはずだった。しかし、数時間経っても林道には出なかった。やがて夜が来て、今度は月を頼りにして進んだ。ようやく林道に出た時には、さらに数時間が経っていた。そこから車を停めた場所までは一時間以上かかり、すっかり深夜になっていた。それまでの長い時間、休憩は一度もしなかった。  たとえ疲れても僕が止まらずに歩き続けたのは、ただ森の中にいるのが嫌で、帰りたかったからだ。生を渇望していた訳ではない。積極的に死を欲しているとも言えない。ただ嫌悪やわずらわしさが僕を決めている。いつもそうだ。  今まで僕はそうやって人生の選択肢を切り捨て、残った方へ進んだ。それは逃げたといった方がいいのだろうか。どちらにせよ、僕の人生は消去法でここまで来たのだ。そして今はなんとなく死へ向かっている。  だが、大いなる決断で人生を進む人間なんているのだろうか?
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