純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号126 『Land's End』 大英帝国の輩出した偉大なサイエンス・フィクションの巨匠に、サー・アーサー・C・クラークがいる。イギリスのちいさな農園に生まれ、グラマー・スクールを卒業してすぐ働き始めた彼は奨学金を受け30歳でキングズ・カレッジに入学した。その作品は明確な科学的根拠があることで知られる。分かりやすい例では''鬼才''キューブリックとの、あの「2001年宇宙の旅」において、宇宙空間のシーンが無音であることに感動する人間は多い。クラーク初期の代表作「地球幼年期の終わり」には人類の行く末が描かれた。 宗教は「未来について」説明してきた。キリスト教やイスラム教の最後の審判、北欧神話のラグナロク、未来仏弥勒菩薩による釈迦入滅後567,000万年の救済等等。 そして、その場所が砂漠であろうと氷河の上であろうとコンクリートジャングルであろうと、人がすでに存在しないかもしれない天体を見上げるときそこには永遠の絶句がある。 少女は長い髪の毛が頬にかかるのをわずらわしがっている。 ずっと何か言わなくてはと思いつづけていた。 最初に自分が言うことが出来たのは言わないほうがいいことばかりだったので黙っていた。大切なのは自分の好きなことを知っているということだというのは語弊がある。何かすることを欲すればするだろう。何故なら欲しているからだがこの言い方も語弊がある。きっとまったくすべては許されている。難しいことは得意なやつが勝手にやればいい。考えたければ考えるし、生きているのがいやになったら死ぬのだろうが、死への好奇心があまりに強ければさっさと死にたくなるかもしれない。俺は考えるうちに機会を逸してもう言うことがなくなってしまったが、今でも言えることはないだろうかと考え続けていた。 こちらの都合であんまり沈黙ばかりではもうしわけないと思ったが、口を開くと結局後悔することになってしまって、いっそのこと自分が答えを見つけるまで顔も内臓も透明になって体重も分からなくなればいいのにと考えた。原始のスープの中で体を持ち始めたときからわれわれはずっと墓穴を掘り続けている。 丸くて分厚い窓からは、濃い闇の色と、星雲のもやと、銀や赤の瞬きが見えた。なだらかな宇宙船の内部は白く発光していて、一人掛けのソファーに座っていた。俺たちにとっては太陽によってのみ昼が訪れるとしたら、自然なのは夜のはずだ。下を見るとモスグリーンの皮の靴を履いていて、床に触るとこつこつ音がした。ステーキで腹は膨れていた。口の端に肉汁がついているのに気づいてぬぐった。 茶色くひなびたカマキリが一匹光る床の上を這っていた。彼女もかつては女王だった。俺は立ち上がってカマキリに近づき、瀕死の目の前に人差し指を近づけた。彼女は鈍く前足の鎌を持ち上げた。重いのだ。やれることが限られている以上、俺たちは安心していられる。 俺はいつもこうやって言い訳しながら、人を捨ててきたのではないか。もっとまっとうな、シンプルな、ストレートなやり方を思いつかないのは、不自然なのではないのか。 しかしいずれにせよ、あの燃えるような切望を前に、あるいはこれよりいいと思えるやり方を俺は思いつかない。 自分以外の足音は聞こえなかった。それもそのはずで、人と人との間はたぶん宇宙の端から端より離れているのだ。無限大の宇宙の外にいる相手と、一緒にどこを飛ぶというのか。たとえ隣に座っていたとしても。俺は遠い場所から渡ってきた。長く放浪すると大胆にもなるが、臆病にもなる。蓄積されていく恐怖心がどこかで理性をねじ伏せるのだ。 サイドテーブルの上には黒いダイアル式の電話がおいてあった。懐かしい形をしていた。それの呼び出し音が鳴るような気がしてならなかった。これは夢だ。 つまり、俺は夢だ。 ヘレン・ケラーは幼少期に大病を患い、優れた教師を得るまでは盲聾唖だった。教師アン・サリバンが彼女の生徒の掌に冷たい井戸水を流し、掌に「水」と書いたことは有名だが、仮に三重苦に加えて「触覚」がなければどうなるだろうか。それもすでに指摘されていることだ。その意識が目を覚ましたときすでにその状態になっていたとしたら、彼にとって現実的な意味合いにおいて、彼は寝返りを打つこともできないだろう。 そして、それでも彼には「意思」があるだろう。また彼がもし「俺は俺である」こと、「X=X」において何かがイコールを間に隔たっていることを認識する瞬間を持ったとすれば、彼は愕然とし、その瞬間おそろしく孤独な存在になる。
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