純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号121 『鸚鵡小町』  お待ち申し上げておりました。  宮中からのお使者をお迎えするなど、何年ぶりのことでございましょう。院の御製★ぎょせい★を老いの身に賜わり、畏れ多く存じ上げ奉ります。  まあ、料紙がずいぶん美しゅうなりましたこと。  あらあらあら、このお歌……。  少々露骨ですわね。ご趣味が、およろしくないわ。どうやら院は、評判どおりのご気質でいらっしゃるようね。  雲の上は ありし昔に 変わらねど 見し玉簾★たまだれ★の うちやゆかしき  (昔と変わらぬ華やかな宮廷が、あなたは恋しくありませんか?)  ほほ、宮中が恋しいわけ、ございませんわ。  もちろん、そのかみの宮中はおなつかしいですわよ。それは何十年も昔の御所。今もお慕い申し上げる方がたはもうお亡くなりでいらっしゃいます。なんでも新時代の女官たちは、髪を身の丈よりも長くして、ぶかぶかの袴を引きずって、床をすって歩くとか。なに考えているのかしら……。  あら、どうあそばして、 驚かれましたの? ふふ、世間に広がっている噂を信じ切ってこちらへいらしたのでしょう。  驕慢な絶世の美女が落ちぶれ果てて、焦がれ死んだ恋人の亡霊やおのれの妄執に苦しみ、半ば気が狂っている。百歳にも年古りて、野たれ死に寸前……。  ほほ、わたくしが死んだら、野ざらしの遺体の眼窩★がんか★から芒★すすき★が生えていた、なんてまことしやかに言われそうですわ。その白骨死体がわたくしだと、いったいどうやって見分けがつくのかしら?  わたくしの家は人数★ひとかず★にも入りませんが、まず分相応に暮らしておりましてね。小野の資産の大半は、伯母からわたくしが継承しました。財産を巡って兄弟が相争わないよう、財産が散逸しないよう、夫に持って行かれないよう、用心して独身の女★むすめ★に継がせるのは世間でめずらしくもないことです。幸い身体はまだ達者に動きますので、あちこちのお寺に詣でて尊いお講話を聞き、勤行三昧★ごんぎょうざんまい★の毎日なのでございますよ。  うわさのもと? ひとつには、そねみでしょうかしらね。伏流としては昔からありましたよ。若い頃のわたくしは笑い上戸でした。だって、おかしなこと、楽しいことがいっぱいあったんですもの。いつも自分と人とを引き比べて、他人の幸せを髪の毛ひとすじほども許しがたく思う人が、どこにでもおります。ひそかにわたくしを憎んだり妬んだりしたつまらない男や女がたくさんいたことでしょう。  ええ、恋人はたくさんおりましたわ。わたくしの心の底には、石のように固いものがひそんでいて、多くの男をふり捨てました。もちろん、男たちも本気ではなかったわ。互いに恋をしかけ合うのは宮廷作法にすぎないこと、あなたさまもよくご存じでいらっしゃいましょう? 百夜★ももよ★通い? いくらわたくしがおてんばでも、そんな馬鹿馬鹿しいこと、殿方に命じたりはしませんことよ。深草の少将 …… いったいどなたのことかしら? 失礼ですけれど、その通称の方は存じ上げません。  わたくしは幼い頃から采女★うねめ★になるよう育てられましたの。姉はすでに更衣として召されておりました。父は同族の女★むすめ★が同じ帝にお仕えするのを厭がったので、わたくしの方は檀林皇后さまの御殿に上がりました。すでに皇太后でいらっしゃいました。  ええ、「自分が亡くなったら、なきがらを野に放り捨てて、犬のえさにしてくれてかまわぬ」とおっしゃった、あのお后さまですよ。お若い時はあたりを払うお美しさだったとうかがっております。すでに五十の賀をお迎えでしたのに、往時の面影をいまだ残しておられるように拝しました。  九相の図を描かせ、それをお手元に置いてご覧になっておられました。人が亡くなった直後の遺体から始めて、だんだん形が損なわれ、腐乱し、最期は白骨となるまで、九つの段階に分けて描いたものです。年上の女官たちはこの絵を気味悪がっていましたけど、わたくしたち少女は興味しんしんでしたわ。ああいうむごい絵を怖がるのは大人の感覚で、幼稚な者は感受性が麻痺してしまうだけのことでした。その絵を見たからといって、幼いわたくしたちが世の無常を早くも感じとったわけではありません。  小さい頃から美しいと言われておりました。とはいっても、わたくしよりもっと美しい方は、何人もおいででしたよ。申すも畏れ多きことながら、この檀林皇后さまを始め奉り、采女仲間にもいましたし、母方の従姉もそうでしたの。ですから、容貌に関して格別のうぬぼれは持っていません。絶世の美女だった、などと世に喧伝されるなんて当惑しておりますわ。宮中を退いてからですね、そんな風におおげさなことを言われ始めたのは。  若い頃の歌はもう忘れてしまいました。采女はなかなか忙しい職務で、じっくり歌を詠む暇など、とてもとても。毎日がただ楽しくて、即興で詠んで泡のように消えてしまう、たわいのない歌ばかり交わしておりました。  深草の帝が崩御され、いくばくもなく、後を追うように皇太后さまもお隠れになりました。夫君が薨★みまか★られた時は気丈に耐えていらしたのに、最愛のお子さまの死には力が尽きてしまわれたのです。わたくしはその時二十五歳、すでに人生の半分が過ぎておりました。  人並みの歌を詠むようになったのはその頃からですね。苦しい恋を知り初め、さまざまなもの思いが始まった時からです。若さをひとつ失い、悲しみがひとつ宿るたびに、わたくしは歌を作りました。  わたくしの歌からいったいどんな女を想像なさいます? 醜く老いさらばえた女ですかしら? あれ…… うれしゅうございますわ ……。わたくしは、自分の身のうちにある、すぐにも揺らいで消え去りそうな美しさを、歌にそっと封じ込めました。封じ込めた以上、美しさはもはやわが身のことではありません。  いいえ、恋に関しては別でございますわ。あれだけは曲者でした。恋の始まりはいつも意識することなく、気がつけば身も心も恋に取り憑かれておりました。恋は死とようく似ていると思いますわ。どうしてって、あなた、わたしがただそう思っているだけでございます。恋の思い出でございますか? 本当に大切なことは人さまにお話できないものですわ。いえ、もったいぶっているのではないのですよ。わたくしは過去の恋を歌ったことはありません。いつも現在の恋しか語れないのです。  さて、御使★みつかい★をあまり長くお待たせしてはなりませんわね。院もお待ちかねでいらっしゃいましょう。  このお歌には、「ぞ」とだけ返し奉ります。「うちやゆかしき」を「うちぞゆかしき」と一字代えて奏上くださいませ。  雲の上は ありし昔に 変わらねど 見し玉簾の うちぞゆかしき  (昔と変わらぬ華やかな宮廷が恋しくてなりません)  こういう返歌を「鸚鵡★おうむ★返しの体」と申します。歌のやりとりにはあることですから、失礼にはなりません。新大納言さまにこんな横着なことをお願い申し上げて、ごめんあそばせ。あなたさま、この御製に対しては、せいぜい鸚鵡の芸をお見せするのが相応じゃございません? 人は見たいと思うものしか見えません。みなさまがたが落魄★らくはく★のわたくしをお望みなれば、どうぞ、およろしいように……。くく、愚鈍なひとたちね……。  まあ、そんな、今のわたくしに怖いものがないなんて。ひとつございます。地獄に行くことですの。極楽浄土が格別の所だとは思っていないのですよ。話を聞くと、どうやら退屈そうな所じゃありませんか。そんな所へ行くより、もう一度羅生★らしょう★の巷★ちまた★に生まれたほうがよろしいわ。生きているのはほんに楽しゅうございます。  ただ、地獄だけは御免です。おのれの罪障を少しでも減らすよう、この関寺まで参りましたのもそれゆえです。でなければこの年よりが住み慣れた里を出て、わざわざ逢坂の関まで来るはずもありますまい。  わたくしね、死後は遺体を山に捨てて狼の餌にするように、かねがね家人に言い含めておりますの。ええ、なきがらなど、どうなろうとかまいません。土に埋めたり焼いたりするより、野ざらしの方がごく自然じゃありませんか? 檀林皇后さまは高貴のおん身ゆえ、ついにご本懐をお遂げにはなれませんでした。せめてわたくしは、この身を九相のごとく処すことを願っております。それゆえ、わたくしのなきがらに関しましては、いずれ出るであろう噂はでたらめではありません。ふふふ、本人が保証しておきますわ。  おお、月がのぼってまいりました。十六夜★いざよい★の月でございますから、帰りの夜道も明るうございましょう。  あなた、そろそろ、お戻りあそばしませな。長居はお勧めいたしますまい。久しぶりにこうして若い公達★きんだち★とお話しておりますと、とりつくろった人の面★おもて★が崩れ落ちて、わたくしの鬼の素顔が現われてまいりますわ……。  この物語は、能「鸚鵡小町」から翻案しました。
この文章の著作権は、執筆者である 朝倉 瑠璃 さんに帰属します。無断転載等を禁じます。