純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号119 『黒髪の』  私はあの大きく古びた木材と石でできた校舎で彼女を見た。それは私が昨夜に遅くまで原稿用紙に懊悩したあげくいつもより登校が遅れてしまった出来事であった。しかし驚いたものだ、一六にして初めて女を見た気分であった。ただ彼女が私の前を歩いただけで、私はその横顔を見たというそれだけの話である。彼女は私が見ていた事にも気付かずに歩いて階段を駆け上がっていった。ほっそりとした体つきに真っ黒な瞳。眉毛を隠すほどと腰まで届く長い後ろ髪が綺麗に切り揃えていてその色は黒、本当に真っ黒であった。生きた日本人形と言えば不気味であるが、だが本当にあの白い肌とはよく似合う女であった。  歳はいくつか、何処からきているのか、名前は何と言うのか、何よりもまた会えるだろうか、と私は学校にいる間はひたすらにあの女の事を考えていた。これほど私は何かに頭をいっぱいにすることなどあったでろうか。否、これほど胸のうちを掻き立てられることはなかった。遂に帰省時刻になると教室を九月の赤い夕日が射し、赤く染めた。同年輩も年輩の者も教室から出、各自の帰路に着いた。私もまた用も無いことだから帰ろうとした。もしかしたらこの群れの中での邂逅があるかも、と期待したものの彼女を見ることはなく肩を落とした。だがきっと明日の朝再び会えるかも、と期待せずにはいられなかった。私は靴に履き替え家に向かった。その日のこれまでに見た風景との違いよう!帰路、私は畦道に咲く曼殊沙華に季節を尋ねた。―今何時かい― ―秋さ― ―そうかいまだ秋かい―  その晩私は彼女を思わずにいられなかった。ゆっくりと彼女を思い出そうとした。睫毛に包まれた真黒な目に均衡の採れた鼻。そして真白な肌に相対するように真黒な髪よ。あまりに華奢な体は、きっと力をいれて抱けば壊れるか消えてしまいそうなほどであった。そのとき私は思い出したように、綴りかけの原稿用紙を取り出すとさっそくそれを捨てた。私は明かりを点け新しい原稿用紙を取り出し樫の机の上に広げると筆を添えた。これはただの物語ではない。きっと美しい日記のように語るだろう。暗澹とする秋の夜だが、ちんちろりんと鳴く松虫と秋の吐息にさざめく雑木が沈黙を破る。月は見えない。  それから翌日私は、昨日の同じ時間に合わせていた。戸口を開けて空を見上げると雲は雨を予告していた。傘を掴み私はいつもの道をゆっくりと歩いた。秋風が寒く吹く。しかし今日もまたこの風景とのこれまでの変わりように私は筆を取り出したくなる思いがした。古くなった木と石でできた校舎に辿り着くと、下駄箱でやはり彼女は私の前を歩いて行った。昨日と変わらぬ美しさ に私はその後ろ姿を見ていた。  彼女は本当に人なのだろうか、狐か狸が化けてやしないだろうか。でなければあれほどの女が存在しようか、この隣の女の面相と意地の悪さとの比べ物のなさよ。合点が行かないが、それが真実であるならば僥倖である。それとも私が夢を見ているのだろうか。そう暫く私は授業も上の空になるほどあの黒髪の女のことを考えていた。あれほどの少艾なのだからどんな男でさえも振り返らないはずがない。きっと多くの男に愛されているのだろう、と思っていたが私はあの女をよくは知らずに愛そうとはしなかった。純粋な恋でもなく、ただの美麗をあの女から感じているだけであった。が、確固たる否定を含むとは思えなかった。あれは忘れ難き黒髪の女だ。  懊悩とした顔をしていたのかもしれない。友人に声をかけられふと周りが立ち歩いていることに気付いた。 「おい君、何をそう悩んでいる。」 「いや悩んでいるわけではないと思う。」と云って私はこの友人に少し聞いてみた。 「君は女に対して美しいと思ったときにそれが恋であるか否か自分で判断をできるかい。」と云うと、彼は驚いて私を見て少し考えたように「一目惚れのことかい。」と云い、 「俺に聞くものじゃないな。そんなこと知るわけがない。ただ、知っていることは道楽者や快楽主義らはそういった観点で単純に恋愛を自覚するはずさ。君はそういった連中とは違って繊細だから何に悩んでいるか予想はつくがね。どうせよくは知らない女に対する恋に肯じないだけだろう。確かに己の想像に相手を思う方が事実に苛まれる方がよほど酷であるね。まったくこれほどにも人は愚劣なのだ、正直者は恋愛に背徳し、嘘つきものは真の愛を感じないのだよ。」と皮肉に云うと、しかし私は全く同じ事を考えていた「僕はそうなることが怖い。ならばただ憧れ続けている方が幾分ましであろう。」と云い話はそれきりになった。だが私はあの黒髪の女のことを未だ考えていた。互いに引き会えない精神であったならば、一人相撲をしていた自分に倦厭して無駄な時間であったと後悔し臥すだけだ。  その日、夕刻に見えるはずの赤い日は灰色の雲に覆われたままだった。私は掃除が当番のため今日は遅れるなと覚悟した。雑巾を取り出し水に浸して窓から外を見てみると雨水が窓を真っすぐにはっていた。よかった、強くはない。秋雨である。濡らした雑巾で机や窓を拭いてさっさと終わらせようと努めたが、もう既に六時を超えていた。掃除をやっと終えて雑巾を洗いなおして鞄を取り出し、下駄箱まで下りた。手が冷たい。この雨の降る中雑巾を水に浸して洗うからだ。靴を履き替えようとすると私は「あ」、と口の中で呟いた。あの女が玄関口に立って暗い雨の中ずっと遠くを見ていた。その姿がまるで恋人を何年も待っている様で私は見惚れた。が、彼女は私に気付き私は咄嗟に目を逸らし、急いで誤魔化そうと努めた。どんな顔をしていたのか見当のつかないものの私は顔を伏せながら先程の顔を思い出していた。傘を開きその場を去ろうとしたが、私は振り返り彼女に向って、もごついてやはり目を逸らしながら「家まで送りましょう。」と云った。ろくに女と口を利かない私が真摯な態度を以て接するわきまえなど当然ないのである。だからむしろ懇願であった。彼女は驚いた顔でしばらくへんじをしないでいたが「ありがとう。お願いするわ。」と云い、私は初めてこの女の声を聞いた。その澄んだ心地よさよ。全ての者を虜にしかねない美しさに、尚その優しい声で支配しかねないと思わないわけにはゆかなかった。私は傘を前に突き出し彼女の入れるようにした。 「ではお入りください。」 「ええ。」 「どちらにお家が。」 「東区の奥に。」 「遠いですね。」 このとき私はどれほど喜んだか。話題が終いに及ぶと、私は彼女の方を一瞥した。彼女は私とそう変わらない背丈であったことをこの時初めて知った。雨はまだ降り続き、私達の歩く道も続いた。このまま心地のよいまま歩き続けていたい。僥倖であろうか、いや偶然ではなかろう。しかしこの雨を降らした給たどこぞの神に感謝す、と思わないわけにはゆかなかった。  畦を通り東区の奥まで来た。畑と田が広がっていた。田園である。雨のせいもあってかそれともここの人柄なのか、誰一人見当たらなかった。民家が点々と建っているなかひとつの茅舎を見た。彼女はその茅舎の戸口に立つと振り向き微笑んで「ありがとう。ほんとうに助かったわ。」と云って名を伝えてくれた。  九月の雨の中、私は彼女と少なからず接点を作りだした、と大喜びして走り帰った。かと思うと私はきっと恋をしているのだと思い、少し怖くなった。だがどうしてか自然と私達は互いを分かり合えると気がしていた。きっと上手くいく、と。ああ私は恋をしているのだ!美しい恋を!  それから土曜日日曜日を挟んで私は作品にとりかかった。私は部屋にこもり原稿をとって巻いたり、辞書を取り出したりしていた。この作品自体私は誰かに読んでもらおうという気はなかった。唯一、あの黒髪の女を除いては。本来そのための作品であるのかもしれないと今私は自覚した。原稿用紙に綴られる文字はなにも難しく語らぬとも、筆がひとりでに動いていた、しかし私の心酔した恋に紡がれた謙虚にも自覚した虚心に常に繋がっていた。 “至純の恋の裡に私の疲憊した生に君という没薬を以て神秘を見る“ 私は部屋の窓を開けるとあたりはもう暗くなっていた。釣瓶落としのせいかと思ったが、どうやら九時であった。母に夜食を頼もう、腹を空かしてしまった。椅子から立ち上がり私は伸びると、開けた窓を通して澄んだ秋風を聴いた。気持ちのいい風だったから私は、腹が空いた事も忘れ窓に寄り添い秋の風景に見惚れた。公孫樹の下で松虫が鳴き、鈴虫がまた別の木の下で鳴いているのが聞こえる。良夜は隣家の縁側に吊るされた秋蚊帳を見せ、学校からの帰路の畦道に咲く曼殊沙華までみせた。その月明かりに照らされる数多の自然よ。  それから翌朝の月曜日には、制服を着て晴れた空の下、私はどこかの民謡を口の中で歌い歩いていた。そして私は思わずにいられなかった。ああ、きっと私だけであろう!きっと私だけがこれほどにも月曜日を待ち望み、期待に煽がれた虚心で満たされる気分を感じるのは!  学校にて「前から続いていた作品はどうなった。」と友人が、授業が終わると尋ねた。 「前の作品はなしだよ。途中までしか書いていなかったし、雑な構成でなんとも稚拙な文章であったからね。」と云うと彼はため息をついて「またかい。」と云った。たいそう呆れていたものだから私は彼に告げた。 「けどね、また新しく書き始めた。今度のはきっと素晴らしくなりそうなんだ。僕はいままであまり思わなかったことだが、本を書くと云うのはね、君、実に素晴らしいものだよ。己の満たす赫々とした喜びをひたすらに綴れるのだ。それは喜びでなくとも己の貧婁が煽いだ苦しみであっても同じなのだよ。託す信頼の相手ならば尚、己の経験を以て綴ることは当然である。己の経験以外に綴られた文章には肯じの眼ではなく懐疑の眼で素通り去るだけなのだよ。」と私はまるでどこぞの講師のまねごとのように語ると彼は、 「よほどの喜びを得たのだろうね。するとその本は今の君が経験したことになるのだろう。それはなんだい。ひょっとしてこの前の女事かい。だとしたら恋愛至上主義の一人になっちまったか。」と笑いながら冷やかして云ったものだから 「違うね。ただつい最近秋の美しさに感化されただけだ。」と私は本心の悟られぬよう誤魔化した。  午後の授業、私は持ってきた原稿用紙を取り出し、教科書で隠しながら執筆したものだから老いぼれた教師の話はおろか黒板に何が書かれていたのか全く覚えていなかった。いつしか、教室に同年輩の騒ぎ声で賑わうと私はもう夕刻かと、知った。教室の窓を見やると西日が樫の葉からきらりと射した。学生たちは足早に教室を出て行ったが、私はしばらく残り執筆しようと思った。が、少し疲れたので、休憩にしようとして立ち上がりこの二階の教室から町を見渡すと西日に輝く雑木紅葉に見惚れた。あすこで鵙がとまっている。ゆるい秋風に公孫樹の葉が運ばれている。私はきっとその光景に随分見惚れていたのだろう。暗くなっていた事に漸く私は気付いた。しまったと急いで振り返り原稿用紙に向かおうとすると私はさらに驚いた。あの黒髪の女が私の原稿用紙を読んでいたのだった。この女は一体何を、とその時「あなたが書いたのね、この続きは、」と口元に微笑を浮かべて聞いた。「ありますよ。」と答え、必死に平常を装うが目がちらつく。前にも同じことがあったと自信に憤りを感じた。彼女はも一度文面に目を戻したが遠くを見ているように見えた。 「勝手に読んでしまってごめんなさい。でも私すごくあなたが書いているものに興味があってよ。」と急いで云った。 「かまいやしませんよ。むしろあなたに読んでもらうと嬉しく思いますよ。」と私は相変わらずもごついて返した。しかし顛末を語らない作品をこうあっさり読んでしまわれると落胆せざるをえなかった。きっとあの友人は笑っちまうのだろうな。 「あなた将来は作家に、」 「ええ。そう望んでいるけども、どうも僕やっぱり稚拙な文しか書けず、程遠いものですよ。」と笑って云ったら彼女は真剣な顔つきで、 「そんなことはないわよ。だってこんなにもあなたの感情を映しているのですもの。素晴らしいと思うわ。」と云い私はまさか彼女の口から褒めの言葉を授かるとは思っていなかったら、あまりに幸福であった。しかし私はいつか彼女にさんぎょうされるべき作家を胸の内に秘めていた。だが、やはり私の思い描く彼女とはかけ離れた存在を蓋しくもしってしまったら、と思うと恐ろしくなったが、あの雨の夜に私はきっと分かり合えると思ったことを思い出した。そこで私は思い切って、 「僕は、僕はいつかあなたに賛美されるべき作家になります。だから僕の顛末を語らない作品を見てはいけません。どうか終いになって初めて手にとって欲しい。塵芥だと云ってほふしても構わない。どうか僕の書ききった作品を読んで下さい。」と伏せていた目をあげて必死に彼女の目を見て云った。 「ええ。ぜひ読ませていただくわ」と白い肌がみるみるうちに赤くなっていきながら微笑んで答え、私はその顔が可憐に思いそれを文に表すことはあまりに酷であった。  すっかり夜になってしまい、あの後、私は原稿用紙に取りかからず二人で帰路に着いた。私達は昨日に続く良夜に見守られながら他愛ないことを喋っていた。彼女はよく喋りよく笑う快活な人であったから、話はよく続いたし、たとえ止まっても話しかける機会を惜しむことも無かった。時折風が吹いて木々の葉を揺らし、それと一緒になって彼女の黒髪も泳いだ。月に照らされてその黒さを知り、その肌の白さを確認した。途中、畦に咲いた曼殊沙華に季節を尋ねた。―今いつだい― ―まだ秋さ― ―いいや違うね。春だよ― “おお我が愛する君よ。これほどの幸福を神は我等に嘉した給か!君よ、沮喪の覆したこの溢れる活気の裡に至純の恋を醂すのだよ!我が愛する君よ。望めばあすこの月も星も取ってこよう!お前の望む全ての愛を!”
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