純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号114
『湖水』
Ⅰ
十五年ぶりに、僕は銀杏並木にいる。中学受験生の長男を模擬試験の会場、法学2号棟へ送り届けたところだった。
自然に足は思い出へと向かい、僕は高台に立っていた。
正面に見える豪華な新築ビルに、否応もなく時の流れは感じるものの、桜若葉の木蔭に吹く風も、真下のグラウンドでラグビーする学生たちの掛け声も、まるで変わっていない。
涼子は文学部、僕は経済学部だったけど、夏はマリンスポーツ、冬はスノボみたいなテニスサークルの仲間で、入学してからずっと、僕たちはいい友だちだった。
彼女は化粧ばえしたし、うまく流行も取り入れて雰囲気に花があったから、キャンパスでも目立っていた。いつも男たちをはべらせて、あちこちで別の男とデートする姿が目撃されたから、男性経験も豊富なんだろうみたいに噂するやつらもいたけど、涼子には、僕みたいないい友だちがたくさんいただけ、男と深い関係になったことはなかったはずだ。僕は彼女の一番の友だちだったから、そこは断言できる。
グラウンドを見晴らすこの高台、桜の木々の茂るころには、葉陰のベンチに座って、僕たちはよく語り合ったものだ。
法学部、医学部、理工学部、彼女のいい友だちは幅広かったけど、文学部には誰もいないようだった。
「文学部の男の子たちって、なんかダサいのよね。それに文学なんかすることにやましさを感じてないところがイヤ」
そんなことを言いながらも、彼女は本が好きだった。すぐに傾倒して、その話をしたがる。
「ザルツブルクの結晶作用って知ってるかしら」
僕は遊び呆けてたけど、本もけっこう読んでたから、それで気が合ってたのかもしれない。
「スタンダールだろ。恋に落ちると、枯れ枝に塩が結晶してダイアモンドにみえてくる」
「そんな気持ちになることってあるのかな。わたしはどこか醒めたところがあるから、恋なんて、できそうもないわ」
あのとき、風になびく髪は毛先がブロンドのように透けて、黒目がちな瞳は、さやかな光を湛えていた。そんなふうに見えたのは、僕の心で結晶作用が起きていたからかもしれない。けれども僕は、そんな思いに歯止めをかけて、いい友だちという役どころをずっと演じつづけていた、彼女を失うのが怖かったから。
大学四年の夏の終わり、僕たちはサークルの合宿で山中湖にいた。ある夜、僕は廊下で涼子とゆきあった。
彼女の目は潤むように濡れていて、いつもよりずっときれいだった、すぐにでも抱きしめたいくらいに。だけどそのとき、彼女がとっても遠い人に感じられて、僕は胸が苦しくなった。
合宿に来てからずっと、彼女によそよそしさのようなものが感じられて、僕は戸惑っていたのだった。
「こんばんは」
どこか行くの、と訊きたかったのに、それしか言えなかった。
「こんばんは」
彼女もそれしか言わなかった。
しばらく歩いて振り返ったとき、涼子は玄関から出ていくところだった。後ろ姿が目に入ったら、もう胸騒ぎに堪えきれなくなって、僕は思わず、涼子のあとを追いかけてしまったのだ。
彼女は駐車場のほうへ歩いていった。
そっとつけていくと、真っ赤なアウディのまえに、見覚えのある男が立っていた。
五月ごろ、ここのベンチで、そいつと談笑する涼子を見かけたことがある。なぜだろう、ちょっとジェラシーを感じた、彼女が男とふたりでいるのなんて、別に珍しいことでもなかったのに。
「美学の先輩で、卒論を助けてもらってるの」
次に会ったとき、涼子はそんなふうに説明してくれた。文学部の男の子たちって、なんかダサいのよね――彼女がそう言ってたことを思い出して、僕は、ほっと胸をなでおろしたのだった。
涼子は、その男のほうへ、すうっと引きよせられていった。
「笑わないでくれよ。姉貴の車なんだから」
「笑ったりしないわ」
「明日シカゴに発つ。今夜は、涼子のそばにいたいんだ」
彼女はうっとりして、すらっとした男を見上げていた。僕はそんなふたりを建物の陰からそっと盗み見していた。
男に肩を抱かれて、涼子は湖のほうへ歩いていった。僕は、ふたりのあとを密かについていった。
月もなく暗い湖畔には、小さな舟がぽつんとひとつ、ふたりはそこに腰かけて、夜空を仰いだ。満天に星がきらめいていた。
声は聞こえなかったけど、愛をささやいているのだろう、と僕は思った。ふたりの影が重なったとき、僕は来た道を駆けもどり、誰もいない林で力任せに幹を叩いた。涙をこらえながら叩いていた。
合宿から帰ってから、涼子とは会わなくなった。そればかりか、キャンパスですれちがうことさえなくなってしまったのに、僕といったら、彼女は部屋にこもって卒論を仕上げているのだろうくらいに思っていた。
だけど涼子は卒業式にも来なかった。厭な予感がして、僕はその夜、彼女に電話してみた。
「とっても会いたいの。来てくれる?」
そんなしなだれかかるような涼子の声を聞いたのは初めてだった。
「恋人がいるんだろ?」
「もう終わってるの」
涼子はワンルームマンションに住んでいて、インタホーンで呼びかけると、すぐにロックを解除してくれた。
部屋のドアは鍵があいていた。玄関で向かい合ったとき、彼女はいきなり僕の胸にもたれかかって、ぴったり身をすりよせてきた。危うげな涼子を抱きしめて、震える手で背なかのあたりを撫でながら、いい匂いがして、どぎまぎしてくるのを悟られないように、キスしようとしたとき……インタホーンが鳴った。
「どなたでしょうか」
向こうの声を聞きながら、涼子の顔は、みるみる死人のように蒼ざめていった。
「すぐおりてくから、待ってて」
インタホーンにそう告げてから、
「ちょっと話してくるわ。お茶でも飲んでて」
掠れ声で言いながら、冷蔵庫から出したボトルを僕に手渡し、コートをはおると、涼子は部屋を出ていった、
ままごとのように小さな銀色の座卓で、僕は午後の紅茶を飲みながら、彼女を待った。 二十分経っても、涼子は戻ってこない。それが僕には、気の遠くなるほど長い時間に思われた。
僕はやきもきして、エントランスまで下りてみた。
彼女は外の暗がりで地べたに座って、壁にもたれ.星もない夜空を見上げていた。
「鍵は持ってるのかな」
「ここにあるわ」
彼女はコートのポッケに手を入れて、鍵を取りだしてみせた。僕は自動ロックのドアを閉めて、涼子のところまで歩いていった。
泣いてはいないようだった。
「じゃあ、僕、帰るから」
「ゆっくりしていって」
「彼が来てたんだろ」
「いいの。もう行っちゃったから。終わったことなのよ」
その夜、やっと夢がかなって涼子を抱きながら、僕はとうとう、最後まで果たせずに終わってしまった、僕なんか別れた男の身代わりにすぎない、そんな思いが消し去れず、どうしようもなく切なくって。
翌日、涼子から電話があった。彼女からかけてきたのなんて初めてだった。僕たちは、この高台で待ち合わせた。
うららかな光を透かして、涼子はとってもきれいだった、出会ってから今までのいつの日よりも、そう、最高にきれいだった。だけど僕には、なんにもできなかった、彼女は今にも崩れ落ちそうで、僕に救いを求めていたのに。
「四月になって就職したら、忙しくなる。しばらく会えないかもしれない」
「そうよね、渡辺君商社だもの。就職したら、きっとわたしも忙しくなるわよね」
涼子は笑みを浮かべて、うわむいた。
「青い空がきれい。つぼみがふっくら膨らんでるわ。桜ももうじき咲きそうね。しばらくなんにも考えないで生きてみるわ」
今でも僕の胸には後ろめたい切なさみたいなものがわだかまってる。
結局僕らは恋人同士にはなれなかった。だけど涼子、僕らはずっと、気の合う友だちだったよな。あれからすぐ同僚と結婚したと風の噂に聞いたけど……。
君は幸せでいてくれるだろうか。
Ⅱ
すっごく人を好きになったことがあります。好きになりすぎて心が壊れちゃって、それで渡辺君にもひどいことしてしまって。
あんなふうに人を好きになってはいけなかったのに。
大学に入って三年間というもの、わたしは遊ぶことに夢中でした。なのに卒論に取りかかってから、一気にものを考えはじめて、自分というものがわからなくなっていったんです。
ニーチェなんて、テーマに選ぶべきではなかったのかもしれません。わたしよりもずっとずっと頭のいい人の思想、だから論破できない狂気のなかへ、わたしはしだいに取りこまれていったんだと思います。
智也は美学の一年先輩で、修論はニーチェに決めていて、わたしの卒論もニーチェだと知ると、いろいろアドバイスしてくれるようになりました。
若葉のころ、ふたりで高台のベンチに座っていました。
「ニーチェのどこが好きなのかな」
「そうねえ、メタファーの美しさかもしれない。超人とは沈む夕日である、あの比喩、すてきでしょう? どうしたらあんなふうに描けるのかしら」
「なんでもない小舟が夕日を浴びて黄金色に輝く、僕もあそこが一番好きかな。僕が哲学じゃなくて美学にきたのも、あのメタファーにぐっときたからかもしれない。単に思想を語るのではなく、美しく語りたい、そう思ってる」
そのとき渡辺君が通りかかって、あれっという顔をされたのを憶えています。わたしは智也に惹かれあうものを感じていましたから、渡辺君も、それに気づいたのかもしれません。
智也とわたしは、どんなものを美しいと感じるか、どんなことに感動するか、そこが怖いほど似ていて、わたしは、魂のつながりのような感覚に心を奪われはじめていたのです。
「漱石は『草枕』で、画家の視点から彼の美学を語りたかったんじゃないかな。大切なのは理性と感情のバランス、そうしてもうひとつは美への感受性みたいなものだってことが作品全体から伝わってくるような気がするな」
「わたしもそう思う。それに、なぜだかわからないけど、『草枕』にモネを感じるの。風に包まれながらパラソルをもつ女が立ってるイメージ」
智也はそこで、お月さまをおねだりされたパパみたいに、くすっと笑いました。
「わからなくもないけど、それはちょっと読みすぎかもしれないよ」
ともあれ草枕的に表現したら、わたしは知が働かなくなり、情に棹さして濁流に飲まれていったんだって、今ならはっきりわかります。
恋に落ちた理由は、もうひとつあります。智也は、目に見えるかたちで愛を表現してくれました。わたしは、心のどこかで、ドラマティックなものに憧れてたんだと思います。そうです。愚かなことに、わたしはヒロインになりたかったんです。
シカゴに渡る前夜、智也は山中湖まで会いにきてくれました。それがわたしにはどんなにうれしかったことでしょうか。
あの夜、わたしは小さな舟に寝そべって、智也の肩越しに、ベルベットのように黒い空、パベダイアのような星屑を仰ぎながら、アルタイルとベガ、ふたつの星に祈っていました。
遠くにいても魂はつながって、ずっと愛し合っていけますように。
ニーチェの小舟が黄金色に染まるみたいに、あの夜の舟は星の光に濡らされて、きっと銀色に輝いていたことでしょう。
智也がシカゴに留学してから、わたしたちはメールで語り合いました。彼は、ハンコック・センターから眺めた雄大な大地、メキシコ湾と大西洋に挟まれたセブンマイルスブリッジ、アメリカ大陸で目にした感動を知らせてくれました。わたしは、ありもしない日常の感動を描いたりして、元気でいるかのように装っていました。けれども、そのころ、わたしの心はどんどん壊れていったのです。
卒論で忙しいだろうと教授たちも大目にみてくれますから、四年生は大学に行かなくても、それはそれですんでしまいます。わたしは、ワンルームに閉じこもって、ニーチェとにらめっこしながら、ずっと智也のことばかり考えていました。そのうちに、智也とツアラストラが交錯して、頭が混乱してきたのです。
それは、現実の智也とも、ニーチェともかかわりない、わたしだけの物語の世界、空想というよりも妄想でした。その物語は日増しに膨らんで、わたしの心を蝕んでいきました。
彼のことが好きで好きでたまらなくなって、どうしても会いたくて、ひとりでは生きていけないと思いつめた気持ちが苦しくて。いつのまにか、わたしの心は真っ暗になっていました。外からの光がすっかり失われていたことに、わたしは気づくことができませんでした。
冬の終わる頃、わたしはとうとう、読むにたえないメールを智也に送ってしまいました。物語に生きるわたししかいなくなっていたのです。現実を生きてる自分はどこにもいなくて、みせかけの現実を演じることさえ、もうできなくなっていたのかもしれません。
翌朝、冷静になって読み返してみました。
……男に関わればかかわるほど女は不幸になるって、何かの本で読んだけど、あれはほんとうね……もう待てない。玉の緒よ、絶えなば絶えねって、待てど暮らせど来ぬ人をって、あなたにわかる?……ラブ・イズ・ブラインド、ジャニス・イアンが胸に沁みる。あなた、死んでもいいですかって気分よ。わかる? このどん底の気持ち……わたしにニーチェなんてわからないって、最初から知ってたんでしょ。笑ってたものね。そうよ、全然わかんない。あれは男の哲学よ。女は超人を産み殖やせって? ああ、なんだって、それでもいいなんて思っちゃうんだろ。ほんと惨め。私が求めているのは超人なんかじゃない、メシアなのに……ヒドイ男ね。わかってきたのよ。あなたシナリオ書いたでしょ。空間的な距離なんて問題ではない、精神的な結びつきによって高め合う男と女みたいな……でもね、形而上の筋書きにつきあえるほど、わたしは高尚な女じゃないわ。疲れちゃったのよ。もう背伸びなんかできない……。
延々となじるように戯言を書きつらねて、ああ、なんと醜い手紙だったことでしょう。
宙に舞い散っていくビーズ玉の映像がスローモーションのように浮かびました。幼いころの切ない思い出。宝物にしていたブレスレット。紐が切れて、土の上に散らばってしまったビーズ。泣きながら拾ったのに、どうしても集めきれなくて……。
それきりメールのやりとりは途絶えてしまいました。
わたしはうちひしがれたまま、もう一歩たりとも動けなくなっていました。だから、卒業式にも行けずにいた日、渡辺君の声を聞いたら、よりかからずにはいられませんでした。
けれど、なんということでしょう、ちょうどその夜に、智也が帰ってきたんです。わたしは、渡辺君には部屋で待ってもらって、智也とは、エントランスの外で話すことにしました。
わたしの裏切りに気づいているのでしょう、智也は、戸惑ったような目をして、わたしを待っていました。
「ずっと智也を待ってたの。でも、待ってるのがつらくって」
今日帰ってくると知ってさえいたら……。
「僕はね、涼子のこと、とても大切に思ってたんだ」
智也の声を聞きながら、わたしは、妄想から醒めていきました。智也はずっと智也だったのに、わたしには智也がみえなくなって、自分というものさえ見失っていたのです。わたしたちの愛に悪夢のような物語を重ねて、暗い情念にとり憑かれていただけ、ああ、なんて愚かだったんでしょう。
「別の人がいるんだろ。幸せになれるといいね」
心のなかには、あなたしかいないのに。星屑のきらめく夜空が目に浮かんで、智也の胸にすがりつきたくなりました。
「あなたが好きなの」
彼は、静かに首を振りました。今さら謝っても、許してくれたとしても、もう愛してはもらえない、それがわかって、とっても悲しくなりました。
智也は振り返りもしないで、立ち去っていきます。
わたしは追いかけました。
髪はあおられ、耳もとで風がうなっています。葉のすれあう幽かな音が大きなうねりに巻きこまれて、すすり泣くように、魂を鎮めるように、雑木林の闇からこだましていました。走っても走っても追いつけなくて、いつしか、彼の影さえ見えなくなって、それでもわたしは、彼に追いすがって、どこまでも、どこまでも、駆けていきました。
終にたおれてうつ伏せたとき、わたしの目にみえたもの、それは、深くふかく沈んでいきたくなるくらいに、黒いくろい湖水でした。
幻が消えてみると、わたしは、外壁にもたれて座りこみ、真っ暗な空を見上げていました。
水辺に倒れていたのは、わたしの紡ぎだした物語の女、それとも、わたしの魂でしょうか。今も胸が疼いてくるんです。どこへ消えたのか、ゆくえの知れないわたしが、ふっと姿を現わしそうに。