純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号112 『花かづらの児』 「みなさまがた、お仕置でございます。しばらくのあいだ、こちらで謹慎あそばせ!」  老女官はきっぱりと、しかし笑いを含んだ口もとで申し渡した。すまし顔の宮人たちが窓と扉を次々に閉めてゆく。十何名の若者は宮中のとある殿舎に閉じ込められた。  春も近いある昼下がり、宮中でにわかに時ならぬ雷鳴が轟いたのが始まりだった。  そういう場合、若い内舎人★うどねり★は直ちに内親王や幼い皇族を近衛する習わしがある。しかし警護に駆けつけた者はひとりもいなかった。内舎人という内舎人が宮殿から消えていた。全員示し合わせてこっそり宮廷を抜け出して春日野に集い、打毬の試合の真っ最中だったのである。  あわてて帰って来たずぶ濡れの騎馬集団を迎えたのは、あきれはてたような顔、顔、顔だった。この馬鹿者どものなかにわが息子を発見した武人佐伯の某は、カンカンに怒って厳しき処分を申し出たものだ。結局のところ若者達は、お仕置として授刀★たちはき★寮にしばらくのあいだ謹慎することを命じられたのである。 「当面は外出禁止……。あああ、退屈だなあ……」 「いや、僕はそうでもないよ。歌を作るさ」ひとりの青年が油火のかたわらに腰かけ、筆を取り出した。 「ほら、今日あの野で愛らしい乙女たちが若菜摘みに来て、春菜を煮ていたろう。僕達の試合を熱心に見物していた。花かづらで髪を結いあげた可愛い児がいたんだ。歌をこしらえて、機会があれば贈ってやろう。あの児、どこの家の子かな。また春日野で会えるかなあ」  他の者も彼にならっておとなしく座り出した。 「よし、みなで本日の冒険と情けない結末を、長歌に仕立ててやろうじゃないか。だれか、筆具を持ってる者は? ああ、その君★くん★、紙はここだ。歌を記録してくれたまえ」  かくして内舎人たちの謹慎歌会が始まった。万葉集に残る傑作も生まれたようであるが、ここに記すのはそのことではない。かの菜摘乙女のことである。  若者は春が爛★た★け始める頃、春日野で再び少女にめぐり会った。  (あの子じゃないかな?……)  近づいて見ると、記憶にあるよりもっと幼い感じだった。髪は伸ばし始めたばかり。結い上げるには髪が短かすぎるので蔓★つる★で結わえつけ、嫁菜の花を飾っている。 「あの、君さ、春の初めに雷が鳴って激しい雨が降り出した時、ここに来てなかった?」  いきなり若者に声をかけられ、少女は驚いて顔を上げた。若者を見るなり仲間の少女たちと顔を見合わせ、くすくす笑い出した。  ひとことも口をきかず、さりとて異性をきっぱり拒絶するのでもなく、ただくすくす、くすくす笑う女の子には、たいていの若者はうんざりしてしまう。この若者もうんざりした。仲間の少女たちはうつむいて野草を採りながらも、息を詰めてなりゆきを見守っている。少女たちが発する強烈な好奇心に、若者は殺されるんじゃないかと思った。  話すことをあきらめかけた時、笑いで息をつまらせながら、やっと少女が答えた。 「それ、あたしじゃないわ! あたしの姉さんじゃないかしら。いっぺんびしょぬれになって菜摘みから戻って来たことがあったもの」 「君の姉さん、ここにいるの?」  少女たちはいっせいに少し離れた場所を指さした。  こちらの子よりもっと年かさの少女が籠を持ちひとり春菜を摘んでいる。抜けるような色白でふっくらした体つき。すみれの花を髪にかざしていた。ああ、そうだ、この児だった。  近づいた若者を少女はいぶかしそうに見た。 「あのー、前にここで雷が鳴った時、ひょっとして君いたよね? みんなで若菜を煮ていただろう?」  若者をながめ、少女はおっとりとしばらく考え込んだ。 「……ああ、あの時打毬をしていた方?」少女の表情がやわらかく変化した。 「雷が遠くで鳴り始めたら、皆さん試合を中止して、大あわてで帰ってしまわれたわね。あのあと、いっぺんにどしゃ降りになったのよ」 「僕たちも途中でやられたよ。宮ではそれよりもっとひどいものが待ちうけてた。任務放棄ってことで謹慎くらっちゃった」 「あたしたち、その話聞いたわ! あたりまえじゃない、さぼったりなんかして」  少女は細長い袖つきのたもとを顔にあて、身をもむようにして笑った。  若者は少女のかたわらに座りこんだ。 「ね、なに摘んでるの? こないだみたいに春菜を煮て食べるのかな?」 「ううん、今日は妹たちと来たから。夕べのおぜんに出すだけ摘むの。でも、あの子たちはおしゃべりしに来ただけのようね」年上の少女は女の子たちに呼びかけた。 「ちょっと、ちょっと、あんたたち。連れてってと言うからあたし菜摘に来たのよ。口ばかり動かしていないで、少しは手を動かしなさい!」  妹たちに自分と若者が注目されているので、照れ隠しに叱ったのかもしれない。 「嫁菜だったら、確か向こうにたくさん生えてたよ。行ってみないか? 君さえよければ僕も手伝うよ」 「今日は仕事を逃げ出して来たんじゃないのね?」少女はひと突きくれて笑った。 「もうこりた。今日は昼までの勤務だよ」  春日野には暖かくて、あちこちに亡霊の影のような陽炎が立ちのぼっていた。ふたりで野草を摘みながら、互いのことをぽつりぽつりと話し始めた。ふたりとも父は役人であることがわかった。少女の父は左京職に、若者の父は宮内省の木工寮に勤めていた。 「あたし、内舎人★うどねり★の人と初めてお話したわ。みんな若さまばっかりだと思ってたのよ」 「若さまもいるけどね、僕みたいなのも勤めてるよ。あちらも同僚には偉らぶった態度とらないさ。話は遠慮なくできるけど、まあ今だけだってお互い心得てるよ。ところでさ、今度ここで踏歌やるだろ? その時君も来る?」 「だめ、母さんが許してくれないわ」  少女はため息をついて、がっくりとうつむいた。花かづらのすみれがそのとおりと首を振った。 「うちの親ってすごくうるさいの。あたしがどこへ行くにも、誰かと一緒でないと出してくれないのよ」  少女はぷくっと頬を丸くした。ふくれた顔も可憐だった。 「僕、池辺の刀麻呂★とまろ★ていうんだ」別れ際に若者は少女に自分の名前を告げた。一種の求愛行為である。 「あたしは……」少女はもじもじした。恋人でもないのに今日初めて会った人に名前を教えるのは、あまりにもはすっぱ過ぎるとためらっているのだ。 「ああ、いいよ、名前教えてくれるの今でなくて」若者はあわてて言った。 「今度また会ってくれたらね! また会えるよね?」  若者は最初、少女の可愛らしさに魅かれたが、別れる時には少し本人のことがわかり始めていた。ふたりは五日後の今じぶんに、またこの野で会うことを約束した。  次に会った時、若者は少女にこのあいだ恥ずかしくて渡しそびれた歌を捧げた。その歌を見たのは少女だけなので、ここに紹介することはできない。たいしたものではなかっただろう。しかし贈った相手にはたいそう喜ばれた。少女はこういうことに慣れていないので、若者はその場で返し歌を詠んではもらえなかった。ただし、いね★伊祢★という自分の名を打ち明けてくれ、次に会った時には少女が夜更かしして作りあげた歌をもらったので、若者は有頂天になった。  ある日の逢びきは少女の家のすぐ近くだった。若者はゆっくりした恋の進展にじりじりし始めていた。少女がそうそうひとりでふらりと出歩くわけにもいかないのだ。少女の家は、若者の家のようにしゃれた苑★その★こそなかったが、田舎の家をそのまま持ってきました、といった感じの好ましい造りで、鶏が放し飼いになっていた。若者は幼い頃までいた母の里を思い出して懐かしかった。  ここで会う約束だった合歓★ねむ★の木には、絹糸のような赤い合歓の花が扇を広げたように咲き、ふわふわと風に揺れて、優しい香りとともに午後のまどろみを誘っていた。 「ばあっ!」いきなり、合歓の花のあいだから隠れていた少女が顔をのぞかせた。黒い大きな瞳のすぐ上に、合歓の花びらが揺れている。 「家の苑に桜桃の実がたくさん生ったんだ」  若者は手にぶら下げていた小籠を見せた。ふたりは木のもとにしゃがみこんで寄りそった。 「あたしね、しばらく家を離れるの」籠を見つめながら、少女がぽつんと言った。 「えっ!」驚いて若者がいきなり膝をついたので、小籠から小さな丸い紅玉のような桜桃が転げ落ちてそこらじゅうに散らばった。ふたりはあわてて地面にはいつくばって桜桃を拾い始めた。  少女は、桜桃を薄桃色の指先で小籠に入れながら、 「摂津職太夫★せっつしきのかみ★が病気のため辞官なさったでしょう? 新しい太夫がやっと決まって、父さんがその随行に加えられたの。急なことなので家中大騒ぎよ。家族づれでもかまわないんだけど、母さんは、ほら、家政があるからついていけないの。でも父さんを難波★なにわ★にひとりでやらせたくないって言いはって、叔母さんとあたしがついて行って身の周りを調えることになったの。父さんの生活が落ち着き次第、あたしだけは帰って来るんだけど……」 「いつ頃まで行ってるの?」 「それはまだはっきりしないわ。今、家ではごったがえしていてね、あたしがいつ頃戻って来るかどころじゃないのよ」  若者はいきなりの別れ話にことばも出なかった。 「いねや、いね」女の声が少女を呼んだ。 「いけない、母さんだ」少女が飛び上がった。 「一度折を見て、くわしいことを報せるわ。どうやってことづけたらいい?」口早に告げた。 「僕あてか、それが難しいならうちで働いているトリって子あてに知らせてくれ。僕も難波に会いに行くよ」 「ほんとう? 来てくれる?」少女はぱっと顔を明るくした。 「いねや、どこにいるの?」少女を呼ぶ声が大きくなった。 「はあいい。すぐ行きます」  少女は答えて、若者に渡された小籠をかかえて小走りにかけ出した。最後に生垣の向こうから、花かづらの愛らしい顔で振り返って家の中に消えた。  若者は明け方に家を出て丹比★たじひ★の道を馬で越えた。難波市★なにわのいち★で小一時間待った。少女は眼のさめるような濃い桃色の領布★ひれ★をまとい、緊張した顔でやって来た。はるはる奈良からたずねたトリに、若者が今日難波京に来ることを聞いていたのだ。久しぶりにたがいの顔を見たとたん、安堵のあまりぼんやりしてしまった。ふたりは人で行きかう市の往来を抜け出た。原に出て草香江★くさかえ★を望むところに座り、あまり話をせずにただ身を寄せ合っていた。たがいの暖かい身体を感じるだけで満足だった。  東にはやわらかな緑の屏風のように草香の連山(生駒山脈)が続き、その前に草香江が水をたたえていた。西には澄んだ青い海に幾つもの島じまが浮かび、白い葦鶴が群れて飛びかう。はるか遠くにある武庫浦は、澄みきった大気のなかで案外近くに見えて、幾つもの外国船らしい大船が泊まりしているのがわかった。    少女は桜桃が入っていた籠を膝にのせた。 「母さん、この籠をあやしんでるのよ。あたし、友達にもらったって言いはってるの」  中から男物の帯を取り出す。 「あなたに作ったの。おばさんは父さんのだと思いこんでるわ」  少女は桃色の領布★ひれ★を身体に引き寄せた。 「この領布、朝顔の絞り汁で染めたの。一日であせちゃうわ。でもかまわない、あたし今日のために染めたんだわ」  若者は一枚の紙を恋人に押しつけた。何首かの歌がていねいに書きつけてある。 「これ、君のことを詠んだんだ。僕の気持ちだよ」  少女が飛びついて読もうとすると、あわててさえぎった。 「ああ、帰ってからゆっくり読んでくれよ。ここじゃ恥ずかしいよ。あんまりうまくできてないんだ」  難波大道を南に下りながら、若者は何度も馬を巡らして振り返った。少女の振る袖は遠くになってからも不思議なくらいはっきり見えた。逢引きは楽しかったが、別れの時、恋人たちはその何倍ものつらさを味わった。家に帰って少女は家人にたくさんの嘘をつかねばならないだろう。結婚以外に、ふたりが落ち着く先はないのだった。 「それで、どこの家の息女だって?」父がたずねた。 「門野郎女★かどののいらつめ★です。名はいね」若者が答えた。 「長女か? う~ん。長女の婿には期待をかけてしまう親がいるからな。うちみたいな鳴かず飛ばずの家じゃ、うんというかどうかわからんが、ともかく、しかるべき人を介して申し出てみよう。ああ、おまえは当分のあいだ、その娘さんに会いに行かぬようにな」  文のやりとりだけは続いていた。とはいえ、まだ少年のトリを、難波まで何度も行かせるわけにはいかない。若者にとっては爪をかんで待つしかないつらい時期だった。  待つあいだに、若者の身にも転機が訪れていた。  ひと月すぎたある日、父が笑顔で若者を呼んだ。 「門野の娘さん、ちかぢかこちらに戻ってくるそうだ。おまえが直接申し込みなさい。ご家族は娘さんがひそかに誰かとつき合っていることにうすうす気づいておって、心配していた矢先だったそうだ。うちからきちんと申し込みがあって安心したらしいよ。どうも、あちらさまに否★いな★やはないようだね」  春日野で再び若者は少女と会った。  若者が遠くから認めて近づいてゆくと、少女は母親らしき人にふたことみこと告げ、ひとりでゆっくりと歩き出した。若者は後を追った。  小さな丘の上で少女は待っていた。いつもは恋人を見つけるなりてらいのない笑顔を見せるのに、今日はつんと澄ました顔をしている。こんな態度の少女は初めて見るので、若者はとまどった。どう話しかけてよいかわからない。結婚の申し込みとはこんなものだろうか? 「……あの、何年間か地方で暮らすの、君は嫌かな?」  言ったとたん、若者は自分の舌を噛みたくなった。求愛するのに、よりによってこんなせりふを選ぶなんて。我ながら不細工な申し込みだ。へたくそな歌を詠むほうがましだった。なんで歌を作って来なかったんだろう。臨時の除目★じもく★を拝命してから、ずっと気がかりだったことなので、このどたん場にその思いが口から飛び出てしまったのだ。 「そうねえ、その役人さんにもよるわね」  少女は、若者のどんなことばに対しても、賢答で応じる決心をしたようだった。 「その人が恋人のことすごく愛していて、奥さんを大事にしなさるなら、嫌ではないでしょうね」 「ああ、それなら大丈夫だ。彼は奥さんを大切にするよ。奥さんだってそいつのこと思っていてくれるからね」 「役人さんは幸せなひとね!」  少女はしかつめらしく言い、身を乗り出した。 「それで、行き先はどこなの?」 「備前国だ」 「あら! もの成りのよい住みやすい国だって聞いてるわ。それじゃ、あたしもあなたと一緒に行くのよね?」  緊張が解けて、やわらかな笑顔が戻って来た少女の髪に、薄桃色のヒルガオの花が揺れた。  空には今年初めての入道雲が立ち上がっている。初夏の風は緑をふくんでさわやかだ。ふたりが寄り添う丘に、少女の母親が遠くからゆっくりと近づいて来て、ふたりにほほ笑みかけ、若者に向かって軽く会釈した。  この物語の冒頭部分は、万葉集巻六、九四八番の長歌で歌われている、神亀四年(西暦七二七年)に起こった宮中の珍事件をもとに作りました。
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