純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号106 『それは挑発ではない』  4人だけしかいないデザイン会社の制作部、坂崎と桜井が一緒に食事に出掛けるので、私伊東良夫は自然と新人の熊谷直美と一緒に昼食に行くことになる。最初に話をしたときに二人ともジャズが好きだということがわかり、当たり前のように連れ立って昼食に出るようになった。  そのうちにレストランも飽きて、天気のいい日は弁当を買って、すぐ近くにある大きな公園で食べることが多くなった。芝生の上で並んで、話をしながら食べるのは嬉しいことだった。私は妻も子もいて、直美もそれを知っている。話があうので単に同僚から友達のようになっていった。 「私ね、ヨガをやってんのよ。教室ではなく本を見ながらだけどね」  直美がインド好きなのは聞いていた。二十歳の時、インドを旅したことは何度も聞いている。今22歳だから、2年前ということだ。  公園の開放的な気分と、春の穏やかな天気のせいか、直美がヨガのポーズをとる。私は軽い気持ちで見ていたのだが、私より10歳は若い女性がスカートではなくジーパンではあったが、すぐ目の前で胸をそらしたり足を組み替える姿を見るのは、刺激的ではあった。  それを抑えるように、私は同じポーズをとって見る。簡単なもの、簡単そうでうまくいかないのもあった。 「これを、うちでやってるの?」と私は聞いた。 「うん、お風呂入って寝る前にね」と直美はポーズをとりながら言った。  私はパジャマ姿で胸をそらしている様を想像してしまい、直美は俺を挑発しているのだろうかと思った。私は時計を見てそろそろ会社に戻る時間だったので立ち上がった。  仕事に戻ると、特に親しげにするわけでもなく直美は普通に行動している。私は気の回し過ぎかなと苦笑した。  そしてまた公園の芝生の上で昼食を食べ、直美はインド映画がかつての日活映画のように次々と制作され、大人気だという話を目を輝かして話した。  十分に食休みしてから直美はまたヨガのポーズをした。柔らかい日差しが当たり、直美の顔を輝かせている。やや浅黒い肌、整った目鼻、私はだんだんと直美がインド人に見えてきた。 「あ、ちょっと足首持って」と直美が言った。 「えっ、どうするの」  私は直美の足そして足首に目をやる。モデル並とはいえないがメリハリのある足だった。 「ちょっと上に上げて、そうそう、そこでそのまま持ってて」  直美が膝を伸ばして前に突きだした足首を掴んだまま、私は直美の顔を見る。真剣そうな顔をみて、これが挑発ではないだろうと感じた。だが、若い女性が足首とはいえ簡単に男に触らせるものだろうかと考える。私は男に見られていないのだろうかとさえ思ってしまう。  「ほんとうは一人で出来なくてはいけないんだけどね。腹筋が足りないからなあ」足を交替しながら直美が言った。  その言葉で自然と直美の腹部を見ることになる。そして太腿も。言葉による視線の誘導で、挑発しているのではないかと思ったが、女性は無意識にやってしまうものだろうかと考える。  公園から会社に戻る間も他愛ない話をしながら戻った。そしてごく普通に退社時間になるのだった。退社は各自仕事のきりの良いところで帰るので、直美とはたまにしか一緒に帰ることはなかった。  ある日、地下鉄の駅前で「伊東さん」と後ろから声をかけられた。 「あれっ、俺より先に会社出たよね」私は直美が近づいてくるのを見ながら言った。 「お茶を買ってたの。ほら会社で飲むのも美味しいけど、それより高いやつ」  直美は嬉しそうに言いながら、わざわざ袋から出して見せた。私はその笑顔にコツンと感じるものがあった。 「私ね、一駅分歩いてるんだ。運動になるしね」  直美が地下鉄へ下る階段を見ながら言った。私は階段に向かっていた体を直美のほうに向きなおして「じゃあ、俺も歩いてみようかな」直美の脇に並んで歩き出した。 「なんだか、ちょっと違う感じがするなあ」と私は言った。 「えっ、何が」歩きながら直美がちらっと私に視線を移した。 「昼休みに一緒に歩いている時と」私はちょっと間をおいてから「雰囲気が」と言った。 「ああ、スカートに履き替えたしね」直美はそう言って、スカートの裾をつまんで本の少し上にあげた。  私はまた、直美のことばで太ももをちらっと見せられてしまった。それは一瞬ではあったが、次に「大人っぽく見える?」と言って悪戯っぽく笑みを浮かべる直美は、仕事中よりずっと大人っぽくセクシーに見えた。 「うん、おとなおとな」私は軽い動揺を押し隠して冗談ぽく言い返す。 「ああ、ほんとはそう思ってないんでしょ」と直美は体を軽くぶつけてきた。  あれっ、俺たちそんな仲か?と一瞬思って直美を見る。直美はもう何事もなかったように歩いている。一応恋愛結婚している私でも、まだ女性心理がわからない。まあ、個人差があるといえばそれまでの話なのだが。しかし私の心の中でかすかに風が吹いている。  やがて繁華街に入ってパチンコ店からは騒音が流れ出している。どんどん陽が長く感じるころで、まだ明るかった。直美がゲームセンターの所で歩みが遅くなって中を覗いている。私も覗いて「見て行こう」と中に入ると直美もついてきた。  私は野球が好きなので、野球のゲームを始めた。直美も「あ、おもしろーい」と言いながらすぐそばに来た。何の匂いだろう、香水ではないような気がする。それは家庭を破滅させてもという強いものではなかったが、私はその匂いを好ましく思え、また直美に惹かれてゆく自分を感じた。  何度か一緒に歩いて帰ることになり、パチンコ店にも一緒に入った。自宅から通勤している直美は、パチンコ店に長時間居ることはなく、ほどほどに貯まったら景品替えて「もう帰るね」と言って出て行った。私はパチンコ店で、直美のことを思いながらそのまま続け、たいていの場合は負けたり、まあまあ対価の景品を持って帰るということになった。パチンコ店でいろいろと思いをめぐらせても、直美の気持ちが分からないことには変わりはなかった。  ゲームセンターの中で、直美が財布を取り出そうとしてハンドバッグを開き、そのまま落とした。途中で椅子にぶつかったせいか、ハンドバッグの中身をばらまいてしまった。あっと言ったまま、直美はすぐにそれを拾おうとはせず、私の顔を見た。私はハンドバッグを拾って直美に手渡した。そのあとのこまごましたものはプライバシーのこともあるので、そのままにしていた。  直美がやっと拾いはじめたが、まわりに人がいるので早く終わらせようと私も手伝う。そして私が拾おうとして手をかけた手に直美の手が重なった。柔らかい感触があって、くくっという直美の小さい笑い声。 「カルタ取りみたい!」 「笑っている場合か?」私も半分笑いながら言う。  バッグの中はぐじゃぐじゃであろうけれど、どうにかしまい終えた。 「私ってドジなのよねー」小さい声で直美は言ってハンドバッグを閉じた。 「もう出ようか」と私は直美の柔らかい手の感触がかすかに残るまま言った。単にそれだけのことでより親密になったような気分だった。  駅に向かって歩きながら直美は「伊東さん、将来どうするの?」と聞いてきた。私は一瞬自分と直美の将来のことかと思ってしまい、そんな仲ではないのに苦笑し、「将来って」と聞き返した。 「ずうっと今の会社にいるの?」 「うーん、独立ってことも考えてはいるが、すぐにはねえ」 「そうかあ、そうだよね。独身じゃないからね」  直美はいつもより静かで、そして歩くのも遅かった。私はそのせいかいろいろと考えてしまった。ちょっと前に触れた感触も頭から消えない。  すぐに駅に着いて、私と違う電車に乗る直美は「じゃあ、また明日」と言って改札口へ吸い込まれて行く。  私は、単なる同僚だよなと思い直し改札口に向かった。  何日か経って、直美と一緒にレストランで食事をしたあと、 「伊東さん、実は…」と言って間をおき「私ね、会社を辞めるの」と言った。 「えっ、どうして」と私が聞くと、 「ずうっと迷っていた人がいてね。私、あまり男の人のこと知らなかったし、でも伊東さんを見ているうちに結婚もいいかなあ、やっぱり結婚しようと決断したの」とやや伏せ目で言った。  私は咄嗟に言葉が出てこなかった。俺を見ていて? もしかしたら浮気心の実験? それでもどうにか「ああ、そうだったの、そんな人いたなんて知らなかったよ」と言った。それが少し落胆したように言ってしまったのに気づき、明るく「そう、おめでとう」と言った。  直美が顔をあげて私を見ながら「ありがとうございます。」と言った。それから「短い間だったけど、楽しかったあ」と言った。私はその顔に嘘ではないと感じたが、それでもどこか釈然としない気持ちが残った。  数日後、社長が新入社員を紹介した。そのあと、「熊谷直美さんは、結婚が決まり退社することになりました」と告げた。すぐに拍手があって、直美はかすかな笑顔を浮かべてからお辞儀をした。私は身体の中から暖かい風がすーっと抜けていくような気がして、少し寒さを感じた。 (了)
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