純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号105 『メイシック』  新緑のケヤキ並木には、朝の光が斜めに差していた。 「サンキュー」   助手席から降りていく夫の声は、まるで呼吸のようにしかきこえない。 「ママ、いってきまあす」 「いってらっしゃい」  人々はさりげなさそうに歩いている。パパとならんで、まあたらしい制服を着て、絵梨香も駅のほうへ向かっていく。絵梨香も、パパみたいに電車に乗って都心へ出ていくようになったのね。 「パパ、いってらっしゃい」  どこからか、絵梨香の声がきこえる気がする。  つい三月まで、徹がバス停へ向かうとき、絵梨香はいつも、わたしのとなりにいた、すぐそこにある小学校なら八時に出れば間に合うから。  すると、徹はうれしそうに笑って、そのときどきの絵梨香に、いろんな声をかけていた。だけど、たとえばなんて言ってたんだろう、ふたりの顔さえ、ぼんやりぼやけて、ひとつひとつの朝のことは、もう思い出せない。   そのくせ、もっと遠い日のことでも、くっきり目に浮かんでくる。 「お空みたいに青いひきだし、これがいいな」 「そんなの、すぐ飽きちゃうわよ」 「どれにしたって、そのうち小さくなっちゃうんだ。これに決めよう」 「ママ、そうしてもいい?」  わたしがうなずくと、絵梨香は目を輝かせて、このうえもないくらい晴れやかに、愛らしく笑ったのだった。 「パパ、ママ、ありがとう」  わたしは今、ひとりで信号待ちしている。明日も、あさっても、ケヤキの葉が色づいても、そうして、ふたたび若葉が芽吹いても、わたしは夫と娘を駅まで送ってくるだろう。それもいつか終わる日がくる。これからの歳月なんて、もっとずっとあっというまに過ぎてしまうかもしれない。季節は初夏で、時刻は朝で、ケヤキの緑はこんなにみずみずしいのに、わたしは、浮かない気分になってくる。メイシックみたいなものかしら。ふたりとも七時すぎまで帰宅しないだろう。暇はありあまるくらいある。  これから、わたしも都会にでてみようかしら。     わたしは、ハチ公まえからスクランブル交差点を渡っていった、化粧もちゃんとして、細かい水玉の黒いワンピースに、アンテプリマのワイヤーバッグとマンゴー色のサンダルで。  エポカのバーゲンで買った去年のよそゆき、夏の蓼科にもってったきり、腕をとおすチャンスもなくって、残念だからこれにした。でも、なんだか浮いている。高原のホテルなら、あのロビーでもレストランでも、そんな感じはしなかったのに、この街だと、浮いてしまうのはなぜだろうか。  とはいえ、わたしのことなど誰ひとりとして気にも留めないだろう。そんなことより、せっかくだから、久しぶりにシャインでコーヒーでも飲んでいこう。 ふと思いついて、センター街まで歩いてきたら、あのころ行きなれて、なじみ深い思いの残るビルからは、シャインなんか消えていて、フリフリのキャミソールやスパンコール入りのジーンズ、絵梨香なら欲しがりそうなものでいっぱいの雑然としたブティックになっていた。  ここはもう、わたしたちの街ではないのだった。  しかたなく、パルコと西武をぶらついてから駅のほうへもどり、スタバに入ることにした。  スタバでカフェラッテを飲みながら、わたしは、チェス盤みたいな白黒のチェック、シャインのフロアを思い浮かべていた。  初めて徹とデートしたとき、シャインで待ち合わせた。  二十分待って、もう待てないと席を立ったら、レジでばったり鉢合わせ、徹もチェックを手にしていた。  ふたり別々の席にいて、ふたりそれぞれ「遅い!」って頭にきてたなんて、フロアが広すぎたのか、死角になってたのか、今なら携帯があるから、考えられないことだけど。  「見切り時間、二十分?」って訊くと、  「絶妙だろ」  徹は、いたずらっぽい目をして、にこっと、わたしに笑いかけたのだった。  その日の夜、ペールな壁の水底みたいに蒼いバーで、わたしは、ほろ酔い気分になっていた。 「彼はいるの?」 「学生のころの人とね、終わったばっかりなの」  そううちあけたとき、わたしを見てる徹の目は、とってもあったかくて、もしもお兄さんでもいたらこんなかなあって、そんなふうにみえてきて、 「わたしって、独りでも平気って感じにみえるのかな。『君には君の神さまがついてるから、ほっといたって幸せになれる』って、別れぎわに言われたの」  つい、そんなことまで、話してしまった。 「ことばの意味なんか考えないほうがいい、身動きできなくなるだけだろ。さっさと忘れちゃえよ」  わたしたちは、宮益坂のさきにある広告代理店に勤めていた。ふたりそろって帰ったら、うまくいくかどうかもわからないうちから社内の噂になってしまう。 そうなるのは避けたかったから、それからも、まず、シャインで落ち合うようにした。  あのころ、毎日のように会って、どんなことを話してたんだろう。そうして会いつづけるうちに愛が芽生えていったのに、記憶のどこにも、なにも残っていないのは、いったいどうしてなんだろうか。  憶えてるのは、とびきり印象的なこと、しかも断片だけになっている。  学生のころからの恋に破れて、わたしは、男と寝るのなんてたいそうなことじゃないって、投げやりな考えに逃げたくなっていた、怖いのは好きになっちゃうことだって、ほとほと思い知らされたから。 「会いたいときに会って寝るだけ、そういう関係って気らくでいいわね」  初めてしたあと、安っぽいラブホのベッドでそう言うと、徹は、静かなため息をついた。 「そういうセリフ、似合う女もいるけどね、君が言ってもさまにならないな」  そして、クリスマスイブ、ホテルの最上階でディナーを終えて、となりのバーでソファにすわり、都心の夜景を眺めてた。ピアノの生演奏が流れてたけど、あの曲はなんだったろう。  「不思議なくらい、知子に惚れちゃってる。嫁さんになってほしい。いつまでも大切にするから」   蝋を埋めこんだクリスタルの燭台、ダイアカットの陰影が燃える炎で揺らめいて、徹の目は心なしか潤んでみえた。  わたしは駅のほうへ帰ろうと、スタバのまえで信号待ちしていた。ふっと左手に目を向けたら、徹が立っていた。ひとりじゃなかった。シンプルなシャツブラウスにベージュのパンツ、二十五、六だろうか、センスのいい女と連れ立っている。  こめかみの奥のほうが、うす黒い渦になって氷のように冷えていく。  ふたりは、時おり目を合わせながら、楽しげに語り合っている。冷静さを装って明るくことばを交わすなんて気持ちには、とってもなれない。わたしはとっさに、手近なビルへ走りこみ柱のうしろに隠れてしまった。  信号が青に変わり、徹は、彼女とならんで、わたしが潜んでることなんて気づきもしないで、道玄坂のほうへ歩いていく。  今からでもあいさつしようか、でも、わたしはすっかりうろたえていた。    知的な印象とはうらはらに、徹に笑いかける彼女の顔は匂いたつように輝いて、なんとも言えないくらいきれいだった。徹もにっこり見惚れている。  食い入るようにみつめるうちに、ふたりは、わたしの視界から遠ざかっていった。  吹きすさぶ黒い嵐に裡の内までさらされているような、この胸騒ぎはどこからくるんだろう。      その日は料理する気が起きなくて、東横の地下でお惣菜を買って済ませてしまった。彩りのいいオードブル風のサラダと生春巻きや揚げ物を皿に盛っただけ、そんな手抜きの食卓で、悶々とした思いを抱えながらも、わたしは平静を装って、徹と絵梨香のやりとりに耳を傾けていた。 「あさってから、絵梨香、林間学校なんだろ。楽しみだな」 「うん。でも、山登りするの、ちょっとイヤかも」 「五色沼でハイキングだろ、たいしたことないさ」 「いつ帰ってくるのかな」 「日曜の夜、東京駅解散なんだって」 「そうか、それまで寂しくなるな」  そこで、わたしも会話に入って、徹に話しかけた。 「集合も東京駅なのよ。絵梨香ひとりでいけるかしら」 「じゃあ、パパが送ってこう。木曜は、銀座に直行だから、ちょうどいいや」  絵梨香が部屋に引き揚げたあと、わたしの洗った皿を拭きながら、徹は、ちょっと照れたような笑いを浮かべた。 「沢井さんて女の子がいるんだけどね、大学の後輩なんだってさ」 「そう、会社の人?」 「いや、クライアントの宣伝部の子なんだ。今日、昼に接待したんだけど、恋に悩んでるらしいだ、そういうの、すっかり忘れちゃってるだろ。若いうちは、いろいろあるよな」  わたしは、頭から血が引いていくのを感じながら、黙々と皿を洗いつづけていた。     ベッドに入っても眠れなかった。  次の日も一日じゅう、ソファに沈みこんで、そのことばかり考えていた。  窓ごしに庭がみえる。住みはじめたころには、ひょろっとしてたハナミズキ、枝も少なくて葉もまばらだったのに、いつのまにか倍くらいの背丈になって、細かな枝先まで、数え切れない葉を茂らせている。 「不思議なくらい、知子に惚れちゃってる。嫁さんになってほしい。いつまでも大切にするから」――そのことばを信じて、生きてきた。でも知らないうちに、時効になってたんだとしたら。  今まで誰かに徹を奪われるなんて、考えてもみなかった。なのにどうしてだろう、彼女の存在が気になってならない。彼女にだけは盗られたくない、それもあるけど、それとも違う、そう、なんだか彼女には盗られてしまいそうで……。  絵梨香が林間学校へでかけた木曜の夜、ニュース番組やスポーツダイジェストをひとわたり見終えて、徹はテレビのスィッチを切った。そのタイミングを見計らって、わたしは、さりげなく彼女の話を投げかけてみた。 「沢井さんて人、失恋でもしたの?」 「そういうことでもなくてね、惚れてる男がいるらしいんだけど、話を聞いた感じだと、どうも、男には彼女と結婚する気なんかないみたいだったな」 「どうして、そんなこと、あなたに相談するのかしら」 「大学の先輩だってことで、話しやすいんだろ」 「そういう話、ふたりでして欲しくないわ」  徹は、わたしの視線をはねかえすように構えてくる。 「なに、言いだすんだよ」 「だって、あなたは、どう答えたらいいわけ、そんな男とは別れちゃえって言って、そのままにできるの?」  えって顔してから、徹は、さも驚いたように「妬いてるの?」って、こっちに問いかけてきた。 「今まで妬いたことなんかないだろ、どうしちゃったんだよ」  そうだったかもしれない、愛されてるって自信があったから。  わたしはもう、彼女みたいに輝くようには笑えない。女の美しさって、歳月とともに失われていくものだから。なのに、徹はどうだろう、眉間の皴まで味方につけて、青臭さが抜けたとき、男はぐっとすてきになる。 「おととい、渋谷に行って、彼女といるところ見ちゃったの。感じのいい人ね。シックで頭も切れそうなのに、笑顔がとってもきれいで……」  あんなふうに笑いかけたら、男は心を奪われる、媚びるつもりはないにしても、彼女だったら、それくらい知ってるはず……。そう感じたから、だからあのとき、わたしは動揺したのかもしれない。 「あなた、うれしそうだったじゃない」 「知子だって、もこみちみたいなイケメンだったら、うれしそうにするだろ。だから、どうってことでもない」 「そんなチャンスはないし、あったとしても、わたしにはもう、魅力なんかない。今ごろになって、別の女にふらふらするなんて、ひどいじゃない」  感情的になって声がうわずっていくのが、自分でもわかった。 「俺がいつ、ふらふらしたんだ? 俺は浮気なんかしてないぞ。こんなに女房をかわいがってる亭主がほかにいるか、誰にでも聞いてみろよ。お宅は週何回ですかって」 「そういう問題じゃないわ」 「じゃあ、どういう問題なんだ。」 「彼女とうれしそうにしてたってことよ」 「わかってるのか? 相手はクライアントなんだぞ」 「恋バナなんて、仕事じゃないでしょ? そこまで、相談に乗ることないじゃない。どうして、そんなに優しくするよ」 「俺は、おじいさんにも、おばあさんにも、子どもたちにも、誰にでも親切にしてる。それのどこが悪い?」 「でも、若くてきれいな女の子に頼られたら、どうなのかしらね。お皿拭きながら、彼女のこと思い出して、うっとりしてたじゃない」 「やましいことがあったら、知子に話すはずないだろ」 「じゃあ、自覚してないだけよ。愛してるって気づいてからじゃ、もう手遅れだわ」 「そう感じるのは、知子自身の心のもち方だよな」 「どういうこと?」 「若かったり、働いてたり、恋愛してたりする女への嫉妬だとか……」  そこでことばを切り、徹は、考えごとでもするような目をして、わたしの顔をみつめている。わたしは、つづくことばを待った。 「浮気したいのは、知子のほうだろ」  ぎくっとした、図星かもしれない。涙があふれそうになってくる。 「そうね、恋がしたい。でも、あなたしか見てないわ。だから、彼女に深入りしては厭」 「アホかよ。知子は、むかしっから、そういうとこあるもんな。現実を見ないで、どんどん空想膨らませちゃって、糸の切れた風船みたいに、天まで舞いあがっちゃうんだから。もっと、ほかに考えることがあるだろ? 暇すぎるんだよ」  そう言い捨てて、徹は外へ出て行ってしまった。  レモンイエローの風船を手にして、無邪気に笑う絵梨香、ドナルドダックとのツウショット、四歳のときの年賀状がふっと目に浮かんだ。  そのあとすぐ、絵梨香の手を放れて、とっさに追いかけた徹まで、昇っていく糸をつかみそこねて……。あの黄色い風船は宙にあがり、シンデレラ城のうえ、青い空のかなたへと、やがては消えていったのだった。  確かに、わたしは現実でないものばかり見ている。してほしいって感じはじめたのは、ここ数年のこと、ちょっと惚れなおしてる。だから、妬けるのかもしれない。  なんとも、惨めだった。いさかいに疲れはてて、わたしは寝室へあがり、ベッドにもぐりこんで眠ってしまった。    朝起きて、携帯を開けたら、徹からメールが入っていた。 〝眠ってるから、起こさないで行くよ。デスクトップにファイルがある。それをもって、この喧嘩は終わりにしたい〟  わたしはリビングに走って、パソコンを起動させた。そうして、待ち遠しい画面が立ち上がり、 「知子へ」  呼びかけてくるような、タイトルだけでも胸がじいんとするような、徹のファイルが映しだされた。  知子へ  このままじゃ、知子みたいにすやすや眠れそうもないから、生まれてはじめて、ラブレターってやつを書いてみることにした。知子に妬いてもらえるなんて、思ってもみなかったよ。それで、ちょっとうれしかったからかもしれないな。  わたしには、もう魅力なんかない? そんなこと考えるなよ。若くてきれいだったころの知子の姿は、僕の胸にしっかり刻まれている。今だって、なかなかのものだ。僕の惚れた女なんだから、もっと、自信をもてよ。  僕は、知子と、知子が生んでくれた絵梨香のために生涯を捧げるつもりだ。それは、僕の価値観、僕の生きざま、そして、知子への愛だと思ってる。それを信じるか、信じないかは、知子の問題だけどね。  ふたりで築いてきたもの、もっと言えば、今までふたりでひとつのものを背負ってきたんだ、そこを大切にしたい。僕は、そう思ってるんだけどな。   パークハイアットに電話して、今日の夜、最上階のレストラン、それにダブルの部屋も予約しとく。  夕方、電話するから、それまでに機嫌なおしとけよ。                               徹より    暗誦するくらい読み返してから、わたしは、庭のほうへ目を向けてみた。  ハナミズキの緑がみずみずしい。その枝から枝へ、オナガのつがいが飛びわたり、なごやかな囀りで呼び交わしている。  似たような明日がきて、初夏から真夏へ、そして秋から冬、春過ぎて、また夏がめぐりくることの幸せ、でも、ほんの少しずつ、幸せのかたちは変わり、ふと気づくと、まるで知らない姿になっている。  受け容れがたさに切なくなるのは、わたしのメイシック、どうしてこんなに弱いんだろう、風船のような心がどこかへ舞いあがりそうになる。  つなぎとめてくれて、ありがとう。わたしは、あなたを信じていたい、ずっとつながっていたいから。 ☆あとがき☆  一年以上前に、別サイトに掲載いたしました旧作でございます。  恥は晒さねばというお言葉に感銘を受けまして、こちらにも投稿させていただくことに致しました。
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