純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号030 『光とハヤル』  ハヤルは高くそびえる木々の森で、梢の隙間から落ちる薄緑色の日差しを見上げていた。  母親にお使いを頼まれた帰り道、この森で迷ってしまったのだ。  ハヤルはこのとき思い出していた。いつしか母が話していた「森の精」の話を。 ――ゲルクおばあさんのところへ行く途中、通る森があるでしょ?  ハヤルはだまってうなづく。ゲルクおばあさんはハヤルのお父さんのお母さんなのよ。そう教わったことがあった。ゲルクおばあさんのところへお使いに行ってきてちょうだいな。ハヤルはよく言われたものだ。  今日もゲルクおばあさんのところへお使いに行った帰りだった。 ――あそこの森にはね、妖精さんがいるのよ。 ――妖精さん? ――そう、白くて可愛らしい妖精さんよ。迷ったひとを見ては、木陰でくすくす笑っているの。でもね、悪い妖精さんではないのよ。手は差し伸べないけれど、そのひとがちゃんと帰れるように“光”を残してくれるの。  そのときのハヤルには母の言葉を咀嚼しきれなかった。ハヤルが首をかしげると、母はやさしく抱きしめてくれた。 ――さあ、もう夕食の時間よ。私の可愛いハヤル、今晩はなにを食べたいかしら?  高い枝にとまり、さえずっている鳥がいる。淡い黄色をした小さな鳥だ。ハヤルは切り株に座り、それを見上げていた。  ずっと上を向いていたものだから首が痛くなった。今度は視線を下に向けた。小さな花弁の桃色の花が森の涼しい風に揺らいでいる。ハヤルにはそれが、のんびりとくつろいでいるように見えた。日差しも当たり、土も湿っている。風も気持ちがいい。こんなところで大事に育まれたら、どんなに幸せだろう。  ハヤルは立ち上がり、辺りを見回した。  僕はどっちから来て、どっちへ帰るつもりでいたのだろうか。  とりあえず今向いている方向へ歩くことにした。まるで耕したように柔らかい土を、ハヤルは踏みしめながら懸命に歩いた。もうどれくらい歩いたか分からないほどに。  ふと、音がしたことにハヤルは気がついた。ぎし、ぎし、と何かが軋む音。 ハヤルは慎重に歩いた。出来るだけ物音をたてないように。 と、その音の正体はすぐに判明した。  なんとこんな森の深くにコテージのような建物があったのだ。そのコテージのテラスを白髪の老人がゆっくりと歩いている。そのたびに、ぎし、ぎし、と床は鳴く。  白髪の老人は徐に玄関のノブに手をかけると外開きの扉を開け、建物の中へ入っていった。  ハヤルはコテージの扉の前まで来ると、思い切ってドアをノックしてみた。自分でもなぜそんなことをしたのか分からずにいるまま、ハヤルは返事を待った。  しかし、声も物音もしない。誰かが扉の前へ近づいてくる音もしない。 ハヤルはそっと、扉を引いた。  建物の中はかなり背の高い書架が所狭しと並んでいる。そのすべてに、臙脂色をしたハードカバーの分厚い本が納められていた。背表紙には「人生の書」と書いてあり、そのひとつひとつに番号もふられていた。 「人生の書 856」 「人生の書 857」 「人生の書 858」  一体この「人生の書」はどれくらいあるのだろう。ハヤルはちょっと眩暈をおぼえた。あの老人はここにあるものをすべて読んだのだろうか。あそこまで老いても、僕には読みきれないほどの量だ。 と、部屋の奥で堅いものを床に落とすような音がした。  ハヤルが訝しげな面持ちで部屋の奥へと足を運んだ。部屋の埃っぽく重い空気を胸いっぱいに吸い込みながら。  部屋の奥には扉があった。まさかまた広い部屋があって、さらに本が並んでいるのではないだろうか。ハヤルは想像を膨らませながら扉を押し遣った。木製の古い扉は、きゅー、と奇妙な声をあげながら開く。  ハヤルの予想とは裏腹に、そこは狭い部屋であった。しかしここも本棚が部屋の両脇いっぱいに並んでいる。奥には縦に長い窓があり、その傍で白いカーテンが森の風にひらひらと踊っていた。  その窓の前には机が置かれ、椅子もある。その椅子に座っていた。さきほどの老人が。ちょうど床に落ちた万年筆を拾おうとしているところだった。  老人はハヤルに気づき、顔をあげた。近くで見ると優しそうな目をしていた。どうやら怪しい人ではないようだ。 「君は……?」  老人は包容力のあるどこか懐かしい声だった。 「あの、僕、迷っちゃって」  ハヤルはもじもじしながら言う。心臓の鼓動が速まるのが分かる。 「そうか……この森で迷ったんだね」 「はい」 「私の名前は、ジェアラといいます。ここで、人生の書を書いているんだよ」  先生のようにゆっくりとした口調で言う。 「あれを全部書いたんですか?」  ハヤルが驚いているのを見て、老人は愉快そうに笑った。 「私のお父さんやおじいちゃん、ひいおじいちゃん、みんな私とは別の人であり、同じ人でもある。だから、私がすべて書いたと言ってもいい……けれど、私は一番少ない量しか書けなかった。もう見ての通り、歳だ。よくて二年、それか三年生きて書けるか書けないか……」  老人は頭を書き、床の万年筆を拾い上げた。ずいぶんと使い古された万年筆だ。 「これは、私のひいおじいちゃんの代から使われていたものだよ。もうだいぶくたびれてしまっている、私みたいにね」  そう言うと老人は短く笑った。 「君は、本を読んだことがあるかい?」 「ないです。家ではずっとお父さんの畑を手伝っていました」  ハヤルは小さな声で答える。 「私も昔はそうだった。文字なんか書けなかった。読むことは出来たけどね。けど、ある日お父さんが私に言ったんだ。ジェアラ、本を書きなさい、ってね。私はお父さんから字を、そして文を学んだ」  老人は窓の外を遠い目をして眺めた。今日も晴れている。 「そういえば、迷ってたんだったよね。残念だけど、私は道を教えることはできない。もう何年間も森の外へ出たことがないんだ」  ハヤルは肩を落とす。早くお母さんのところに帰らなくてはいけない。午後からはお父さんの畑の手伝いもある。しかし、ここに居るとなんだか焦燥感がもみ消されてゆく感じがした。焦らなくてもいい。ここでひと休みしなさい。そう、老人の背中が言っている気がした。 「けれどね、ここの森には妖精さんが居るんだよ。白くてかわいい妖精さんがね。その妖精さんは、よく落し物をするんだ」 「落し物?」 「そう、“光”を落としてゆくんだ。君がそれをみつければ、お家に帰れるよ、絶対にね」  老人はにっこりと笑った。目尻に刻まれた皺が、より一層深くなる。温かい、優しい笑顔だ。  ハヤルには、“光”の意味が少しだけ分かったような気がした。
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