純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号021 『天使 A』  僕はここまでどうやって来たのだろうか?  たしか車でケーブルカー乗り場の近くまで行き、それから歩 いて乗車口へ、そしてケーブルカーの終点で降りてから、頂上 に伸びているハイキング用の小道を、ずーっと歩いてきたのだ。 もうどのくらい歩いたのだろうか? さっきまで眼下に見えて いた地方都市の街並も見えなくなった。  それは僕がハイキング道からそれて、道のない深い森の中に 入ったからだ。午前の太陽を浴びた五月初旬の新緑は美しく、 これでもかというほどの躍動感と生命に満ち溢れているのに、 僕にはそれも眼に入ってはいなかった。  ここには、好きで恋焦がれていた彼女と何回かハイキングに 来た事があった。奈々子と僕はもうすぐ結婚することになって いたのだ。  今日が何曜日なのかもわからなかったが、五月の連休の後だ からか、まったく人の気配がなく、ハイキング道でも人とすれ 違うこともなかった。  森の中にもう道はなかったが、狸や猪などが通るらしいケモ ノ道に行き当たることがあり、そこを歩くのは比較的楽だった。 ふと気がつくと、かなり先の山を降りたところに、ラピスラズ リのような濃い青藍色の沼らしい存在が眼に入った。そこに行 きたいと思った。その色は何年か前に飛行機でニューヨークに 行くときに通過した、カナダの湖沼地帯で見たものに似ていた。 飛行機の窓から観た眼下には、たくさんの沼や湖があり皆印象 的な青緑や藍色をしていた。どれも飛行機から見えるだけで、 地上で実際にその沼にたどり着いた人はいないのかもしれない。 いま僕が観ている深い藍色の沼だって、まだ誰もたどり着いた 人はいないのだ。僕がそこに着いたならば、僕はただ忽然と消 えてしまえばいいのだ。たぶん、あの深い藍色の沼ならば、僕 の痕跡をこの世界から完全に消滅させることができる。  そこに向かって深い森の中を進んでいくと、少し広い小道に 出た。両脇から高木の枝が延びていて薄暗いが地面は踏みしめ られていて歩きやすい。観ると色とりどりのキノコや光輝く鉱 物が道の袖に点在している。どこかで同じような場所を通った ような気がした。 「そうだ、ファイナルファンタジーに出てくる幻光河からグア ドサラムに向かう道がこんな感じだったかな。巨大なサソリの 化け物なんかがいるのだろうか」  奈々子が僕のワンルームマンションに遊びに来ると、二人で よくファイナルファンタジーをやった。午前中にきて翌日まで、 徹夜で連続二十時間くらいやったこともある。 「私もユウナみたいに召喚獣が呼べたらいいのになあ…。ねえ、 祐介は何が気に入ってるの? 私はイクシオンかな」 「奈々子はテレビゲームも好きだったんだ」 「そう、それで、あなた達どうやって出会ったのかしら?」 「僕は奈々子に絵を見に行かないかって誘ったんだ」  僕は誰かと会話していたのだろうか? そんなことはない。 僕は一人でここに来たのだし、山道で人と出会ったのもかなり 前のことだ。そうか、これは一人芝居なのだ。 「ねえ、岡崎さんて絵なんか興味あるのかな? もしよかった ら、今度の日曜に上野の美術館でやってるダリ展にいかないか」 「絵ですか。実は、わたし絵を見るの好きですよ。でもいいん ですか、わたしで」 「もちろんだよ。前売りのチケットを二枚買うから、二人で行 こう。待ち合わせの場所と時間はメールするからさ」  僕は初めて彼女を誘ったときのことを思い出していた。僕は そのとき二十七歳で、奈々子は短大を出て入社した二年目で二 十二歳だった。それから僕らは毎週のようにデートをするよう になった。 「その冬に、彼女を一泊のスキーに誘ったんだ。志賀高原に。 少し遠かったから彼女を迎えに行って、それから徹夜で十時間 くらいかかったけど、奈々子は志賀の林間コースをすごく気に 入って、また一緒に来ようって約束したんだ。その夜、僕らは 初めて結ばれたんだ」 「そう、素敵な思い出じゃない」 「でも、もう奈々子はいないんだ。あの日わき見運転をしてい たトラックに…」  森の木々がなくなり小路は広い草原に出た。そして草原の先 に小さな藍色の沼があった。  草原は膝下くらいの背丈の新緑の草で覆われ、黄緑一色で染 められていて一輪の花も無かった。草を踏みしめて沼に向かっ ていくと、それは遠くから見ていたのよりずうーっと深い藍色 だということがわかった。沼の周りは硬い切り立った岩肌で覆 われていて、いつか写真でみた摩周湖のようだった。  でも、きっと透明度を計る金属板を落としたならば、光が届 く限界まで姿を確認することが可能だろう。摩周湖よりもバイ カル湖よりも透明で深い。きっと世界一透明なのだ。  僕はあの水に足を触れるだけでいいのだ。光さえ届かない深 い深い漆黒の湖底で僕は眠りたいと思った。さらに近づくと、 沼の手前に奇妙な人工物が置かれていることに気づいた。それ はキラキラと輝く花崗岩だったのだろうか? それとも鈍く輝 く金属だったのだろうか? 色や材質を思い出すことはできな いが、形はよく覚えている。  それは、鍵の付いた棺だった。棺を通りすぎる時に、僕はそ の中に『何が入っているのか』どうしても確かめたくなった。 「あの沼に僕自身を吸い込ませる前に、これを開けなければな らないんだ」  僕は棺を触りながら一周してみた。とても頑丈で簡単に開く ような感じではなかったが、鍵を壊せば開けられるような気が した。まわりには、赤茶色をした手のひらより少し大きな石が いくつか転がっていた。僕は石を取り、それを鍵にぶつけて壊 そうとした。 「だめよ。それは開けないで!」  鋭い声が耳に響いた。 「天使って以外と疲れる」  天使Aはドアを開けると、神様に向かってぶっきらぼうに言 った。 「まあまあそう言わないで、こっちに座ってお茶でも飲まない かい?」  神様と呼ばれたあごに長い白髭を蓄えた老人が、やさしそう な声で問いかけた。 「何言ってんのよ。いつもわたしばっかり行かせてるくせに、 わたし、お茶なんか飲みたくない、ご飯にして!」 「まあ、そんなに疲れたって、今日はなんかあったのかい?」 「そうよ、今日は久しぶりにお持ち帰りだったのよ。もう、大 変なんだから」 「ほうー、それは久しぶりじゃのう。えー何年ぶりじゃ」 「そんなに久しくない、だいたい一ケ月に一人は連れて来てる って」 「そうか、まあ、それは大変じゃったのう。食事を取ったら、 しばらく休んだらどうじゃ」 「そうするわ、じゃないとこれからの作業に差し支えるから。 じゃー、神様もあんまりゲームやりすぎて夜更かしなんかしな いでよ」 「私達のレベルの天使の仕事は主に二つだ。一つはあんた達人 間が見る夢の救出だ」  僕は白い机の前で座っていて、机の反対側には、白いふわふ わの布みたいなものに包まれた天使がいた。それは女の体のよ うな気がしたが正確には判らなかった。だいたい天使のイメー ジに合っていたが羽はなくて、しゃべりかたが変だと思った。 「夢の救出って?」 「ほら、あんただって寝覚めの悪い夢みることあっただろー。 妖怪に追い掛けられるとか、空を飛んでたら急に浮力が無くな ってまっ逆さまとか、ああいうやつさ」 「えー、全然判りませんよ。そーいうの見ることあるけど、そ れが何だっていうんです」 「本当に知らないのか? あのな、あれはほっといたら、妖怪 につかまって酷い目にあったり、コンクリートの床に叩き付け られて大怪我したりするんだ。だから、そうなる前に私達天使 が、夢を救出してるんだ。夢の最後で私達がよかったねーって 手を振ってんのを知らんのか」 「いやー、全然知りませんでした」 「まあいいよ、そのうちお前も仕組みがわかってくるから」 「あのー、ひとつ質問なんですけど、天使っていうのは、あの 天使ですか、よく絵画なんかでみる羽が生えていて空を飛べる?」 「まあな、そう思ってくれていいよ」 「でも、あなたは女性なんですか男性なんですか。女性にして はしゃべり方がへんだけど」 「天使に性別なんかあるもんか。お前のイメージを投影して出 てるだけだよ。もっと色っぽくして欲しかったらイメージを創 れ、そうすれば、ほらあのアニメにでてくる松本乱菊みたいに なるから」 「えー、少年ジャンプのブリーチ読んでるんですか?」 「当たり前だ。下界のことは全て勉強しているからな」 「それで、僕はどこにいて何をしてるんでしょうか? まさか、 ソウルソサエティーだなんて言うんじゃないでしょうね」 「うーん、その質問にはすぐには答えられん。その説明は後に してくれないかな」  天使は疲れたから少し休むと言って出ていった。  その部屋は白い壁で覆われた殺風景な部屋で、犯罪容疑者っ てのは、こんなところで取り調べられるんじゃないかと思った。 僕は部屋の隅にあるベットに横になって、もう少し色っぽい天 使のことを想像してみた。  ここでは時間がどうなっているのかが解らなかった。だから、 次に天使が来たときに、どのくらいの時がたったのか検討がつ かなかった。 「おはよう」 「え、あー、あのー、この前の天使さんとは違うんですね」 「やだー、同じよぅ。あなたの天使へのイメージが変わったか らじゃないかしら」 「でも、衣装も違いますよ。なんか秋葉原のメイド喫茶みたい じゃないですか」 「そうよ。あなたがこういうミニスカにして欲しいってイメー ジしたからよ。ほら、胸だってこんなに大きいのよ」  天使はうれしそうに僕のほうを向いて微笑んだ。 「ところで、あなたが来た理由なんだけど、話してもいいかし ら」 「えっ、ええ」 「あなたの夢を地上で修正することが困難だったからよ。たい ていの夢はその場で修正してしまうの、もちろん人間に修正の 記憶は残らないから、あなた達が見たと思っている夢は修正後 のものなのよ。悪夢だってあるけど、あれだって修正前に比べ ればかなりましになってるわ」 「でも僕の夢はひどすぎた」 「そうよ。魂のレベルでの深層意識に傷をおうと、修正は困難 になることが多いのよ。その場合天使に許されているのは、こ こに連れてくることだけなのよ」 「それで、僕はどうなるんでしょうか?」 「そう、ここからが難しいのよ。二つ選べるわ。まず、あなた はその傷を残したままで地上に帰ることができる。つまりこの まま帰るっていうことよ。もう一つは、なんとかその傷を消し て地上に帰ることができる。この二つなのよ。どっちにしても、 ここでの記憶は消されているけど」 「だったら、傷を消して帰るほうがいいに決まってるじゃない ですか」 「それがそう簡単じゃないのよ。傷を消去するってことが」 「傷を消すってどうするんですか?」 「よく聞いて、その方法は一人一人でみんな違うのよ。だから、 あなたの場合で説明するわ。地上時間で約三ヶ月前にあなたの 恋人、奈々子さんがここに来たの。そして、彼女はいまそこに いるわ」 「そこってどこですか?」 「その扉の向こうよ。でも、その扉は天使しか開けられないわ よ」  僕は取り乱していた。 「お,お願いします。彼女に、奈々子に会わせてください。僕 は…、僕は、あまりに悲しくて葬式にもお通夜にも行けなかっ たんだ…」  僕は激しく泣いていた。 「落ち着いて、本当に落ち着いてよく話しを聞いて。いい、あ の扉の向こうは地上での体を失った霊の世界なのよ。彼女の霊 体も深く傷ついていてひどい状態なのよ」 「何がどうひどいんですか? 僕には彼女を助けることができ ないんですか?」 「できるかもしれないし、できないかもしれない。天使にも予 測できないのよ」 「どうすればいいんですか?」 「その前にあなたに地獄の話をするわ。ひとつの例えだけど、 あの扉の向こうに一人のお爺さんがいるわ。彼はもう百年もそ こにいるけれど、来た時と全く変わってないのよ。彼はすごい お金持ちだったのよ。それで今もお金のことばかり考えている の。いろいろな霊がきて話をしても、お金への執着が強すぎて 何も聞くことができないの、あと何百年いや何千年そうするの かしら。その状態こそが彼に与えられた地獄なのよ」 「お金はそうかもしれないけど、愛は、愛はちがうんですよね? 僕たちは本当に愛し合っていたんですよ」 「それが、残念だけど同じなのよ。その愛はほとんどの場合自 分に向いているから、やっぱり強く執着するのよ。ある意味お 金より執着が強いかもしれないわ」 「それで、奈々子を助ける方法は?」 「二人とも、お互いを完全に忘れるのよ」  天使は、奈々子にも話をしなければならないといって出てい った。  天使は、忘れるためならば彼女に会えるといい、僕は会いた いと言った。奈々子も同じ意思ならば会えるらしい。僕たちは お互いを忘れるために再び出会うことができるのだ。でも、出 会った後にどういう結末をむかえるかは、天使にもわからない らしい。お互いを完全に忘れてしまったペアもいたし、今も二 人で愛欲にまみれて、そこに居つづけるペアもいるらしい。天 使にいわせると、それはそれで、やはり地獄なのだそうだ。  僕は出会いから別れまでをよく思い出そうとしていた。忘れ るどころか、細部まで克明に覚えていた、特に二回目の冬に二 人で行った志賀高原のことを。僕等は日が暮れた後のナイター ゲレンデにいて、リフトでゲレンデ上部にでた。そのゲレンデ の上部には照明の届かない林間コースがあった。 「ねえ奈々子、ちょっと林間コースに行ってみようよ」 「えー、だめよ。照明が届かないし暗いわよ」 「それほど奥に行かなければ大丈夫だよ。月も出てるし、雪は 光を反射するから、眼がなれれば以外と明るいんだ」 「じゃー約束よ、そんなに遠くへは行かないって」  そのゲレンデ上部は林間コースの出口に繋がっていたから、 僕等はスキーを脱いで担いで歩いて登った。それほど奥には入 らなかったから照明の乱反射で想像したより明るかった。でも、 昼間でもシーンとしている雪の森の中は、本当に二人の声以外 には、音の無い世界だった。 「奈々子、もう一度ここに来れたならば話そうと思っていたん だ」 「え…」 「この林間コースにあと百回君を連れて来たいんだ。だから、 奈々子の許可がほしい」 「え…、それって…、私がおばあさんになっても…」 「ああ、そうしたい…、二人で毎年来たいんだ」  僕は緊張していて、少し声が上ずっていた。付き合って一年 四ヶ月、初めてのプロポーズだ。彼女の答えを彼女の声で聞く までは不安だった。 「うん…、いいよ。私を毎年連れてきて、約束してね、祐介」  僕は本当にうれしくて、ゲレンデを転がって降りたいくらい だった。  でも、いまは、全てを忘れるためにここにいる。  本当に忘れることなんかできるのだろうか? それが彼女へ の真実の愛なのだろうか?  天使が来て僕に告げた。 「彼女は会いたいそうよ。もうあなたには時間があまりないか ら、覚悟ができたらその扉を開けるのよ。そこに彼女がいるわ。 それから、忘れないで、その扉のむこうでは執着と欲望が剥き 出しになるの。あなたたちが強い快楽を伴ったセックスを求め れば、それは何でも可能なのよ。あなたの本当の愛が試される のよ」  それだけ言うと、天使の姿は消えていた。僕は扉を押してみ た。扉は簡単に開いて、すぐそこに彼女が立って泣いていた。 「ごめんね祐介、ごめんね祐介」  奈々子は僕の胸で泣きじゃくった。 「いいんだ奈々子、いいんだよ。ただ急だったから、僕も生き る気力がなくなったんだ」 「私、あなたに送ってもらえばよかったんだわ。でも、あの日 友達に会って、今度結婚するんだって伝えたかったから、だか らあそこで別れて…」 「僕も仕事があるからなんて言わないで、友達にいっしょに会 えばよかったんだ。そうすれば、きっと奈々子を守ってやるこ とができたんだ」 「ごめんね祐介、私、あの交差点でトラックが危ないなって思 ったのよ。でもヒールの踵が抜けなかったの。そのハイヒール とっても素敵だったから、あなたに見せたいと思ってあの日初 めてはいたのよ。でも、ハイヒールなんてはきなれてなかった から…」  僕は奈々子を思いっきり抱きしめた。天使の話なんかどうで もよかった。僕はここで彼女とずーっとすごしたかった。 「ねえ奈々子、僕らはここでずーっと一緒にすごそうよ。僕ら がそう思えば永遠にここで一緒にいられるって、天使が言って いたんだ」 「だめよ祐介。そんなこと言わないで」 「だって、結婚してずーっと一緒にいようって約束したじゃな いか」 「だめよ。だめ…、もう言わないで、私もそうしたくなってし まうから」  奈々子は僕の胸に顔をうずめて泣いた。会ったときよりも激 しく泣いた。 「祐介は生きているから帰らなくちゃいけないのよ…、そして、 私が祐介を忘れなければ…、祐介は必ず私をさがしに来るから…」 「そうか、僕も天使から聞いたんだ。奈々子は全ての執着や欲 望を脱ぎ捨てて、もっと先の世界に進まなければいけないって…。 でも、僕が奈々子を忘れなければ…、奈々子はここから先には 進めないだろうって…」  いったいどのくらい時間がたったのだろう。僕の胸は彼女の 涙で濡れていて、彼女の髪は僕の涙で濡れていた。二人は裸で 抱き合っていた。 「私の決意は変わらないのよ。ただ全てを忘れる前に、祐介の 全てを記憶したいの。たぶん、これが私と祐介がひとつに結ば れる最後なのよ」  僕たちは、いままでにないほど激しくお互いを求めあい、体 の全てを愛撫した。奈々子の手は僕の性器をいつまでも愛おし そうに愛撫し、僕は奈々子のそこにそっと口づけした。僕らは 本当に一つになるのではないかと思うくらい強く抱きしめ合っ た。奈々子のしなやかな体を抱きしめながら、考えていた。奈々 \子の決意は揺るがないだろう。全ては僕に掛かっているのだ、 僕は奈々子の希望を叶えたいと思った。  天使が立っていた。 「あなた達、どうやら決意がきまったようね」 「ありがとうアンテーヌ、私達お互いのことを忘れることにし たの」  アンテーヌ? あの天使はそういう名前だったのか。僕が聞 いていたのは確か天使Aだったはずだ。天使は一人だけれど、 僕と彼女が見ているのは別の姿なのだろうか。 「決意が固まったなら、さっそく実行しなければならないのよ」  気がつくと、別のもう一つの扉がそこに在った。 「これは転生門と呼ばれるの。あなたたちは、二人でこの扉を 開いて先に進むのよ。入ったら、まずは二人で手を繋いでいて。 そしてこの紐が二人の手のひらを結びつけるわ」  天使は短い赤い糸を出してきて、端を僕と奈々子に握らせた。 その紐の端は僕等の手の平に吸収されて一体化した。見ると僕 と奈々子の間で糸はピンと張っていた。 「この糸は二人が離れてもいつもピンと張っているのよ。中に 入って落ち着いたら、二人は手を離して反対方向を向くのよ。 そしてその方向にずうーっと歩いていって」 「別の方向に歩くって、この糸はどうなるんですか?」 「よく聞いて、この糸はあなた達の記憶でできているのよ。だ から離れても二人を結びつけてピーンと張っているの。でも、 あなた達はとにかく別の方向に歩きつづけるのよ。そして…、 残念だけど、この糸はいつか必ず切れるのよ」  奈々子は天使の話を聞いて、また泣きじゃくった。最後の時 が近づいて心が乱れたのだ。 「奈々子、二人で中に入ろう。僕は君を絶対わすれない。きっ といつか、きっといつか…、どこかでまた遭えるから…」  僕の声も涙で滲んでいた。 「悲しいのよ…、この糸が…、私達の記憶の糸が切れてしまう のよ…、祐介のこと、もう永遠に思い出せなくなるのよ…」 「アンテーヌ」  奈々子は天使の名前を呼んだ。 「お願い、最後のお願いがあるの…、糸の、糸の色を白に変え てほしいの…」 「うーん、これは必ず赤って決まってるんだけど…、まあいい わ、少し上界からは見えにくくなるけど、まあ問題ないでしょ う。じゃあ、白に変えてあげるわね」  天使が言った後で糸は白く変わっていた。 「もうひとつ、中に入ったら二人とも一言も話してはいけない わ」 「それで、どこまで歩くんですか?」 「糸が切れるまでよ。どのくらいで糸が切れるのかは記憶の強 さによるから私にも予測はできないの。でも、やがて切れたと きには、あなたは地上世界へ、あなたは上の世界へ到達してい るはずよ」  僕らは二人でお互いの手が千切れるほど強く握って中に入っ た。白一色の濃密な霧の中で奈々子の顔もよくは見えなかった。 絶対この手を離さないと思ったが、気がつくと奈々子の手は離 れていた。それから僕がどのくらい歩いたのかはわからない。 白い糸は濃密な霧の中に溶け込んで全く見えなかった。  眼を覚ますと、そこは会社のデスクで僕は机に突っ伏して寝 ていたのだ。時計を見ると昼休みの時間を十分くらいオーバー していた。土日にひどく飲んだせいで二日酔いぎみだった。女 の子がお茶を運んできた。 「ねえ、僕ひどい顔してない。いま起きたばっかりなんだ」 「ええ、ほんとにひどい顔してますよ。二日酔いですか? だ ったら、この濃いお茶がいいと思いますけど」  彼女は僕の顔をみて微笑むと、机にお茶を置いた。 「えーと、君なんていう名前だったっけ? ごめん、僕もの覚 えが悪いんだ」 「えー、まだ覚えてないんですか? もうここに配属されて三ヶ 月もたつんですよ。もう、覚えてくださいよ。私、岡崎奈々子 です」 「ふーん、ところで、岡崎さん…、君、絵なんか興味あるのか な? もし興味があるんなら、今度の日曜に渋谷でやってるシ ャガール展にいかないか」 「シャガールですか。実は、わたしシャガール好きなんですよ。 でもいいんですか、わたしで」 「もちろんだよ。前売りのチケットを二枚買うから、二人で行 こう。待ち合わせの場所と時間はメールするよ」 「ねえ神様、あの転生門壊れてたって、報告あったけど。どう すんの? 報告書には記憶の糸の切断端部が発見できなかった って書いてある」 「へんじゃのう、あれが壊れるなんて何年ぶりかのう?」 「たぶん、三十五年ぶりね。二人とも下界に降りてったそうよ」 「ああそうか、じゃー、お茶を飲んだら、すぐに直しておくよ」 「もう、しっかりしてよ。転生門の管理だけが神様の仕事なん だから」 「ああ、それじゃー周辺の記憶補正はよろしく頼むよ」 「もう、やり終えました」 「おお、さすがは天使Aじゃのー、ほっほっほっ」 「じゃー、また夢の見回り行ってくるわ」 「ああ、気をつけてな」
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