純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号020 『残照』 一  佐伯の母が死んだ。  佐伯に聞いたところによると、佐伯の母は自殺をしたらしい。  佐伯の母は居室を持たず、台所が自らの居場所のような人だ ったので、佐伯の母の遺書はキッチンシンクの重曹で丹念に磨 かれた中央に置かれていた。遺書のうえには金環が文鎮のよう に配されており、佐伯の母が結婚生活を大切にしていたことを 窺わせた。僕は細筆で繊細に書かれた、そっくり佐伯の母の人 柄を象徴するような遺書の文字を想像した。遺書の写しをくれ ないか、佐伯にそう頼んだが、パパに相談してみるわと言って 寄越したぎり彼女からはついぞ返答がない。そしてもう二度と、 返答は得られないだろう。  つまり、佐伯も死んでしまった。  昨日のことである。ある私鉄の駅のホームから誤って転落し、 電車に撥ねられたらしい。  佐伯は僕にとってもっとも大切な女性のひとりだった。僕は この悲しみを誰と分かつわけにもゆかない。途方に暮れている。 近しい人を失う、ということは悲しいことだった。祖父やもう ひとりの祖父や、祖母が死んだときには感覚し得ない心の動き だった。  佐伯は雪の降る春に死んだ。その日は四月だというのに雪が 降った。シャクナゲの赤々とした蕾が雪に埋もれていた。そう いう朝のことだった。一ヶ月前に佐伯の母が死んだのと同じ、 純白の雪の残る朝だった。  僕は佐伯の家に初めて遊びに行ったときのことを思い出して いた。  それは中学二年のことで、今からちょうど十年以前のことだ った。  最初は佐伯が僕の家に泊まりに来る話になっていたが、どう いうわけか僕が佐伯の家に泊まりに訪ねることになったのだ。 母に「佐伯さんが家に遊びに来るんだけどいいかな?」と聞く と、母は僕が言い終わらないうちに受話器を手に取り、どこか へ電話をかけた。  その翌日だった。  佐伯が僕の手を握り、小さなノートの切れ端を手渡したのだ。 そこには、昨日僕の母から佐伯の家に電話が掛かってきたこと、 その電話での母同士の話し合いによって僕の家でなく、佐伯の 家に遊びに行くこと変更されたことの二点が記されていた。そ の文字は癖がなく、とても読みやすかった。  佐伯の家は新興住宅地の一戸建て、しかも芝生の庭付きだと いう。佐伯が中学へ転入してきたとき、僕は母からそう聞かさ れた。三戸つづきの長屋に住まいしていた僕は羨んだ。羨む以 前に驚いた。なぜといえば、このあたりで家といえば二層建築 の文化住宅か長屋か、よくて間口の狭い一戸建て三階建て住宅 か、そういう貧乏臭い家ばかりだったからだ。庭付きの家など 数えるほどしかなかった。今思えばそういう地域なのだろう。 古惚けた空家が壊され、まっさらの宅地になる。やがて宅地は 予定調和の美しい景観が自慢の、洒落た住宅街へと再開発され る。その繰り返しがあり、この十年のあいだ、町はずいぶん様 相を変えた。僕の両親が銀行から借金をして購入した長屋の一 棟もなくなった。そこには今、象徴的な造作で構成された、無 機的にさえ感じられる白壁の住宅がいくつも建ち並んでいる。 変わったのだ。十年という月日はそのくらいの変化を容易にも たらす。 二  夏のことだった。鈍色の雲が空を覆う陰鬱な昼下がり。長屋 の通りを抜けて田畑の広がる道を少し歩くと、廃材置場の裏手 に佐伯の住む住宅街があった。  佐伯の家は長屋暮らしの僕には豪邸同然だった。見上げるよ うに佐伯の家を眺めた。あたりは同じような大きなつくりの家 ばかりが建ち並び、どの家も犬を飼っていた。厳しい音のする 鉄門を開けると、深い緑に覆われた石畳があった。佐伯が「こ れは薔薇なのよ」、と教えてくれた。朽ちて色褪せた薔薇のお わりが固い緑の葉のあいだに顔を出していた。青葉の生々しい 匂いが庭じゅうに立ち込めているようだった。薔薇のトンネル をくぐると、佐伯の母が玄関から軽やかにあらわれた。それが 佐伯の母を知ったはじめだった。  佐伯の家には妹がいた。一人っ子の僕にとってその当時、兄 弟という存在は愛すべきものであるとさえ思ってはいたものの、 憎むべき存在だとは想像だにしなかったので、これもまた驚く べき出来事のひとつといえた。佐伯の妹は僕と佐伯の時間をこ とごとく邪魔だてし、自分への関心を惹こうと立ち回った。悲 壮感さえ感じられるほどだった。佐伯の母はそういう五月蝿い 妹をさえも叱ることなく、あるいはそれを邪魔者扱いして虐め る僕や佐伯を叱ることもなく、聖母のごとき微笑みを浮かべた まま家のなかにあった。佐伯の母は、ものしずかな人だった。  中学二年の僕が佐伯の母について知ったのはそれだけではな い。  佐伯の母は佐伯に似なかった。というより、佐伯が佐伯の母 に似ないというほうが正しいのだろう。肌色の白さと肌理の細 やかさこそ遺伝の作用を思わせるものの、佐伯の一重瞼も、色 素の薄い髪色も、薄い胸も、うす桃色の口唇も、佐伯の母には なかった。だから僕は戸惑った。佐伯の横顔を見ていても抱か ない感情が、佐伯の母を一目見たときに、僕のなかに沸々と滾 り来るのがわかった。佐伯の母はその豊満な腹を揺らし、尻を 振りながら僕を玄関に迎え入れてくれた。佐伯が僕の背中に手 を触れていた。ふくよかな肉が眼前で揺れ、細い手先が後背で 滲んでいた。強い日差しが軒先から零れて佐伯の母の腱を照ら した。  それがその夏のすべてだった。  佐伯と僕は恋をしていた。それはふたりがふたりでしかでき ない密事に手を染めることが許されている、ということを意味 している。  螺旋の階段をのぼって廊下の左突き当たり、そこが佐伯の部 屋だった。佐伯の部屋といっても、八畳をふたつに仕切ったあ り、佐伯と佐伯の妹とで分割して使っているらしかった。部屋 に入ると、佐伯はピンク色のベッドのうえに小さくなった。妹 はどうしたんだろう? と僕が聞くと、「きっとお母さんが外 へ遊びに行けって追い出してくれたんだと思うわ」と言った。 佐伯は俯いていた。  佐伯の匂いがする。  僕はその匂いがまた、佐伯の母のものであることを知ってい た。佐伯は佐伯の母の愛用している香水を借りている。僕は佐 伯からそのことを聞かされていた。佐伯の匂いを嗅ぎながら、 僕は佐伯の母について思いを巡らせていた。玄関で僕を迎え入 れた佐伯の母からは母親然としたそれだけではない、女性的な なまめかしさがあるようだった。弛緩した上腕、小さな花柄を あしらった白地のワンピース。そのうえに露わになった腰の肉 の起伏、黒く濃い髪の震え。  僕は佐伯の部屋の匂いを感覚しながら、佐伯の母の微笑みを 空想した。佐伯がなにごと か話していた。本棚にぬいぐるみ が飾ってあり、佐伯はそのぬいぐるみにまつわる思い出を僕に 語って聞かせていた。ぬいぐるみのとなりに家族写真があった。 佐伯と、佐伯の妹と、佐伯の母。佐伯には父親はいないのだろ うか? 喉元まで出掛かった問いを僕は飲み込んだ。 「あっちには何があるの?」僕が佐伯の長い長い話の腰を折っ た。 「え、ああ。あっちはパパとママの部屋よ。みてみる?」佐伯 はコットンのワンピースを着ていた。佐伯が前を歩き、僕が後 ろを歩いた。廊下はうす暗く、微かの光が佐伯の素直な髪を照 らしていた。ワンピースが揺れている。佐伯の母のそれとは異 なり、まだ幼さの残る、稚拙で色気のない肉づきが明らかにな った。佐伯は痩せているな、と僕は思った。  佐伯に導かれるまま廊下を進むと、畳の部屋があった。大き な箪笥、押入れには千鳥や松が描かれている。化粧台の一面鏡 は佐伯と佐伯の肩に半分隠れる僕を映している。昼下がりの強 い日差しがベランダに通じる窓から降り注ぎ、畳の香りが強く 立ち込めていることに僕は気づいた。 「やだ、暑いよね。窓開けようっと。」  佐伯が小走りに窓へと向かうと、肌ざわりの心地良さを思わ せるワンピースが小さく揺れ、佐伯の白くか細い太腿の内がわ が見え隠れした。それから、佐伯の発育途上の小さな尻がコッ トンのやわらかな素材のうえに浮かんでは隠れた。  佐伯に触れたいと思った。これはついさっき佐伯の母に対し て抱いた感情と同種のものだろうか? それとも別のなにかか しら? 胸が苦しく締めつけられるようだった。佐伯の揺れる ワンピースが近づいては遠ざかり、またあの匂いが僕を貫いた。 倒錯が僕のもとを訪れた。 「あら、こんなところで何をしているの?」  優雅な韻律が聞こえた。佐伯が母は二つのグラスをお盆にの せ、螺旋の階段を音を立てずにのぼってくる。高揚のまま微睡 むようにぼうっと放心する僕の前に、佐伯の母がお盆ごとグラ スを置いた。屈む刹那に豊満な乳房の影がふたつ、重量を隠し きれずに垂れ下がっている。肉感が僕を悩ませた。僕は佐伯の 母に一言も告げることができず、佐伯の母が微笑んで僕を下か ら覗きこんだ。濃い褐色の乳首が大きな乳房の先に揺れていた。 佐伯の母はブラジャーをつけていなかった。 「それじゃ、ごゆっくりね」  振り向いた佐伯が佐伯の母に代わって、僕を下から覗きこん だ。 「村上くん、大丈夫?」  その瞳の黒さが、佐伯の母と同じだった。やはり親子なのだ、 と僕はすこし安心した。佐伯のワンピースの襟もまた大きく開 きその暗がりをのぞむことができた。そこにあったのはうす桃 色のささやかな乳首だけだった。佐伯もまた、ブラジャーをし ていなかった。  グラスに入ったジュースを飲む佐伯の肩を掴んだ。僕は佐伯 に乱暴なくちづけをし、佐伯は何か言いかけてそれを言えずに 僕を受け入れた。  僕が抱いたのはいったい誰だったのだろう。 僕が抱いたの は汗ひとつかいていない佐伯の体温を感じない肢体に違いなかっ た。しかしそれは、独善的な僕の観念が生み出した、佐伯と佐 伯の母をごちゃまぜにしたただのまぼろしに過ぎないように思 われた。不安も欺瞞もなく、僕と佐伯は交わった。佐伯の薄い 陰毛のむこうには永遠があり、僕はそのすべてを望み見たいと 欲望したのだった。  そしてそれは実現した。  海綿が感覚したのは佐伯であり、佐伯の母のようでもあった。 佐伯の首すじに顔を埋めると、皮脂のにおいがする。佐伯も汗 をかくんだな、と気づいた。僕の若い怒張はその瞬間いっそう 硬さを増した。たちまち人間の手の及ばぬ爬虫類のように佐伯 の窪みに分けいっては、ぬらぬらと濡れた赤みを現したりした。  それは破滅への脈動のように十四歳の僕には思われた。僕は なにかを失ってしまうのでは今まで見たことのない自分自身の 身体の蠢きと、佐伯の不細工に歪んだ顔があった。佐伯のつる りと窪んだ腋が露わになっていた。  僕は佐伯を抱いている。  僕は佐伯を抱いているのだ。  そう何度も念じた。熱い滾りがじわりと沸きおこる。僕はう めく佐伯の鮮やかな桃色の唇を貪った。 「いやあっ!」  佐伯の叫ぶ声が部屋中に谺した。佐伯の母にも聞こえただろ うか。僕はとっさに佐伯と交わっていた幼い茂みを引き離した。 中学二年の僕にそれをやるだけの知識がなぜあったのか、今と なっては不可思議で仕方がない。佐伯の恥骨のあたりに白濁の 液体がぶちまけられた。それはまぎれもなく僕のものだった。 僕は仰向けに佐伯と肩を並べて呼吸を荒らげた。佐伯が僕の手 を強く握り、僕に抱きついてきたので、僕は佐伯の尻の肉の膨 らむあたりをそうっと撫でた。  どのくらい眠っただろう。目覚めると佐伯が僕に覆い被さる ように眠っており、ふたりには丁寧にタオルケットがかけられ ていた。佐伯のちいさな乳首の滑らかな感触を腹のあたりに感 じた。いつも冷たい佐伯の手が汗ばんで熱く火照っていた。  茜色の残照は一日のおわりだった。  淡い橙いろの光が窓から差し込み、一面鏡に反射して僕はの 目に射し込んだ。佐伯の寝息が首のあたりに吹きかけられ、そ の心地良さのなかで、僕は佐伯の母のことを考えていた。この タオルケットをかけてくれたのはきっと佐伯の母だろう。佐伯 の母は裸のふたりを見てなにを思っただろう。あの微笑みを思 い浮かべた。  背徳の茜色が僕を染めた。  僕の頬を染めるこの残照の強さは、佐伯の母の印象でもあっ た。僕はこの背徳を、この夕暮れのたび、つまり毎日身につま なければならないのだろうかと思い至り、愕然とした。目を閉 じた。残照は瞼をも染めていた。決して翳ることのない十字架 のように僕から離れようとしなかった。  僕の上腕を握っていた佐伯の手がぎゅうっと力強くなり、長 く伸ばした爪が僕の日に焼けた肌にぐいと食い込んだ。ふたり を見守るのはやはり残照ぎりだった。あたりはしんと静まりか えったまま、世界は僕と佐伯のふたりぎりしか存在しないよう だった。  佐伯を起こして佐伯の部屋に戻った。佐伯の部屋は僕が想像 していた女の子の部屋とはかけ離れており、色味の少ない地味 な部屋だった。僕と佐伯は余韻を背負ったまま、薄暗い部屋の ベッドにくっついて座っていた。佐伯の妹はまだ家に帰ってき ないようで、家は静寂を保ったままだった。 「ね、村上くん。下降りたほうがいいかな」 「下りてみる?」 「結構長い間眠っちゃったけど……ママ、見に来たりしなかっ たかな」 「大丈夫だよ、見つかったらタダじゃ済まないかもしれないし。 きっとその場で起こされるだろ」 「そ、そうよね」  僕と佐伯は、窓から夕暮れる町の風景を見た。むかいの家の 奥さんがゴールデンレトリーバーに引っ張られて散歩から帰っ てきたところだった。「佐伯、痛くなかったか」と僕がつぶや くと、「ちょっとね……ちょっとだけ」と佐伯がこたえた。佐 伯の妹がゴールデンレトリーバーにちょっかいを出している。 「妹帰ってくるね。さ、ママのとこ行こ、村上くん」  部屋から駆け出てゆく佐伯は、さっき僕が触れた佐伯とは別 のひとのようだった。 三  中学三年、高校と年を重ねるごと、佐伯は変化していった。 高校二年のころには、佐伯の身体は柔らかな脂肪と筋組織に包 まれ、女性的な優美さを纏っていた。佐伯の肉体はやがて硬さ を失い、丸みはすべてを受容するような弾力を湛えていた。僕 は佐伯への自分自身の思いを信じるようになっていた。二人は 共に成長し、いくつかの感情を共有した。佐伯の一重まぶたが 折り重なり、まつ毛が震える。その横顔を僕はいつまでも見つ めていたいと思った。そういう佐伯への感情があるいは、僕を 盲目にさせていたのかもしれない。  しかし、佐伯の美しさはやがて僕だけのものではなくなって いった。大学へ進むと、佐伯の美しさというのは見違えるほど に成熟していった。何人かの男が佐伯を掠め取り、そのあと僕 は佐伯を取り戻した。そうして振り子のように時が流れるあい だ、佐伯の厚ぼったい瞼は艶かしく装飾され、かつてまっすぐ だった四肢の線は流麗な曲線で彩られ、肌は毛穴ひとつ見つか らぬ繊細さで静脈を透けさせた。佐伯は僕のなかで唯一の存在 となっていった。手の届かぬところに佐伯は居り、時折僕のも とへと降りてきてくれた。佐伯がどこかへふらりと消えてしま うたび、僕の胸は痛んだ。  十年という月日は佐伯を変え、僕を変えた。僕の生育したあ の長屋が高級住宅街へと変貌したように、幼い佐伯は成熟した 大人の女になり、それを独占したい、と僕は何故か強く願った。 僕はいつも、佐伯を求めていた。あの夏、田畑の牧歌の道を歩 いて佐伯の家へと向かったように、佐伯を欲望していた。  しかしそれは同時に、自分自身の生を否定することでもあっ た。あの夏の日、僕が佐伯を抱いたときに感じた破滅の脈動、 すべてを無にする射精の感触。僕は佐伯を羨んでいたのではな いか。僕は佐伯と僕を結びつけた十年前を思い出していた。長 屋住まいの貧乏な僕、庭付きの大きな家に住む佐伯、美しい母。 十四歳の夏から十年間、ずっと。羨望の感情ひとつで僕は佐伯 を追い続けたのだろうか。  だとしたら、僕は愚か者だ。  大学を卒業して二年が経った夏、佐伯と会うことになった。 佐伯は大学卒業後、外資系の証券会社に勤めていた。僕は司法 試験を受験していたが上手くゆかず、大学卒業後に司法浪人と なった。佐伯は相かわらず何人かの男と付き合い、たとえば小 鳥が枝先ですこしの時間羽根を休めるように、僕とよりを戻し たりした。  佐伯は付き合っていた男と別れたばかりだと言った。 「俺の部屋に来るか」 「んー、あたしの部屋でよくない?」 「そうだな」  夏の午后だった。その日差しの強さを僕は覚えていた。佐伯 とふたりぎり、濃い橙の残照、音のない世界。僕にとって夏の 残照の印象とは、佐伯の母の絶対的な微笑み、見えざる眼差し、 それらに他ならなかった。この部屋にまで佐伯の母は来ていや しないだろうか。佐伯はあの日、自分の母親が彼氏と裸で抱き あって眠る自分にタオルケットをかけたことを知っているのだ ろうか。僕は佐伯を幸福にできやしないのではないか。僕は赤 みを帯びたその日差しをおそれた。 そのころ、佐伯も僕も親元を離れて一人暮らしをしていた。部 屋に上がると、佐伯は部屋着に着替えると言い、僕を残して脱 衣所へと消えた。佐伯の部屋は、あの日と同じ匂いがした。佐 伯の母の匂い。僕はハッとした。佐伯の母、違った。そこに立 っていたのは佐伯だった。小さな花柄をあしらったワンピース を着ていた。夕映えに花柄のワンピース、僕はのよく知る情景 の断片がひとつに重なった。 「そのワンピース」 「ん、これ? かわいくない?」 「ていうかそれって」 「もしかして覚えてんの? そ、ママのお下がり。捨てちゃう から欲しいものがあったら持ってけって言うからさ。コレもら っちゃったんだ。まだ着ててもおかしくないでしょ?」  それはまぎれもなく佐伯の母のものだった。あの日、あの夏 の昼下がり。佐伯の母が着ていたワンピースだった。僕は言葉 を失った。  中学二年のあの夏、ワンピースからこぼれた乳房の丸さ。全 身を貫く感覚、初めて触れた肌の温さ、ふたりで分けあった熱。  佐伯がお茶を入れてくれた。それもあの日と同じ光景だった。 うつろに立ち尽くす僕を、下から佐伯が覗きこんだ。あるいは それは、佐伯の母のようにも思われた。ワンピースの襟口から こぼれそうな乳房の膨らみがふたつ覗き、球形の影が僕を引き 寄せた。 佐伯はいつからこんなに母親に似たのだろう。  佐伯……僕は二の句を告げるのをためらった。 四 「実は俺さ、お前のママとセックスしたことがあるんだ。不倫 ていうのかな、ちょっと違う気もするけど。本当に最低だよな、 俺。しかも恋人の母親を寝取るなんてな。  初めて関係を持ったのはそうだな、はじめてお前の家に泊ま った日だよ。あのころお前のパパ、家に帰ってこなかっただろ う? ママに聞いたんだ。別居してるんだって言ってた。あの 日もそうだった。夜中、トイレに起きたんだよ。そしたらリビ ングにママがいた。真っ暗なソファに座ってさ、酒を飲んでた よ。『あ、こんばんわ』って思わず挨拶しちゃってさ。そした らゆっくりとした足取りでこっちに来てトイレまで一緒に来て くれたんだ。今思うと酔ってたんだろうな、ママ。俺が用を足 してるのにドア開けてきてさ、『ホラ隆くん。こっち向いて』、 なんて言うんだぜ、びっくりだろう。まだ中二だったからそれ がフェラチオだなんてわかりっこなかったよ、おまけに小便し っぱなしのきたないコレをさ、口に含むなんて正気の沙汰じゃ ないと思ったけどね。けど、めちゃくちゃ気持ちよくてさ、こ んなことお前に言うのはおかしいってわかってるけど……その 日の昼にはじめてしたセックスより何倍も気持よかった。仕舞 いにはAVの女優みたいに『フフ、隆くん若いわね。ホラ、まだ こんなに元気』、とか言っちゃってさあ。今思い出すとウケる よね。  ていうかさ、お前ママにそっくりになったな。今まで気付か なかったけど、今日そのワンピース着てるのを目の当たりにし ちゃうとさ、もう黙ってられなくなっちゃった。あのころは全 然似てなかったのにな。  許してもらおうなんて思ってないよ。これバレちゃうとお前 とも終わり、ママとも終わりだって。そのくらい理解してるん だからさ。  でもなんでこのタイミングで言っちゃったんだろうな、俺。 お前がママに似すぎちゃったのがいけないんだよ、そうだよ。 あのころは全然似てなかったのにな。俺、わかんないんだよ。 何のためにお前と付き合っていたのか。なんにもわかんないん だ……」  佐伯が僕や佐伯の母を許したかどうかは定かではない。少な くとも僕は殴られもせず、殺されもせず、その日追い出される こともなく、あまつさえ佐伯は僕を求めたのだった。僕が佐伯 を抱くのは数年ぶりだったが、佐伯の小さく震える肌の繊細さ は、中学二年のあの夏と少しも変わっていなかった。僕は佐伯 のうなじに顔をうずめた。やはりあの夏と同じ、皮脂の匂いが 鼻を刺した。  佐伯の母が自殺したのはその数日後だった。  佐伯の母から僕にはなんの連絡もなく、「ママ、死んじゃっ た」という電話を寄越したのは佐伯だった。その日は白光の太 陽がおぼろに浮かぶ寒い朝で、佐伯の実家に駆けつけると、未 明に降り積もった庭木の雪が朝靄に溶けるように雫を滴らせて いた。蝋梅の淡い黄色の蕾が開きかけていた。  佐伯はママに何を言ったのだろう。  佐伯は何も語らなかった。僕は佐伯に合わせる顔がない。だ から佐伯の母が死んでからも、僕のほうから会おうとは思わな かったし、そんなことすべきじゃない、と思っていたから。し かし、なぜか佐伯が会いたがった。そのたび佐伯は「こっちお いでよ」と僕を誘い、僕は言われるまま赴いた。  僕の住む二階建ての安アパートとは異なり、佐伯は都心の新 築マンションに引っ越したばかりだった。僕は司法浪人、佐伯 は外資系の証券会社。大きく変化したものと、悠久のまにまに かわらないものがあった。  佐伯はすでに僕が体験したあの夏の佐伯ではないように思わ れたが、佐伯は同時に、僕の知るあの日の佐伯の母そのもので もあった。なにも変わっちゃいないじゃないか。僕は嘆息した。  そうだ、なにも変わっていない。  なにも変わっていない。佐伯と僕の絶対的な関係性も不変の ままだ。佐伯はいつもいい家に住み、僕はいつまでも貧乏臭い 部屋のままだ。僕と佐伯と、佐伯の母。ずっとそうだったでは ないか。僕はあの母娘の両方を欲望した。どちらも求めずには いられず、そのどちらも僕から逃げてゆく。すすんで禁忌をお かした僕が社会的罰を受けるのも当然のことなのだ。司法浪人 といえばまだ聞こえはいいが、要は無職だ。これは不条理でも なんでもなかった。僕は母娘を愛欲するという禁忌のみならず、 人をひとり殺してしまったのだから。  かつて僕の家族が住んでいた長屋の連なる地区を、佐伯と歩 いた。僕がすべてを明かし佐伯の母が死んでから、佐伯と会う のはそれがはじめてだった。佐伯は母を失ったとは思えない溌 剌さで僕の腕をたぐり寄せ、ふたりはまるで恋の熱病に浮かさ れた十代のカップルのようだった。佐伯の重たそうな瞼の奥が きらりと光った。長いまつ毛が光を遮り、スロウモーションで 閉じては、また開いた。「佐伯は僕をどうしたいのだろう」、 などと考えていた。 「あたしだって似たようなもんだからさ」佐伯がつぶやいた。 ちょうど僕の旧家のあったあたりに差し掛かったころだった。 「あたしだって似たようなもんだからさ。隆がいるのに『もう 別れる!』とか勝手に宣言して他の男についてっちゃったりし てさ。どっちもどっちじゃん?」 「いや、でもさ」 「ね、結婚しない?」  佐伯の目から大粒の涙がこぼれた。ひとすじ、またひとすじ。 両の目から止めどなく溢れている。純白の結膜が血に染まって いった。僕は佐伯の瞳に映る自分の姿を認めた。僕の目に映る 佐伯の姿を、佐伯はどういう思いでみているだろう。僕は佐伯 に掛ける言葉を探したが、ついに見つからなかった。  結婚をしていれば佐伯は死ななかっただろうか。僕が自分の 生を破滅させるという目的ではなく、自分の生のために佐伯を 幸福に導くという選択肢を選ぶことはそれとも、どうやったっ て生涯叶わぬ幻想だったのだろうか。  それぎり、僕は佐伯に言葉をかけるができない。抱きしめて 佐伯の体温を感じることも、もうなにもできない。すべては失 われてしまったのだ。  町の夕景のなかに僕は立っていた。佐伯の母を思わせるには あまりに弱々しい、冬の午后だった。冷たい風が頬を吹き抜け、 ひとすじの赤みを帯びた光が僕の目を貫くように射し込んだ。 見慣れない家の庭に、八重咲きの薔薇が咲き始めていた。(了)
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