純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号019 『待つ恋』  ★はじめに★  休日の朝は、不忍池の周りでジョギングしています。  家の近くまで戻り、小さなお寺の境内でストレッチしてから、 ポッケのコインで自販機のコールドドリンクを買い、涼しげな 泉のかたわらでベンチに座って喉をうるおします。  いつもそこで竹箒を手になさり、ご老僧が石畳を掃いていら っしゃいました。  なんどか言葉をかわすうちに、うちとけて語られたのですが、 ご老僧には子どもが無く、夫婦養子をとられたとのことでした。 「寺はとうに継いでもらったもんで、庭掃除くらいせにゃ、暇 でいけませんわな」  わたくしも身辺のことまで、あれこれ話すようになりました。 「夫や子どもたちを送りだしてから、くだらない小説を書くの がささやかな楽しみなんですけど、休みの日はみんながパソコ ンを使いたがりますので、こうして走ることにしています」 「ほう、作家でいらっしゃいましたか」 「いえ、とんでもない、好きで書いてるだけです」  先週の土曜日のことです。 「今日はゆっくり拙僧の話を聴いていかれませんか。小説には ならんかなあ」  ご老僧はそうおっしゃり、わたくしはご本堂で、誰にも話し たことのないという終戦後の体験を聴かせていただいたのでし た。  たいへん感銘を受けたものですから、すぐにとりかかり、思 うところがありまして、ふたつの物語を綴っていきました。  そして昨夜、金曜の夜更けに仕上がりました。  ご老僧に読んでいただきたくて、今朝はジョギングせずに、 まっすぐ境内に参りました。   ところが、いつもの時刻を見計らいましたのに、蝉が鳴きし きるばかり、ご老僧の姿がありません。  後を継がれたご住職に伺いましたところ、癌を患ってらした のに延命は固辞されて、昨夜亡くなられたというのです。あの とき、ご老僧は末期の思いでいらしたことに、わたくしは漸く 気づきました。  未熟な作でお恥ずかしい限りなのですけど、それはいつもの ことですし、みなさま、このふたつの物話を読まれてどう思わ れますか、そこが知りたいものですから、投稿してしまうこと にいたします。  ひとつ目はご存じの方もいらっしゃいますでしょう、古い書 物に残されました物語、そしてふたつ目は、もちろん仮の名に はいたしましたものの、ご老僧の体験談です。    其の一 いにしえの男と女の物語  時は平安、処は吾妻路の道の果て、そのころの婚姻は妻どい 婚と申しまして、男が女の家に通うものでございましたから、 夜ごと別の女と添い寝いたしますことも、決して稀なことでは ございませんでした。  しかし、この物語の男は毎夜ひとりの女のもとに通いつめて、 たいそうな睦まじさでございました。ですから男の宮仕えが決 まり、都へ旅立ちますときには、どれほど別れを惜しみました ことでしょう。  それから三年、男は来なくて、女は待ちわびておりました。  ひたすら待つ恋ほどつらいものはございません。みめうるわ しい女でございましたから、独り身では心細かろうと男たちが 言い寄ってまいります。  いかんともしがたい悩ましさから逃れたかったのでございま しょう。女はとうとう、求婚者のひとりに「今宵、逢わん」と 返事をいたしました。  ちょうどその夜のことでございます。戸を叩く音がして、 「開けたまえ」  待ち望んだ声でした。けれど、もうじき別の人が訪れますの に、どうして開けられましょうか。  戸板を隔てて、  「みとせの月日を待ちわびて、ただ今宵こそ」  女は苦しみ抜いた歳月を思い、きっぱり男に告げたのでござ います。 「新枕すれ」  男は戸の向こうで、なにを思っているのでしょう。ややあっ て、彼は静かに語りかけてきたのでございます。 「幾たび、おんみをいとおしみ、時を経たことか」  板越しに耳を傾けながら、女の脳裏には彼との愛の営みが次 から次へと走馬灯のように浮かびあがり、待つ恋に疲れはて沈 みこんでいた胸のうちに、かつてのときめきが甦ってまいりま す。 「わがせしがごと、うるわしみせよ」  別れのことばに女はうちのめされました。  なんということでしょう、彼女は今、あの至福のときを、か けがえのない人を、永遠に失おうとしているのでした。  踵を返す気配に、女はこらえきれず、戸を開け放ちました。 「ともにした夜も、ひとりの夜も、昔より、心は君に寄りにし ものを」  けれども男は振り向いてくれません。女は悲しくて、男を追 いかけました。  暗雲が垂れこめて、雑木林が吠えるようにうごめいておりま す。いつしか背中すら見えなくなっても、女は夜道を走りつづ けていきました。  どこまでも、どこまでも……。  そしてついに、とある泉のほとりで倒れ伏してしまったので ございます。  雲間から差す星明かりを頼りに、女はしばらく、暗い清水の こんこんと湧きいづるさまに見入っておりました。ふと気づき ますと、かたわらに岩がございます。その形はまるで墓碑のよ うでした。   女は指を噛み、その血で岩に、一文字ずつ、思いを記してい ったのでございます。  あひ思はでかれぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消えはてぬ める    わが身の浅はかさを恨めしく嘆きながら、そこで女はこと切 れたのでございました。    其の二 浩次と弓奈の物語  昭和二十二年、モスクワ郊外のエラブカに収容されていた捕 虜たちを乗せ、もくもくと煙をなびかせる黒い列車が、晩春の ロシア、シベリアの荒野を抜けて、東へ東へと走りつづけてい った。   ナホトカの桟橋で、入港してくる帰還船を目にしたとき、彼 らにはその姿がどれほど頼もしく感じられたことであろうか。  舞鶴港で故国の地を踏み、戦友たちと別れてから、浩次は米 原を経て東海道本線で東京へ向かった。  座席に着くと、彼は胸のポケットから写真を取りだして、窓 外の景色を眺めては、また写真に見入っていた。戦友たちが次々 に他界していくエラブカのラ―ゲルで彼を支えてくれたのは、 ほかでもない、この妻の笑顔だった。 ――弓奈、早く会いたい。  妻は空襲を生き延びてくれたろうか、浩次にはそれだけが気 がかりであった。  そうして、彼は東京駅から省線電車に乗り替えて、とうとう、 上野駅に降り立ったのである。  西郷さんを仰ぎみると、銅像の背後には、沈まんとする太陽 が赤く燃えていた。東京の、しかも上野の山の夕映えは格別な ものだなと浩次は胸が熱くなった。  ところがどうしたことだろう、弁天様に差しかかるころから、 重たげな雨雲が暗く垂れこめてきたのだった、今にも不忍池に 落ちかからんばかりに。  いくら闇夜といえども、浩次の生まれ育った街のこと、よも や迷うことはあるまいと、公園から先へと歩を進めてみたもの の、どれだけ焼かれたというのだろう、しだいに人家がまばら になってくる。こうまで空き地だらけに変わり果てては方角の 見当さえつけようもなかった。  弓奈は無事でいてくれるだろうか。  道を尋ねようにも人の影すらない。不安にさいなまれ、右に 左に惑いながら、彼は真っ暗な夜道をさまよい歩いた。  この惨状で我が家だけが残っているとは思えない、もしかし たら弓奈も……いやそんなことがあってたまるか、きっと弓奈 は疎開して、あるいは逃げ延びて、難をまぬかれてくれている。  そう祈りながらも、住まいはもうないだろうと、浩次が半ば あきらめかけたときのことだった。  雲間から星明かりが漏れて、雷撃で裂けた松の影が俄かに浮 かび上がってくる。我が家の庭の古木にちがいなかった。  歩みいると、運よく焼け残ったのだろう、浩次の家はそこに あり、しかも誰か住んでいるようで、灯りも洩れている。  妻であってくれたなら――やつでの植込みのまえで立ち止ま り、「ごめんください」と呼びかけてみる。 「どなたでしょう」  かぼそく掠れてはいるものの、うれしいことに、忘れもしな い弓奈の声だった。 「俺だ。今帰った。変わらずにいてくれたのだな」  けれども戸が開き、久しぶりにまみえた妻の姿に、浩次は度 肝を抜かれた。目は窪み、頬はこけて、かつての面影なぞ、今 はかけらもない。  弓奈はなにも言わずに、さめざめと泣くばかり、浩次も暫く は暗澹とした思いがして、なにも耳に入らなかった。   やがて、夢にまで見た人の痩せ細った青白い顔を両手で包み、 「いったいどうしてこんなことに。ああ、捕虜にさえならなか ったら」  親指で妻の涙を拭いながら、浩次が無念の思いをことばにす ると、弓奈は漸く泣きやんで、 「お帰んなさい。あなたのほうがお疲れなのに、ごめんなさい ね。中でゆっくり話しましょう」  夫を座敷に迎え入れ、かくなる事情を語りはじめたのだった。  あの空襲の夜も、どうにか爆撃をまぬかれました。けれども、 終戦の後こそ恐ろしい世の中となりました。  ご近所の方々は離散して、たまたま残った人々の心もすさみ ましたのか、浩次さんは戦死なすったと決めつけて、色に目の 眩んだ男たちが群がってくるのです。それでも住まいを移しま してはあなたとはぐれてしまいます。それだけは厭でございま すから、この地に残り、いくら甘い言葉で誘われましても、た とえ玉と砕けても瓦にだけは伍すまいとこうして忍んでまいり ました。  けれど秋から冬、春過ぎてまた夏を迎えましても、あなたは お帰りにならず、お逢いできる日を待ちわびて死んでいくのか と思いましたら……でもそんな悩みもとうとう晴れました。そ れがなにより、うれしゅうございます。  そうしてひとしきり、たがいの苦難を語らってから、夜は短 いと慰め合い、ふたりで寝床に臥したのだった。  長旅の疲れがどっとくる。窓を開け放したからか、夜どおし 涼しい風が吹きこんでいた。久しぶりの我が家で、浩次はぐっ すり眠り……夜の明ける頃、さすがに寒くなってくる。風の音 で目覚めていくと、顔にひんやり水しずくがこぼれて落ちた。  雨漏りかと見上げてみたら、明るみかけた蒼い空に、しらじ らと下弦の月が懸かっている。  屋根はない。浩次は飛び起き家を見渡した。扉は朽ちて倒れ かけ、崩れた壁のあたりには草が生い茂り、床は朝露にしとど 濡れ――凄まじい廃屋なのであった。  それにしても、弓奈がいない、どこへ行ってしまったのだろ う。  ここは、ほんとに我が家なのだろうか。しかし、こんなに荒 れ果ててはいても、家の造りは、祝言を挙げてから一年余り、 弓奈と暮らしたあの平屋と、なにひとつたがわない。  このありさまでは、弓奈はもう死んでいるのではないだろう か。  浩次はふらふらと表へさまよいでていった。  こんこんと湧きあがる水で顔をすすごうと、泉のほとりに立 ったとき、浩次の目は傍らの岩に釘づけになった。  まるで墓碑銘のように、血文字の歌が浮かんでいる。  さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か      ★あとがき★  ご老僧の体験談を伺いましたとき、伊勢物語二十四段が思い 浮かびました。其の一に綴りました物話です。  待つことの苦しみから逃れようとして、わが身を滅ぼしまし た平安の女、そして、死ぬまで待ちつづけて、霊魂になっても 逢瀬を果たそうといたしました昭和の女、読み比べまして、み なさまは、どうお感じになられましたでしょう。  この世に悔いを残しながら逝った、いにしえの女の魂が弓奈 に宿り、死しても添い遂げたいという前世の夢が千年余りの歳 月を越えて叶えられたように、そんなふうに感じてしまいます のは、わたくしの思いすごしでしょうか。  奥さまの御魂、そして異郷に散った戦友たちの霊を弔います ために出家なさり、ご老僧は生涯独身でとおされたのだそうで す。  本堂でお話を伺いましてから、ご老僧とふたりで、こんこん と湧きいでる泉のほとりに立ち、わたくしも傍らの岩に掌を合 わせました。 「この岩、ご覧になっても、血の和歌なぞ見えんだろうな」  確かに石碑のような形はしていても、青っぽい灰色をした岩 肌のどこにも痕跡はありません。 「雨で流されたのでしょうか、それとも、この清水で拭われた のですか」 「いいや、誰が見ても、初めっから、なあんも書かれてないん だそうだよ」  一瞬、蝉が鳴きやみ、凍りつくように冷たい風が泉のほとり に舞いまして、岩の上にひとしずく、清らかな水がこぼれまし た。 「今も、この目には、赤々と三十一文字が見えとるに」
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