純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号010 『肉の牢獄』  人間は歩く汚物である。こう書くと大抵の人間は反感を抱くだろう。自分が汚物だと言われて嬉しい者などいない。  しかし似たような事を言った偉い人がいて、それが仏陀だった。確か、「人間は歩くクソ袋に過ぎない」とか、そんな事を言ったのだったと思う。  こうなると人間は愚かなもので、ああなるほど、よくはわからないけれど、仏陀が言っているなら一理あるかもしれない。きっとその言葉にも深い意味があるんだろうねえ、となる。大方の人間は大してその言葉の真意なんて知らないし、僕だって知らないのだが、人は世間的に認められている人の発言となると、途端に態度を変えてしまうものらしい。  なんだろう、これは。多分集団に帰属することで、安心感を得ているのだろう。思考の放棄。よくあるパターンだ。僕はその手の発言をする人間に吐き気を覚えてしようがないのだが、なんだかその方が多数派なようで、口には出せずにいる。  子供の世界でよくある事。テレビに出ていたアイドルの発言を神の言葉のように信じる事。なんだか極端な事を言う事に共感を持つ思春期。自分で作った言葉は誰にも響かないのに、影響力のある誰かが放った言の葉は、瞬く間に人を洗脳していく。  言葉ってのは、いい加減なものだと思う。  いい加減なものを使って、みんなで崇め奉っている。日本の政治家なんかだと、老子だとか荘子だとか、中国の思想家を出すのが好きなようだ。それぞれの集団にはそれぞれの崇拝されるべき存在があって、それを崇拝しないものは白眼視せられる。子供達が崇拝する存在をあざ笑う大人達も、大してよくわかりもしないものを、右ならえで崇めている。崇め奉る対象が変わるだけで、やっている事は同じだ。どいつもこいつも、屑ばかり。どうにもこうにも、そういう輩が多すぎて困る。  他人の言葉を借りるというのは非常に簡単で、虎の威を借るなんたらと、基本的には同じである。例えば誰かが一生懸命スポーツに勤しんでいたとしよう。その人にはその人なりに一生懸命に努力して、得た考えがある。だが、何も知らない人間がそのスポーツの有名人の名を出して、誰それはこう言っていたなどと、その人の得た考えとは相反する内容を口にすれば、それでその人の努力は全て否定されてしまう。かといってこの余計な口出しをした人間が何かできるかといえば、当然、何もできはしないのだ。何も出来はしないのに、他人の言葉を借りて勝ち組を気取っている。そういう人間が、溢れ返っている。そうする事が、常識となっている。まったく、馬鹿げた世の中だ。  アマチュアの小説家の間などではもっとひどくて、適当に知っている有名な(できたら相手がすぐにはわからない、少しマイナーなくらいがベストである)小説家の名前を出しておけば、それで済んでしまう事も多い。 「この作品は○○さんの××という作品に似ていますね」 「完成度という点では、(プロ作家の)○×さんの方が圧倒的に高いと思うのですが」  こんな事を書いておくだけで済んでしまったりする。ネットを見ているといそういう事はたびたびあって、ああ、なんだ、こいつら、いじきたねえなあ、などと思ったりする。  僕は最近自分が壊れてきている事を感じる。  だからこそ先に書いておくのだが、この話は僕の話である。  適当な話だ。適当につないだ言葉で適当に物語を作る。  単語は無数にあり、それらの組み合わせによって得られる不可思議な印象と適当に練られた構成によるストーリーで他人を楽しませようとする。僕は、そういう事をしている。  小説家を志しているのだ。  僕はまだ若い? 若いといってもいいだろう。うん、多分まだ、若いといえるのではないだろうか。一応、まだなんとか、二十代の前半くらいではあるし。普段は中高生向けの文章など書いているのだが、もともと向いているのがもう少し上の年齢層である事は自分でわかっているし、まあ、もっと年を食ったら年齢相応の方に移動して小説を書いてみようかと思っている。僕は最終的に文章でごはんが食べられればそれでいいので、特に慌てる様子もない。暢気なものだと思う。  自分で自分の能力を磨き、世の中と戦っていく事は、大変だ。世の中は、足の引っ張り合いだ。誰かが出ようとすればみんなで引っ張る。僕は、そういう汚れをずっと見てきた。  会社でとりとめのないデスクワークをこなしていたら、不快な考え事をしてしまっていたらしい。最終的には「人間は考える葦である」という、かのパスカルの言葉まで思い出してしまい、僕は混乱する。仏陀は人間をクソ袋であると言った。パスカルは葦だと言った。どちらが正しいのだろう?  僕の考えとしては人間はロボットと変わらない。考える力など持っていない。昆虫と同じだ。だが、どうも世の中の人間はパスカルの言葉の中で「考える」という部分が好きならしい。しゃらくせえ。考えてきたのは少数の偉人達であって、大抵はそのおこぼれに預かってきたデク人形ではないか。だからパスカルの言葉で「考える」という部分は、実は重要ではない。重要なのは、「人間は葦である」という事である。さて、世の中の人達、例えば僕と同じ職場にいる紅一点のこの髪の長い愚鈍な女などは、どう思うだろう? 僕は考えた。 「ほら、光(ひかり)君、またボーっとしてる。お姉さんは、お見通しよ?」  バカ女が。僕は思った。  この女にいきなり仏陀とパスカルの話をしたらどう思うだろうか。僕は浅学――小説を書くのに、学問は必要なのだろうか? 必要だと思う輩もいるらしい。しゃらくせえ。上品ぶりやがって――な為、マイナーな偉人というのは、知らない。せいぜい、パスカルと仏陀である。だがこの茶髪の女だってせいぜい、パスカルと仏陀であろう。こいつに聞いたら、どちらが正しいというだろう? いや、こいつの事だから、両方正しいに決まっているに違いないと言いだすだろう。僕は考えた。  仏陀の言葉は、さして考えるまでもない。問題はパスカルの言葉だ。「人間は葦である」。どういう意味だろう? 普通に考えて、根が生えて動けなく、弱々しく揺れ動き、それでいて己の弱さを隠すために群れ集まる、下卑た存在であるという事なのだろうか。よくわからない。そういう事にしておこう。二つを合わせて考えてみる。なるほど、わかった。人間はクソ袋で、葦である。なんだ、簡単な事じゃないか。僕は少し落ち着いた。 「光君?」 「ああ、はい」  僕は気の無い返事をする。  この広大な宇宙とかいうものの中で人間の活動など一切無意味だ。無だ。人間は宇宙の鼻クソみたいなもんだ。活動が無意味だとすれば、人間は肉でできた葦であるという事になる。その肉の中には排泄物がたっぷりと詰まっているのだろう。クソの詰まったソーセージ。そうして、ソーセージは腸でできているんだからちっとも不思議な事じゃないんだと気が付き、噴き出しそうになる。ははは。おもしれえ。 「ちょっと光君、聞いているの?」 「あ、ああ、は、はい」  真っ直ぐな瞳で詰め寄られ、僕はしどろもどろに目の前の先輩であり女性である社員に返事をした。僕は少し詰め寄られただけで、こんな風にしどろもどろな口調になってしまうのだ。臆病なのだろうか? 嫌だ、嫌だ。これは本当の僕じゃない。 「何か悩んでいるんだったら、遠慮なく私に相談しなさいよね」  そうして、今時流行らないウィンクなどしてみせ、さっと踵を返すと、自分の席に戻っていく。決して緑色に見える事の無い、それでいて蛍光灯の光に映えた、栗色の短めの髪をさっと揺らしながら。  彼女の名前は、実美美琴(さねとみ みこと)という。  美琴さんは、何かにつけて僕の世話を焼こうとする人だ。彼女は僕の世話焼き係を任命されているから、当然と言えば当然なのかもしれないけれど。新婚ホヤホヤだというのに、こんな僕みたいな陰気な男の世話をしなければいけないだなんて、残念な事だなと思う。  僕の仕事は医療器具のシステム構築、運営である。学生時代それなりに努力した事もあって、即戦力となる事ができた。ニッチな市場のニッチな職場の為、競合が少ない事もあるかもしれない。なんにせよ、僕はここで仕事をしている。システム関係はこの会社の利益の核となる為、僕はそれなりの重責にいきなり立たされてもいる。まあ、なんとかやっていけてはいるのだけど。ただ、僕には一つだけ苦手な事がある。  人間が、苦手なのだ。他人と会話する事。触れ合う事。そういった事が苦手で、しょうがない。会社側でも僕のコミュニケーション能力不足とかいうものは深刻だと思っているらしく、その事で僕はしょっちゅう怒られる事となっている。与えられた仕事は終わらせているのだから、何も文句を言われる筋合いはないと思うのだけど。  しかし、テレビでシステム関係の仕事の人間が同じマンションの女性を性奴隷にしようと思って監禁、警察の捜査から逃れる為に殺害したなどというニュースをやっているのを見ると、僕もそんな風に変になってしまったらどうしようと、不安になる。あんまり人間性というのが、成長しない仕事なのかもしれない。  特に僕を叱るのは美琴さんで、美琴さんを見ていると随分子供っぽいなと思ってしまう事も多いものだから、余計僕はこの仕事に不安を覚える。美琴さんは僕より一つ年上だから、二十三だろうか? もう、二十四になっただろうか? なんにせよ、彼女は相当に子供っぽい。時々、猫みたいにのどを鳴らしたりする。食事前が多いようだ。おなかが空くと喉が鳴る。そんな人間がいるのだろうか? 彼女は、猫なのだろうか? 人間として最低限の健康で文化的な生活を享受する権利もないような、脆弱な存在なのだろうか? 権利? 権利とはなんだ? 辞書で調べればたくさん出てくる。偉い人に聞けば答えが聞ける。だけど僕にとって、今この瞬間に使いたい「権利」とはなんだ? 言葉は、言葉は不完全すぎる。何も表現できやしない。自分の気持を言葉に変換するときに、必ず誤差が生まれ、僕は言葉に引きずられ自分の考えを変更していかざるを得ない。考えた通りに、言葉を生み出せないのだ。小説家の才能が、無いのかもしれない。  僕は小説家を目指している。その間に社会人としての責任感と人間性を十全に身に付け、汚物に等しい他人に迷惑をかけることなく生きていくのが僕の理想である。どうして僕が汚物に迷惑をかけたくないかといえば、迷惑をかければ汚物と関わる時間が増えるからである。誰だって薄汚れた肉の塊と関わるのが好きなわけじゃない。ソーセージの葦同士で群れ集まりたいと、願うわけじゃない。僕みたいな人間がいても、至極当然だと思う。人間は、色々なのだ。世のリベラリストが一昔前に叫んだ「多様性の尊重」とかいう言葉と同じくらいには、僕は当たり前に存在していた。  パソコンに向き合う作業が今日も終了し、システムエラー修正と今日の分の新システムの作成――これは僕が美琴さんに持ちかけて始めたプロジェクトで、現在のシステムをより見やすく、使いやすくするように変更するものであった。美琴さんに持ちかける為の原案やサンプルは、僕が用意した――が終了すると、僕は美琴さんと一緒に会社を出る。帰り道が、一緒なのである。 「ふぁ~、今日も疲れた!」 「そうですか」 「明日もまた仕事だよ~。でも今日は、飲んじゃお☆」 「そうですか」 「何言ってんのよ。あんたも来るのよ?」 「そうですか」 「そうそう。付き合いなさい! 人付き合いは、大事よ?」 「そうですか」  僕はそれで美琴さんと一緒に夜の街へと向かう。途中、こんな話をした記憶がある。 「最近、行方不明者が多いらしいですよ。体の一部を忘れていく」 「それ、隣の県とかの話でしょ? N県とか、Y県とか」  それから美琴さんは今まで起こった同一犯による連続誘拐事件の県名を適当に挙げた。どれも僕達の住んでいる県からは離れている。 「まあ、そうですけど。犯人が自分の住んでいる県で犯罪を犯すとは限らないわけですし」 「全然、私たちには関係ないわよ。いざとなったら光君が守ってくれるしね」  それから僕の方にそっと肩を寄せ、好奇心いっぱいの表情で、 「三十人くらいだっけ? ここ一カ月での、失踪者」  僕は落ち着いて答えた。 「わかっているだけで、ですよ。……犬の餌もあげなきゃいけませんから、さっさと行ってさっさと帰りましょう」 「あんた犬なんて飼ってたっけ?」 「ええ、最近飼い始めたんです。ですからさっさと行ってさっさと帰りましょう」 「いーや、今日は朝まで飲むわよ。今日という今日は飲みまくるわ」 「明日の仕事はどうするんですか」 「一緒に有給取ろうよ」  破天荒な冗談に内心飽きれていた僕だったが、美琴さんの目つきが艶っぽい事に気付き、僕は驚いて言った。 「美琴さんは新婚じゃないですか」  すると美琴さんは僕の右手に自身の左手を絡めてきて(美琴さんは僕の右側を歩いていたのである)、 「最近、旦那と上手くいってないんだよね」  僕達は手を手と手を繋いだまま夜の街へと消えていく。  架乃日乃舞(かのひの まい)は完全なる暗闇の中でひっそりと呼吸をしていた。年の頃は、十七、八くらいであろうか。年頃の娘でも――年頃の娘は新陳代謝が豊富なので年頃の娘だからこそというべきか――薄汚れはする。少女は一応、体を洗ってもらってはいた。だがそれは洗車をするように勢いよく冷水を浴びせられるだけで、恐らく台所からホースを引っ張ってきてかけているのだろうが、汚れを落とすのに十分とは言えなかった。湿気を含んだ汚れはねちゃねちゃと体にまとわりつき、やがて乾き、少女の体に蓄積されていく。冷水の勢いは強く、兄は転げまわる妹の様子を見て楽しんでいるようであったが、舞にとってはそんな事は気にならなかった。ひとしきり放水が済んだ後、舞が這いつくばって何事かやっているのを見て、男は笑う。 「そうそう、人間の体は三分の二が水分でできているんだ。水を大切に。無駄にしちゃあいけない。大事な事だよ」  大きくなったらパパと結婚するんだと話す夢見る少女にかつて両親が行った直接的な性行為を録画したビデオで教えるように、棒きれを振り回すだけで勇者になった気になれる男の子に徹底的な鉄拳制裁を与えるように、それくらいに当然には男は少女に正しい事を教えていた。世界を正しく認識する事は時に残酷だ。目を瞑って知らないふりをしている方が、よっぽどいい。だが人間というのは愚かなもので、自身の知性とかいうものを頑なに信じているのだ。パンドラの箱に最後に残ったものは希望である。この言葉にもまた色々な解釈があるらしいが、その中の一つにこんなものがある。人間の一生とは苦しんで死ぬだけだが、神がその人間を躍らせる為に、偽りの希望を残したというのだ。しかし、架乃日乃舞にとってはその仮説はどうも正しくないようである。少女は既に生きる事に一片の希望も持っていなかった。  少女は首輪を付けられ、全裸でその部屋で飼われていた。少女の目は見えなかった。横に長い黒い布で目隠しをされていたのだが、それには視力を奪うという本来の意味が無かった。五年も前にアイスピックによって眼球を潰されていたのである。絶望の学習、というものがあるらしいが、既に少女は部屋から出ようとしてさえいなかった。ただ時が過ぎるのを待ち、兄が帰ってくるのを待つ。少女は悪臭にまみれていたのだが、部屋自体が十分に悪臭にまみれており、その上少女は鼻が鈍感になってしまっており、何も感じなかった。少女はゴツゴツとしたプラスチックの床で四つん這いになり、蹲るようにしている。ずっとそうしていると、人間なのか犬なのか無機物なのか、わからなくなる。だが結局のところ、少女は既に自分への関心も失っていたため、全てがどうでもよかった。  やがて扉が開き、その部屋に誰かが入ってくる。グニャグニャとした足音が響き、兄の帰宅を知らせる。 「ただいま」  少女は暗闇になれていたせいで、聴覚だけは鋭くなっていた。兄以外に誰かがいる事を感じる。 「今日はお前に、お友達を連れてきてあげたよ」  それは本当だろうか? 壁の材料になってしまうのがオチだと思うのだけど。少女は不思議な感傷を覚えた。  実美美琴は柔らかくて堅い色鮮やかでくすんだ光沢のある床の上で目を覚ました。ひどく頭が痛く、状況をいまいち把握できない。うつ伏せに倒れていた美琴はその床の臭いを嗅ぎ、肥料のようだと思う。かつて純粋だったころに嗅いだ事のある臭いだった。 「まったく、飲み過ぎですよ。美琴さん」  白い光の中で美琴は辺りを見回す。頭がグラグラとして、どこから声がしたかさえも、よくわからない。世界が回っているのだ。美琴は部屋の壁を見る。奇妙な凹凸ができていた。胴体だけの、随分と精巧にできたマネキン人形が壁一面に並んでいる。床には丸太のような肌色のプラスチックが整然と並んでいる。その奇怪な部屋の中に会社の後輩、架乃日乃光はいた。  光は笑みながら、白っぽい椅子に腰かけている。既にスーツを脱ぎ、橙色のジャケットに黒のTシャツ、ジャケットと同じ色のスウェットという私服に着替えられていた。靴は脱いでいない。黒の皮靴を履いている。 「ここは……?」  極めて基本的で単純な質問が美琴の口から出た。光は笑んだまま、 「ここは僕の部屋ですよ。あなたはこれから悪い夢を見るんです」  それから光は寂しそうに席を立った。  美琴の脳が徐々に覚醒してきた。辺りを鮮明に把握できるようになる。光の言葉も、鮮明にその耳に入ってくる。 「どう思います? この部屋。全部外で狩ってきた、肉でできてるんですよ。人間の女の肉で、できてるんですよ」  天井もライトの部分以外は全て肉で覆われていた。どこの部位を使っているのかはわからない。天井は、人間のミンチ肉でできているのかもしれなかった。 「まあ、現状を理解するのは難しいかもしれないですね。今のあなたには」  光は残念そうに言った。 「早くあなたの希望という希望をそぎ取ってしまいたくて、仕方がないのですけど」  実際、美琴はそれほどの恐怖を感じてはいなかった。光は何か自分を悪い冗談にでもかけようとしているのではないか? 立ちあがってそう言おうとしたのだが、体が動かない。自分の両手両足が床の肉に空けられた穴に、金属製の手錠で拘束されているとわかったのは、今頃だった。それに、頭が妙に痛い。 「よっこいしょっと」  のんびりと光は掛け声をかけると美琴の左脇腹を蹴り上げた。右の爪先をあばら骨の隙間に通すようにして蹴られたその蹴りは美琴の体を浮かばせるのには十分であった。 「ごほっ、ごほっ」  あまりにもありきたりなむせた声が自分の口から発せられた事に美琴は驚きを覚える。それくらいには唐突な蹴りであったのだ。 「うーん」  光は美琴の反応をほとんど見ずに、辺りをきょろきょろと見まわしている。そうして部屋の片隅にあった、どこにでもあるような仕事机から、銀のケースを持ってくる。光はそれを美琴が見える所に置いた。そこに入っていたのは、何かを拘束する黒い道具だった。正方形のプラスチック製のもので、片側に大きな穴、もう片方に針でも通りそうな小さな穴が空いている。  光はそれを慣れた手つきで左の人差し指に付けた。 「知ってます? 爪と皮膚の間って、一番痛覚神経が多いんですよ」  実際それは本当だった。自分自身を苛む事の大好きだったサドマゾの連続殺人鬼でさえ、爪と皮膚の間に針を通すのは、嫌がったのだ。そうして大きい方の穴から美琴の人差し指が通され、固定されると、光はもう片方の小さな穴から、文字通り針を通し始めた。 「あぐっ」  美琴の中に異物が侵入してくる。それは美琴の体中に冷や汗を流させるに十分なものであったが、美琴は体が拘束されており、動く事もできない。 「い、痛い!」 「大丈夫、痛くない、痛くない」  光は躊躇せず針を突き刺していく。 「痛い、本当に痛い! や、やめて!」 「大丈夫、痛くない、痛くない」 「あぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁ!」 「麻酔したんだから、痛くないと思うんだけどなあ」  光は不思議そうな顔をしている。既に針は七割方埋め込まれていた。 「ほら、僕達の働いている会社は、医療器具の会社じゃないですか」  美琴は光が何を言っているのかわからなかった。 「簡単なものですよね。ちょっとデータを改竄しておけば、架空の出荷扱いにして、こうして好きなものを手に入れる事ができるんですから。この部屋を作るために、プラスチネーションっていうね、人間の有機物をプラスチックに置き換える薬を手に入れたんですよ。あなたをここに招待する薬もね。良い部屋でしょう? ペットだっている。見てください。あれが僕の買っているペットです。かわいいでしょう?」  美琴は針が自分の中に入ったまま、ぼんやりと示された方を見る。すると、先程は気付かなかった場所に、全裸で鎖に繋がれた少女の姿があった。 「ほら、あのバカ犬もあなたがここに来てくれて喜んでますよ。見てください!」  鎖で繋がれた少女、架乃日乃光は自慰をしていた。別に何の事はない、兄からお友達が来た時にはそうしてお出迎えするようにと仕込まれたからに過ぎないのだが、右の人差し指と中指を小陰茎に当てて擦っている姿というのは、美琴にとっては衝撃的であったらしい。呆けたようにして見ている。 「ほら、いつまでも見ていてもしようがありません。あなたにはあなたのやるべき事があるんですから」  そう言うと光は美琴の足の拘束具を外す。それから、天井にぶら下がっていた紐状のもので両足を縛ると、両手の拘束具も外し、普通の、警察官が持っているような手錠にする。壁に付いている滑車で両足を縛っている紐を引き上げると、美琴は逆さ釣りになった。 「美琴さんは子供っぽいからなあ。少しその馬鹿な脳味噌が治るように、血を送り込む事にしましょう」 「ちょっとあんた、ふざけんじゃないわよ! 早く下ろしなさいよ!」 「ああ、うるさいなあ」  光は肉で覆われた台所から白い布を持ってくると、猿ぐつわにして噛ませた。  それから光は美琴を放置したまま、台所で料理を作り始める。といっても、冷蔵庫から肉を取り出し、焼いただけである。 「ほら、舞、食べるか」  既に自慰を終え辺りを汚していた自らの妹に対して光は骨付き肉の食い残しを献上した。それから光は肉の隙間から覗いているケーブルをパソコンに繋ぎ、何かを打っている。 「小説を書いているんだ」  光は親切にも美琴に教えてあげた。 「この部屋にいるとひどく落ち着くんだ。どうしてだろうね?」  光はその理由を自分でもよくわかっていなかった。ただ、人間は極度の緊張状態に陥ると脳がいつもより覚醒するというのを聞いて、知ってはいた。死刑囚などは、結構良い芸術家になるようだ。人間は孤独になって死ぬ気にならなければ良い芸術を作り出す事はできないのだろう。自分が今いる環境というのはそういう緊張を生み出すのに適した環境のようだった。 「モーツァルトの鎮魂歌でもかけようか。パソコンの音じゃスピーカーを通しても大して良い音質にはならないだろうけど」  しかしかけられたのはデスメタルだった。 「なんだかなあ。ロックンロールってのは音が安臭すぎて嫌だ。最初のうちはいいけど、聞き飽きるとすぐにごみになってしまう。ジャンクフードみたいなものだね」  それですぐにその曲は演奏を中止せられた。結局光は黙々と何かを書いていく。  ここで美琴は自身の身の危険に気付いた。いや、既に助かる可能性が低いという事はわかっているのだが、切羽詰まった身の危険を感じたのである。 「なんだ、今頃気付いたのかい。血が上ったら人間は死ぬんだよ」  逆さ吊りで長生きするには顔に穴を開けてもらうしかない。血が流れ出るようにしないとうっ血して死んでしまうのだ。 「生きたいかい」  美琴は逆さまになりながらも必死に首を縦に振った。 「どんな事をしても生きたいかい」  美琴は交換条件によってアイスピックで頬に穴を開けて貰った。光はそっと美琴の結婚指輪をその薬指から抜き取った。 「言い忘れてたけど」  光はそれを美琴の血が滴る場所に置いた。そうして手際良く、一緒に持ってきていた鋏で衣服を切り裂き、全裸にしながら、言う。 「そろそろお腹が痛くなる頃じゃないのかな?」  光は美琴に密かに下剤を飲ませていたのである。舞と違ってたっぷりとした乳房が既に露出せられていた。濃い茂みも、既に出ている。光は楽しそうに美琴の腹を擦る。  その時美琴が思っていたのは自分が愛した男の事であった。美琴は夫と喧嘩をしてはいたが、それはある種の倦怠期であり、誰にでも起こりえる事だった。ただ、それでも女の不貞といえば不貞である。ただ一人を愛する事ができなかったのだ。誰でもそうなのだが。精神的結び付きだけなら男女である必要がない。性行為を行う必要がない。脳味噌を二つ合わせて一緒にしてしまった方がまだましだ。精神的結びつきでないならそれは愛ではない。つまるところ愛など初めからこの世に存在しない。みんな自分が一番大事なのである。それが罪なのかどうかは知らない。この世は不条理だ。誰にでも唐突に罰は訪れるものである。  人間は首吊りで死ぬと肛門の筋肉が緩み排泄物を垂れ流すという。美琴は生きていたが、肛門の筋肉は下剤の力にとうとう抗えなかった。噴出した暴力的なまでに茶色の半液体半固体は、美琴の体を伝っていく。そうして既に血に染まっていた指輪は、さらに美琴の体内にあったものによって穢された。舞が美琴の下までやって来て、その排泄物を啜っている。希望も無いのに、肉体は生きていく為に必死なのだ。  後日光は逮捕される事になった。美琴が失踪する日に、会社の女社員に、いつも元気の無い光を元気付ける為に飲みに誘うと話していたのである。他人と接触しようとしない光の事を色々と考えた報告書なども見つかった。光は暢気に塀の中で小説を書いている。舞は精神病棟に収容された。どちらも死ぬまでそこを動く事はなかった。
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