純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号008 『脳が頭蓋をヒカキ、夢を見た』  ガンジス川を夢見ていた。  あなたが見たことのない、異邦の川だ。  とろけたチャイのような色合いで、流れはゆるやかに、向こう岸というより彼岸、と呼びたくなるほどに川幅は広い。川岸では野焼きで死体を処分する空き地と、半病人を寝かせるだけの塔と、餌はまだかとうずくまる野犬の集団。  国中の道徳者たちが、この川に死ぬことを夢見ている。死期を悟った老人、病人は遠路で足を削るようにしてこの地にたどり着き、死ぬのを待つのだ。  毎日毎日、塔からやつれほそった死体が布の担架で運ばれてくる。焚き火の上に乱雑に落とされ、火の粉を上げて肉の香りを際立たせる。見やれ、犬どもは舌をたらして喘いでいる。熱にやられたのではない。餌を待っているのだ。  ガリガリの死体はカリカリの死体になり、適当にヒカキ棒で砕かれてガンジス川に流される。すかさず四足が腕だのわき腹だのに噛み付き、炭化した皮膚を撒き散らしながら道端へ引きずり、真昼間から焼肉としゃれこんでいる。牙を突き立てると、肉汁が滴り、それがたまらないと、犬の舌が踊る。  川への埋葬を望んだ死者の魂はそれを知ってか知らずか、二度三度、息継ぎをして、そのままとぷんと沈んで、見えなくなった。  聖なる川のよどみにごった流れに身を任せ、この魂の穢れを取り払いたいと、あなたはいつも考えている。まるで『まだ取り返しがつくのだ』というように。  ベッドで眠れないのは昔からだった。吾太は天邪鬼な性分を隠して生きてきたが、こればかりは治らない。十日に一回は、『ベッドで眠りたくない』という欲求がむやみにふくらみ、ソファや、硬い床の寝袋、揺り椅子、とかく、きちんとした寝具で眠ることを体が拒んだ。自分は眠ることより、まどろむことが好きなのだ、と気がついてからは眠る際に匙を握るようになった。かつて、溶けた時計を好んだ画家がそうしたように。  それで生まれてこの方二十数年はうまくやってきたのだが、ここ三ヶ月ほど、それではどうにもならなくなってしまった。もともと浅かった眠りはより浅く、五分ずつの細切れの眠りばかりを欲するようになり、慢性的な不眠の上に、インドのガンジス川などという、今まで空想したこともない土地のことばかり夢に見る。  今日も眠り心地を考えて買ったシステムチェアから上体を起こし、人間工学に基づいた設計、というのは、人間を分解したり接合したりして設計したのだろうか、などと取り留めのないことを考えた。  夢を六回見たから、三十分の睡眠、もちろん、その間、一瞬ではあるが覚醒しているので寝不足は少しも解消されない。しかし今日はもう眠れないだろう。人間工学に基づいていない電気スタンドを点けようとすると、なるほど、手が届かない位置に銀色のスイッチがある。不親切であった。  夜の新宿を歩くのは好きだ。ふらふらと行き先も分からずに歩いていると、かたことの女が「マサジ、マサジ、三千円」と擦り寄ってくる。片手を挙げてそれから逃げると、すかさずノースフェイスのダウンを着た若者などが「おっぱい、セックスはどうっスか」などと話しかけてくる。こいつらは、こんなところで、こんなことをやるために、毎日飯を食っているのだろうかと考えると、泣き出したい気分になって思わず眉間にしわがよる。すると大抵の人間は慌てて離れていくものだから、適当な角を曲がって同じことを繰り返す。ぺらぺらになってアスファルトに張り付いた吸殻の数を数えて、百の倍数になったら次の地点へ移り、ゲロを道端にぶちまける女を探すふりをしながら近くのガードをくぐり、隣のガードと自身の軌道でこよりを作るように歩く。  喉の渇きと足裏の痛みを覚えるころ、気温は一層低くなり、この世の厳しさの一端を嗅ぎ取ったような気分になる。ジョギングで苦しい時間を堪えて走り続けるように、己のノルマをストイックに果たさねばならない。男の二人組を十五、けたたましい声の外国人を三十、一人ぼっちの黒人を四人、四つ以上衣装袋を持っているホームレスを六人。見つけるまで歩く。  あなたの意識は常に思考と視界と夢をうろついていて、たとえ目を開けて歩いているからといって、あなたとてあなた自身の行動を把握しているわけではなかった。乾いた唇で「ガンジス川へ行きたい」と何度もつぶやき、それが本心の欲求ではなく、ただの呪文であるということを何度も意識する。  ガードをくぐったとき、頭の上で、やたらめったらと、大きな音がすることで気がつく、始発の時間。帰らねばならん、とあなたは一見無軌道な歩みを一直線に最寄り駅へ変えるだろう。足の裏の痛みは一層増し、寒いと感じてもそれは単なる生理現象であり、あなたの心はもはや寒さを感じようともしない。全身を塗り潰す疲労と、それが呼び込む眠りを貪るために、ホームへ。  「ガンジス川へ行きたい」とまたつぶやき、そこであなたは電車の来ないレールを覗き込んではならない。ライトの当たらぬ影も、錆の浮いたレールも、コンクリートの地面も、すべてが一様に泥炭色をしていることに気がつくのだ。ガンジス川がチャイカラーならば、東京メトロはコーヒーカラーだと思え。  ガンジス川の流れは多くの沐浴者と、死を尊ぶ者を呼び込んだ。あなたは慌てて周囲を見渡す。電光掲示板にゆるやかな流れ。目に入ったのは、色鮮やかなトマトカラー。グリーンとレッドで打たれた『人身事故』の文字。  再び覗き込まなくてはならない。泥炭色の空虚なレールを。金属質の長い溜息が聞こえる。明かりが、遠くから差し込む。白線の内側へお下がりくださいという声よりも、脳内に響く声に従うべきである。  ここがあなたのガンジス川なのだ。
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