純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号001 『姫と女童と、虹を吐く雷虎』  雨音が止んだので、女童のイクは、降ろされたままの格子を 少し持ち上げて、空を見た。 「虹が、出ております」  まばらに白雲が浮かぶ青い空。雨露が、きらり、と輝く。  時の流れの中で、永安時代の中頃、王朝時代と呼ばれる頃が もっとも近く想起されるだろうか。山背の地に措かれた永安の 京。その、左京の北辺りにある寝殿造りの東対屋に、女童のイ クはいた。仕えるのは邸の主で藤原大納言の娘、凛乎姫。見目 にも麗しく、利発で聡明ながら、少しばかり奇異なる性癖を持 ち、裳着を済ませてからもまるで男を寄せ付けず、父、大納言 をほとほと弱らせている。イクはイクで、そんな姫君を敬愛し、 陰に日向に尽くすのだった。  晩秋の長雨は、二晩掛けて、からと乾いていた都(まち)の土 道を潤した。ひんやりとした風に、碧草の匂いを込めて、しと、 と、しと、と降りそぼっていたのが、ほんの半刻ほど前になっ て、ぼたぼた、ぼたた、と、はっ、と驚くほど強く、大粒の雨 滴で、邸の屋根や、木々の葉や、庭の土、池を叩き暴れたのに は、さしものやんちゃで鳴らした藤原大納言泰成女、凛乎姫に して、ひっ、とひと時、声を失わせてしまう。雨は、にわかな 激しい雨は、雷の乱れ落ちるさまを予兆させる。雷は、藤原の 氏筋にとって恐るるべき禍とされ、それは、血に伝わる恐怖の 記憶といっても良いほどに感情の奥底の染みこんでいる。その ことは聡明快活な凛乎姫にして例外とはなり得ない。今更、天 神様のお怒りもお恨みもないものだろうと思うものの、氏の者 の貴賤も老若も、誰もその恐怖に打つ勝つことは適わずにいる のが偽りない実情なのである。  特に凛乎姫は、裳着の前後の頃を板東にあって数年を過ごし ているが、やんちゃに任せて一人、草原に馬を奔らせた折、に わかに降り出した雨から逃れんと駆けるすぐ脇の大樹に落雷を 受けるという体験をしている。それが恐怖という心情の疵とな っていることも、要因としては大きい。  小さな蝋燭の明かりが二人を密やかに照らしている。昼のこ ととはいえ、雨に締め切った室内に明かりは薄い。凛乎姫は、 昼の御ましにいて、ゆったりと脇息に身をもたせ掛けている。 常時に女房を侍らすことを好まない姫は、三人の女房だけを北 側の庇間に控えさせ、要のない時には、それぞれの房で寛がせ るようにしている。要があればイクを遣いに出させれば済むこ とであり、あまり女々しく寄り添い合うのは好みではなかった。 結果、イクと二人きりで過ごすことが多くなり、それが二人の 間の、主従を越えた信頼、絆となっていく。 「イク、こちへ」  普段からは思い及ばないようなか弱い声音でイクを呼ぶのは、 珍しくもあり、少しばかり頬を強張らせ、眉間をしかめさせて、 目を伏せているなど、いじらしくも可愛らしい。 イクは、姫の傍に寄り添い、膝立ちにそっとその肩を身体ごと 包む。脇息に身を持たせる姫が振り向いて、肩に寄せられた小 さな手を、両手で包んだ。  イクは、賢しげに、ゆっくりと言葉を煎じて、姫を諭す。 「雷は、天然の理ゆえに、闇雲に恐るることはありませぬ。御 霊は御霊を恐るる者の心に宿るもの。御霊を信じる者の心が写 す畏れの現し身ゆえ」 「うむ」  凛乎姫とて、無闇に御霊を恐れることの愚かさは承知してい る。余所の姫君や女房たちと比べても、姫はずっと、見えてい る世界の内と外とその境界のあることを心得ている。そのこと には、イクも感心している。板東の自然のうちに育った時期が、 その心のありようを創ったのかも知れない。その凛乎姫にして、 頷きはするものの、顔色にいつもの冴えは見られない。  イクは、姫の頬をそっと撫でる。柔らかく暖かな頬は、雨の せいか、少しだけ湿り気を帯びている。と、姫が背を寄せ、し ゃなり、と袿の裾が衣擦れ、イクはその身の重みを胸に感じる。 姫が幼いイクの胸に顔を埋め、瞳と、瞳とを逢わせる。 「おや」  一刹那交わり合った視線を、イクは不意に外す。 「どうした、何ぞおるのか」 「おりまする」  イクは、屋根裏の梁の、南の端の方をじっと見ている。 「何がおるのじゃ」 「まぁ、少しお待ち下さいませな」  ふふっ、と微笑むイクの流し目は、童女とは思えぬ艶を醸す。 「そちらの御所望されるは、何にございまするか」  イクは、屋根裏に向かって話しかける。 「ははぁ、さようにございまするか」 「なんじゃ、誰と話しておる、妾にも教えぬか」 「ふふ、それはまた……」  イクは、優しく咎めるように、人差し指を姫君の脣に当てる。 「お遣いにございますよ」  イクは、姫の傍を立ち、高坏に盛られた甘い菓子を取った。 「これを御所望の由に」 「遣いとは、いったい誰の」  ふふっ……、すっと細める瞳は大人びて、深い慈悲を称える ようにも、また、扇情的に心を揺さぶるようにも見える。凛乎 姫は、その時、その瞬間、イクのその瞳に魅惑される。気付け ば、イクの小さく整った愛らしい表情がすぐ鼻先にまで近づい ている。  イクは、鼻の先の擦れんばかりのところを躱して、姫の耳元 に脣を寄せる。 「雷虎です。天神様のお遣いで、天空を轟かす雷鳴は、雷虎の 咆哮なのですよ」 「なに、そのようなモノが」 「大丈夫、恐れることはありませぬ。雷虎は甘い物が好物なの です。実は、声は大きくとも、まだまだ小さな子虎なのですよ」 「そう、なのか」  姫は、狐に鼻を摘まれるような、不思議な表情である。 「そうなのです」  間違いはないという確信の籠もった声で、イクが応える。 「ふむ、イクがそう言うのなら、そうなのだろう」  姫の応えも、真正直である。 「見えますか?」  イクが、一番南側の庇の裏に通る梁を、指さす。 「昏いの」 「柱の蔭です。ほら、子猫ほどの大きさの、薄墨彩に夜闇の縞 が」 「おぉ、おるの」 「では、菓子を投げてやりましょう」  イクは、手にしていた菓子を、下手投げに投げてやる。それ は、放物線を描いて闇の中に消えていった。 「喰っておるな」 「喰っていますね」  二人は寄り添って、何もない、屋根裏を見守っている。 「食い終わったようです」 「うむ」 「今日はこれで帰ると申しております」 「そなたは、雷虎の言葉が分かるのだな」 「拙は、かねてより、鬼の判官に師事しておりましたゆえ」 「式神か」 「式鬼と申しまする」 「そうであったな」 「はい」  京の夜には鬼の総大将がいる。ただの噂とも、誠もつかぬ風 聞が、昨今の都を席捲している。その噂の主が、鬼の判官。検 非違使の追補尉にも匹敵する、闇の権威を持つ鬼と謂われる。 イクは、その鬼の総大将の弟子だといった。そして、自分も鬼 だと言った。その言葉の真相はいかにか。姫は、都の権力者の 娘である凛乎姫は、それをいかに思うのか。  姫は、それ以上屋根裏を見ることもなく、イクの小さな胸に 身体を預ける。イクは、そんな姫君の肩をそっと抱き、頬を重 ねあう。 いかばかりの時間が流れたか。あるいは、ほんの一瞬きの間の ことだったのかも知れない。 「雨音が止みました」  見て参りましょう、と言って、イクが格子の方へ小走りに駆 ける。閉じられたままの格子を少しだけ、開けてみる。真っ白 な光が差し込む。  身丈の低いイクは格子を開け切ることは出来ない。その小さ な隙間から、外を覗き見る。 「虹が、出ております」  庭を囲む築地塀の向こうの、もっとずっと向こうに、うっす らと七色の彩光を浮かばせる、天空へ向かう柱がそびえて見え る。 「虹か……、ならば、市が立つな」  すく、と立ち、嬉しそうな笑顔を浮かべて、姫がイクの方へ 寄る。姫の瞳にいつもの光が戻り宿る。活き活きと生気に満ち、 正直で、闊達で、好奇心に満ちた、優しい彩の瞳をしている。  イクは、その笑顔を見るのが、何よりも好きだった。 「立ちましょうね」  姫の何を言わんかを見通した言いようである。  いつからそうなったのか、誰が始めたのかは、定かではない が、虹の立つ日には、市庭を立てる。それも虹の立った場所に 立てるというのが、決まり事になっている。といって、もちろ ん、本当に虹の足元など特定できるものではないので、どこか で誰かが場所を決めているのだろうが。前回は、右大臣邸の庭 で行われた。今回は左大臣邸かもしれない。その市庭に、こっ そり出かけようと、姫は言うのである。 「松葉殿に叱られますよ」 「妾を叱ることが、松葉の幸せなのだ」  言うが早いか、姫は着ていた袿を脱ぎ捨てていた。  松葉というのは、凛乎姫付きの古参の女房であるが、姫のお 転婆に気の休まる暇もないと、いつもぼやいている。 「出かけまするか」 「もちろんだとも!」  姫の返事にわずかの逡巡もあろうはずがない。 「ところで、雷虎はあの菓子に満足したのであろうな」 「もちろん。なればこその、虹でございましょう」 「なんと、雷虎は虹も起こすのか」 「雷虎は美しい姫君の笑顔が、甘い物にもまして好物なのです よ」 「それはまた、ずいぶん色好みな神の御使いなのだな」 「雷虎は、美女の笑顔を見ると、嬉しくて虹を吐くのです」  イクは、くすくすと笑んでいる。 「本当なのであろうな、その話し」 「イクは嘘は申しませぬ」  姫は、疑わしげに、イクの瞳を真正面から覗き見る。 「イクの言葉は、全て姫君のために」 「まぁ、良い」  凛乎姫は、男物の狩衣を取ると、袿の代わりにそれを羽織り、 手早く髪を束ね、立て烏帽子の中に納め込む。 「行くぞ」  勢いよく、格子を開け放つ。  真っ青な空に、大きな虹の橋が架かっていた。
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